今回は、第二次世界大戦の重要な一戦となったドイツVSソ連の戦い『独ソ戦』について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
独ソ戦とは
独ソ戦とは、1941年6月にドイツがソ連に攻め込んだことで始まったドイツVSソ連の戦争のことを言います。
結論を先に言っておくと、勝ったのはソ連でドイツは敗北を喫しました。
独ソ戦前のドイツは、周辺国を次々と撃破しまさに無双状態でした。・・・が、独ソ戦の敗北によりドイツは力を完全に失ってしまいます。
そして、力を失ったドイツは、アメリカ・イギリスの反撃(ノルマンディー上陸作戦)に対抗できず、そのまま降伏することになります。
そんな感じで、独ソ戦は第二次世界大戦の戦局を大きく変えた重要な一戦となりました。
第二次世界大戦の戦局を大きく変えた独ソ戦がどんな戦いだったのか、さっそく見ていくことにするよ。
独ソ戦の時代背景【ドイツとソ連の関係】
ドイツとソ連は、その政治思想が真っ向から対立しており、水と油のような関係にありました。
ヒトラー「ドイツ繁栄のため、共産主義者とユダヤ民族は滅びるべき」
1933年、ドイツではナチ党のヒトラーが首相となりました。ヒトラーは、世界恐慌でズタボロになったドイツを立て直すため、自らに権力を集中させた独裁体制を築きます。
ヒトラーは、「ドイツ再興のためにはドイツを中心にゲルマン民族が一致団結する必要がある!!」と考え、さらに、「民族の一致団結のためにはユダヤ民族と共産主義者を根絶やしにすべき!」と考えました。
・・・ん?
民族の一致団結と、ユダヤ民族・共産主義者って何か関係あるの?
ユダヤ人は、ヨーロッパ各地に点在し、しかも経済的に豊かで影響力を持つ者が多かったため、ゲルマン民族が一致団結するためには、そこに紛れ込んでいるユダヤ人を滅ぼすべきだとヒトラーは考えたのです。
共産主義もまた、ヒトラーが唱えるゲルマン民族一致団結にとって邪魔な存在でした。
共産主義は、「資本家階級(ブルジョワシー)に搾取され続けている労働者階級(プロレタリアート)が一致団結して、資本主義をぶっ壊す!」という思想で、民族や国を問わず労働者階級が一致団結する思想でした。
もし、この共産主義思想が広まってしまうと、ゲルマン民族の中に資本家VS労働者の対立が生まれて民族一致団結の邪魔になるので、ヒトラーとしては共産主義を認めることはできません
ソ連「共産主義者を排除するドイツは倒すべき敵」
1929年に起きた世界恐慌で、世界中が不景気になると、生活に苦しむ労働者たちの中には現状を変えようと共産主義思想に傾倒する者も増えて、各国で共産党が発足しました。
世界中に共産党が増えるのはソ連にとっても良いことだな。
・・・しかし、ドイツではヒトラーが共産党を弾圧し、共産党の活動は停止に追い込まれました、
ソ連のスターリンは、共産党を弾圧するヒトラーを批判し、両者は対立を深めていきました。
ちなみに、日本もドイツと同じように共産党を激しく弾圧していたため、スターリンから警戒されていたよ。
独ソ不可侵条約
そんな水と油の関係だったドイツとソ連でしたが、1939年8月、お互いの国益のために独ソ不可侵条約を結んで手を組みました。
当時、ドイツはポーランド侵攻を計画していました。が、ポーランドはソ連とドイツの間に位置しています。ポーランドにドイツが攻め込めば、当然、ソ連が黙っていません。
俺がポーランドに侵攻したら、フランス・イギリスがブチギレて宣戦布告してくるだろうし、ソ連まで敵に回すのは分が悪いな・・・。
そこで、ドイツは独ソ不可侵条約を結び、裏でソ連と「ドイツがポーランドに侵攻したらソ連も攻め込んで、ポーランドを半分ずつに分けようぜ!」という密約を交わしました。
1939年9月、ドイツがポーランド侵攻を開始。
そして計画どおり、ポーランドをソ連とドイツで半分ずつ支配することになりました。
他にも、ソ連がフィンランド・バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)、ルーマニアの一部(ベッサラビア地方)を手に入れることになっていたよ。
【悲報】ドイツもソ連も約束を守らない
独ソ不可侵条約によって、東方から攻め込まれる心配がなくなったドイツは、西ヨーロッパへの侵攻作戦を開始します。
1940年4月以降、ドイツは奇襲攻撃を仕掛け、わずか数ヶ月でデンマーク・ノルウェー・フランス・オランダ・ベルギーを支配下に置くことに成功しました。
さらに1940年6月以降、ドイツの目が西に向いている隙を狙い、ソ連が密約に基づいてバルト三国やルーマニア領の一部を奪い取りました。
・・・が、ソ連はルーマニア領の奪い取る際、ベッサラビア地方だけではなく、約束を破って北ブコビナ地方まで奪い取り、ドイツとの約束を破りました。
おいソ連!!お前が手に入れてOKなのはベッサラビア地方だけって密約で約束したよな!?
北ブコビナ地方は条約違反だぞ!!
1940年7月、勢いに乗るドイツはイギリスへの侵攻を開始します。(バトル・オブ・ブリテン)
・・・が、イギリスの激しい抵抗に阻止され、イギリスを攻め切ることができません。ドイツはイギリスを倒すため新たな戦略を練る必要に迫られました。
ヒトラーは、「イギリスを倒せないのはイギリスの背後にソ連がいるからだ」と疑っており、さらにはもともとのソ連嫌いもあって、次第に「ソ連を倒せば、イギリスは戦意を失うはず!!」と考えるようになります。
ドイツは1940年9月、ルーマニアにドイツ軍を駐屯させてソ連を牽制。さらにその後、フィンランドにも軍を置き、ソ連との対立を深めていきました。
おいドイツ!フィンランドは俺が奪う予定だったはず!ドイツが軍を置くのは密約違反だぞ!
ソ連をぶっ倒せ!〜バルバロッサ作戦
1940年12月、もともとソ連嫌いだったヒトラーは、ついにソ連に戦争を仕掛けることを決意。作戦名を「バルバロッサ作戦」と名付け、ソ連侵攻計画の立案を始めます。
年が明けた1941年4月、ドイツはバルカン半島にあるユーゴスラビア・ギリシャに攻め込み、これを占領します。
実は当時、ソ連もバルカン半島の占領を目論んでいましたが、ドイツに先手を打たれた形となりました。
ドイツの挑発行為が繰り返し行われるうちに、ソ連も次第にドイツとの戦争を想定するようになります。
1941年4月、ソ連はドイツとの戦争に専念するため、日本と日ソ中立条約を結んでいるよ。
1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破り、ついにバルバロッサ作戦を発動します。
こうして始まったのが、独ソ戦です!
独ソ戦、開戦
ドイツは、これまでの戦いのほとんどを速攻・奇襲による短期決戦で勝利してきました。
ドイツ軍は強力な戦車部隊で敵の前線を突破すると、敵の主戦力を相手とせず、そのまま後方の補給部隊・司令部隊をめがけて強襲し、敵の補給・指揮系統を断つことで一挙にして勝利を収めてきたのです。
バルバロッサ作戦もまた、これまでと同じく速攻・奇襲による短期決戦を狙ったものでした。
ドイツはソ連の首都モスクワを陥落させるため軍を
モスクワを直接目指す中央軍
北から攻める北軍
南から攻める南軍
の3つに分け、ソ連に速攻を仕掛けます。
北部戦線では、8月にソ連第2の首都であるレーニングラード(今のサンクトペテルブルク)を包囲し、
南部では9月にキエフ(今のウクライナ首都キーウ)を占領。
中央軍もスモンレクを占領し、侵攻は順調に進みました。
くそっ!こんなに早くドイツが攻めてくるとは、完全に想定外だ。
防御の準備が間に合わない・・・!
10月にはドイツ中央軍がモスクワに到着。モスクワ攻略戦が始まります。
・・・が、モスクワは敵の本丸です。さすがのドイツ軍といえど、速攻で陥落させることはできません。
戦いが長期化すると、ドイツ軍は遠いモスクワまでの補給路の確保・維持が問題となり、さらに、ソ連の厳しい冬の気候にも悩まされ、モスクワの戦いは一進一退のこう着状態が続きました。
戦場のモスクワは気温-20℃を下回る過酷な環境でした。
ドイツ軍の戦車や火器は使用できなくなり、凍傷になる兵士が続出したよ・・・。
スターリングラードの戦い
短期決戦でモスクワを陥落させるバルバロッサ作戦に失敗したドイツは、1942年に入ると大きな方針転換に迫られます。
1941年の戦闘だけでドイツ軍は甚大な被害を被っており、前年のような軍を三つに分けた一斉攻撃は不可能になっていました。
そこでドイツは、直接モスクワを狙うのではなく、
・油田があるコーカサス地方
・大規模な軍事工場があるスターリングラード(今のヴォルゴグラード)
の2つをターゲットにして、集中攻撃を仕掛けることにしました。
モスクワの直接攻撃が無理だから、ソ連から石油と武器を奪い取って戦闘能力を喪失させることにする!
特にドイツは石油が不足しているから、石油の確保もできて一石二鳥だ!
※ドイツが狙っていた油田はコーカサス地方のバクーにある油田でした。
1942年6月、ドイツはソ連侵攻を再開します。
ドイツ軍は順調にソ連軍を蹴散らしてゆき、コーカサス地方の油田の制圧に成功します。(ただし、ソ連は撤退時に油田を徹底的に破壊したため、油田の確保には失敗しました。)
スターリングラード攻略戦も序盤はドイツ軍の有利に展開しました。
8月末にはドイツ軍によるスターリングラードの包囲が完了し、9月に入ると戦いはスターリングラード内の市街地戦へと移行していきます。
市街地でのソ連の抵抗は凄まじく、スターリングラードは瓦礫と死体の山で埋まり、敵味方入り乱れた大混戦が繰り広げられました。
スターリングラードの市街地戦は、歴史上最大の市街地戦と言われているよ。
死傷者数も人類史上の戦闘で最大規模であり、ドイツ85万・ソ連120万(※)の死傷者を出しており、人類史上屈指の凄惨な戦いだった・・・と言われています。
※死傷者の数は資料によって異なります。この記事ではwikipediaの数字を掲載しています。
1942年10月、ドイツは大激戦を制して街の大半を占領下に置きますが、ソ連の抵抗でドイツ軍はボロボロになっており、もはや占領したスターリングラードを維持する力も失っていました。
逆に11月に入ると、ソ連の反撃が始まります。
ソ連は、スターリングラードで疲弊しているドイツ軍を逆に包囲する殲滅作戦を開始。再び冬が到来したことも重なり、ドイツ軍はソ連軍の反撃に対抗することができません。
ドイツ軍はジワジワと追い詰められ、1943年2月、現地のドイツ軍が降伏し、スターリングラードの戦いはソ連の逆転勝利に終わりました。
総力戦となったスターリングラードの戦いは、ドイツ・ソ連の両方に甚大な被害をもたらすことになりました。
特にドイツの被害は甚大で、ドイツは戦争遂行能力を大きく喪失し、戦いの主導権をソ連に明け渡す結果となりました。
ドイツ、敗北する
独ソ戦は1943年以降も続きますが、ドイツにはもはやソ連を圧倒する力は残されていませんでした。
1944年に入るとドイツはポーランドまで後退することを余儀なくされ、さらに6月6日には、イギリス・アメリカ連合軍がフランス北西部にあるノルマンディー海岸に上陸しドイツへの進軍を開始。(ノルマンディー上陸作戦)
ドイツが世界2大国であるソ連とアメリカを同時に相手にするのは100%不可能です。ノルマンディー上陸作戦によりドイツの敗北がほぼ確定しました。
1945年4月、万策尽きるとヒトラーは自ら命を断ち、5月になるとドイツは降伏。
独ソ戦はドイツの敗北に終わり、同時に第二次世界大戦のヨーロッパ戦線はドイツ敗北をもって終戦となりました。
※ドイツの味方だった国も次々と降伏していて、最後まで戦い続けたのはドイツだけでした。
ここでは書ききれないけど、独ソ戦には凄惨なエピソードがたくさん残されていて、そのエピソードをもとにして独ソ戦にまつわる多くの本や映画が作られているよ!
独ソ戦が世界に与えた影響【世界は冷戦時代へ突入】
独ソ戦の結果は、世界に大きな影響を与えました。
まず1つに、独ソ戦によるドイツの敗北は、そのままヨーロッパの戦争の終戦へと繋がりました。
※ドイツ敗北後も戦闘が継続していたのは、日本VS連合国(アメリカなど)の太平洋戦争だけでした。
もう1つの影響は、勝者になった2つの超大国、アメリカとソ連が対立を始めたことです。
アメリカとソ連の対立は、直接的な武力衝突ではなく、経済・技術・文化など武力によらない争いが多かったため、「冷たい戦争」略して冷戦と呼ばれています。
敗戦したドイツは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって共同統治されることになりましたが、ソ連とアメリカの対立が深まるにつれてドイツの統治方針にも食い違いが生じ、ドイツそのものが東と西に分裂することになりました。
東ドイツはソ連が支配し、西ドイツはアメリカ・イギリス・フランスが支配しました。
ドイツは第二次世界大戦冷戦に敗北した後も、否応なしに冷戦に巻き込まれていくことになったんだね・・・。
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