今回は、1912年に美濃部達吉が発表した天皇機関説について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
天皇機関説とは
天皇機関説とは、『天皇は国家の上に君臨する絶対王者ではなくて、あくまで国家の中の1つの機関に過ぎず、他の機関(政府・議会)との協力がなければ国家は機能しないんだよ!』っていう天皇の権力のあり方に関する1つの説です。
1912年、美濃部達吉という憲法学者が、『憲法講話』という本の中で天皇機関説を発表しました。
私は、大日本帝国憲法の解釈について研究し、天皇機関説という天皇のあり方を導いたんだ。
後で詳しく紹介しますが、天皇機関説は、国民の声を政治に反映させる大きな原動力となり、政党や議会の存在を下支えする強力な理論として、日本の政治に大きな影響を与えることになります。
天皇機関説が生まれた時代背景
天皇機関説は、大日本帝国憲法の解釈の1つであり、その憲法は1889年に公布されました。
そして、大日本帝国憲法には、天皇の統治権について以下のような条文があります。
しかしこの条文だけでは、天皇の統治権とは具体的にどんな権限で、総攬するっていうのはどの範囲までなのか?という点がはっきり明記されていません。
そこで、多くの人々がこの条文について様々な解釈を行いました。その1つが、天皇機関説です。
大日本帝国憲法が公布された1889年(明治22年)頃は、「天皇は神に等しい国家を超越する存在であり、国家のありとあらゆる全ての権限を掌握している」という考え方が主流でした。
もともと明治政府というのは、江戸幕府を倒して、古代以来の天皇主権の復活(王政復古の大号令)を目指して生まれた政府です。
なので、天皇の統治権についても、過去の日本の歴史を参考にした解釈がなされていました。
この憲法解釈は、天皇主権説と呼ばれています。
ちなみに、大日本帝国憲法の第1・2条にもこんなことが書かれています。
明治時代初期の頃は、この考え方に基づいて天皇の権力を全面に押し出した形で政治が行われてきました。
明治政府は天皇を補佐する組織として存在し、選挙や議会はあったものの、意見を政治に反映させることは不要する超然主義という考え方で当たり前の時代でした。
ところが、大正・昭和と時代が進んでいくと、選挙や議会を重んじる風潮が強くなり、天皇=絶対という天皇主権説が次第に馴染まなくなっていきます。
そんな中、天皇主権と民主主義を両立させうる新しい理論として登場したのが天皇機関説です。
天皇機関説の内容
天皇機関説では、天皇は国家を構成する要素の1つに過ぎず、統治権を持つのは国家であり、天皇はその一機関として統治権を行使しているだけと考えます。
図解で表現すると、以下のようなイメージです。
国家を人体に例えるとイメージが湧きやすいです。
人体というのは、心臓などの内臓や手足・目鼻口などのいろんな器官が相互に連携・協力し合うことで成り立っていて、人体全体をコントロールするのが脳の役割です。
これと同じで、国家は、いろんな機関が協力・連携し合うことで機能し、全体を総括する司令塔が天皇の役割・・・と考えるのが天皇機関説です。
天皇は神に等しい存在だから何をしてもOKといった従来の考え方と違い、天皇が持つ権力は、あくまで国家の司令塔として、憲法の範囲に限られます。
もう少しだけ突き詰めて考えてみます。
脳というのは、人体の様々な器官から信号を受け取って、その情報をもとにいろんな命令を下す働きがあります。
脳は、お腹が空けばご飯を食べるよう人体に命令を出すし、眠くなれば寝るように命令を出します。
これは言い換えると、「脳は、他の器官からの信号を受けて初めて機能するものであって、脳だけでは役割を果たせない」ということです。
この点は、国家も同じです。天皇は国家の様々な機関(政府・議会など)からの声を聞かなければ、自らの役目を果たせないのです。
国民を代表する機関である議会は、特に重要です。
なぜなら、人体を構成しているのが無数の細胞であるように、国家を構成しているのは多くの国民だからです。
天皇は、国民を代表する議会の声も聞きながら、他機関(政府など)とも連携・協力して国家の司令塔としての役目を果たす。これが、天皇機関説における天皇のあるべき姿です。
天皇機関説では、統治権は天皇ではなく国家にあると考えます。脳はそれ単体では機能しませんからね。
意思決定を行えるのはあくまで、脳とその他多くの器官を備え持っている人体(国家)だけです。
天皇の役割は、憲法の範囲内で、国家の持つ統治権を行使することです。
憲法っていうのは、人体で例えれば本能に近いイメージだよ。
脳による判断が三大欲求(食欲・性欲・睡眠欲)に抗えないように、天皇による統治権の行使も憲法の範囲内に制限されたんだ。
こうして、天皇の主権を認めつつ、民主主義的な手法を政治に取り入れようとしたのが天皇機関説だったわけです。
大正デモクラシーと憲政の常道
美濃部達吉が『憲法講話』で天皇機関説を発表した1912年は、政治の民主化を求める大正デモクラシーが始まった年でもあります。
天皇機関説は、国民の声を権力者(天皇)へ届けることを正当化する理論だったため、大正デモクラシーの強力な原動力となりました。
そして1920年代に入ると大正デモクラシーは実を結び、憲政の常道と呼ばれる長期にわたる政党政治が実現することになります。
当然ながら、世の中には天皇主権説を唱え、政党政治に反対する人たちも多くいました。
天皇機関説は、そんな人たちを論破し、政党政治を下支えする強力な理論として、日本の政治に大きな影響を与えました。
当時天皇だった昭和天皇も天皇機関説を受け入れていたし、天皇機関説は憲法解釈の一般的な解釈として、世間に広く受け入れられるようになったんだ。
天皇機関説の終わり
しかし、1930年代に入ると、天皇機関説は一気に衰退していくことになります。
なぜかというと、政党ではなくて陸海軍が政治の実権を握るようになっていったからです。
陸海軍は、憲政の常道による政治に強い不満を持っていて、これを終わらせようと考えていました。
この考えが実現したが、1932年5月15日に起きた五・十五事件です。
五・十五事件で首相の犬養毅が暗殺されると、次の首相は政党出身者ではなく、海軍出身の斎藤実が選ばれ、憲政の常道は終わりを告げました。
犬養毅を暗殺することで物理的に政党政治を終わらせた陸海軍は、1935年、政党政治の根拠にもなっていた天皇機関説を「天皇を侮辱する憲法解釈だ!」とこれを攻撃。(天皇機関説問題)
同年(1935年)、政府は、天皇機関説を否定して、天皇を神格化する天皇主権説を採用することを宣言(国体明徴声明)。
こうして政治の民主化を支えた天皇機関説は衰退し、次に日本で民主的な政治が行われるようになるのは、戦後の日本国憲法の制定を待たなければなりません。
ちなみに、現代の日本国憲法には民主主義のことがはっきり明記されているので、天皇機関説のような憲法解釈は必要なくなっているよ。
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