今回は、平安時代初期に設置された「検非違使」という役職について、わかりやすく丁寧に解説するよ!
検非違使とは
検非違使とは、平安京の治安を守るために創設された部署「検非違使庁」で働く人たちの役職のことを言います。平安時代初期の816年前後に設置されました。
「非違」は、不法・違法行為を意味する言葉です。「非違」を「検」察する天皇の「使」者という意味で検非違使と呼ばれています。
設置当初の検非違使は、平安京の監視や違法者の逮捕といった警察のような仕事がメインでした。
しかし、次第に平安京での裁判や行政全般にも関与するようになり、強大な権限を持つようになります。
検非違使はその強大な権限を背景に、犯罪者の取り締まりや逮捕だけにとどまらず、政変や反乱といった重大事態にも関与する大事な仕事を担うようになりました。
今風に言えば、検非違使は首都(現代では東京)の平和を守る特殊部隊って感じですね!
検非違使が設置された理由
実は平安京には、検非違使が設置される以前から、治安を守るための部署がちゃんと存在していました。
その部署の名は弾正台と言います。弾正台の仕事は、平安京内の怪しい人たちを取り締まることでした。
なるほど。弾正台があるのに、朝廷はなんでわざわざ検非違使なんて役職を作ったの?
その理由は、弾正台ができることは、あくまで怪しい人物を取り締まって、偉い役人のところへ報告するだけだったからです。
弾正台自身が、怪しい人物を犯罪者だと判断して逮捕したり、裁いたりすることはできませんでした。
弾正台の報告を受けて、偉い役人が「逮捕すべき!」と判断すれば、衛府と呼ばれていた部署が逮捕を行い、「裁判をすべき!」と言う話になれば、刑部省という部署が裁判を行なっていました。
つまり、取り締まりは弾正台、逮捕は衛府、裁判は刑部省と仕事がバラバラになっていたのです。
奈良時代までは、このような仕組みでも平安京の治安維持はうまくいっていました。
しかし、平安時代になると弾正台・衛府・刑部省による治安維持機能が少しずつ麻痺していきます。
なぜなら、平安時代に入ると、律令が時代に合わなくなって官僚たちの仕事がうまく機能しなくなったり、犯罪者が増え始めたからです。
この問題を解決するため、平安京の治安維持の仕組みを大きく変えようとして登場したのが、今回紹介する検非違使となります。
検非違使が令外官として置かれる
嵯峨天皇の治世だった816年頃、衛門府の中に、平安京内の監視や違法者の逮捕に特化した新しい部署を設けました。この部署が検非違使庁となります。
※衛門府:衛府の中にある部署の1つ
検非違使の組織は次第に大きくなり、824年には衛門府から独立して、独立した部署に成長。
その後も検非違使の仕事は増え続け、840年頃には弾正台の仕事の全てを検非違使が担うようになり、850年頃には刑部省が担っていた裁判や刑罰にまで関与するようになりました。
気付いてみれば、検非違使は弾正台・衛府・刑部省の仕事全てを一手に引き受けるとても重要な役職に成長していたのです。
※検非違使は、京職という部署が担っていた平安京の行政に関する仕事にも関与するようになりました。ここまでいくと、平安京のなんでも屋という印象ですね。
怪しい人の取り締まり、逮捕、刑罰まで全て検非違使が関与するようになったということだね。現代風に言えば、検察・警察・裁判所が1つになったイメージが近いかと思います。(細かいところは全然違いますけどね!)
検非違使に指示を出すのは偉い有力貴族たちです。なので、貴族たちが検非違使を自在に動かせれば、ムカつく人物を捕らえて死罪にすることもできたわけです。
貴族たちに目をつけられたらと思うと、背筋がゾクっとします・・・。
検非違使まとめ
検非違使は、律令が機能不全に陥り、無法地帯になりかけていた平安京の治安を守るため、嵯峨天皇によって設置された令外官。
当初は、平安京の監視や違法者の逮捕が主な仕事でしたが、悪化する治安に対処するには、もっと強い権限が必要となりました。
そのため、検非違使の持つ権限は、京内の取り締まる・逮捕・刑罰・行政とどんどん肥大化して、なくてはならない超重要な部署へと成長していったのです。
※鎌倉時代に入って、六波羅探題が京の治安維持を担うようになると、検非違使の力は弱体化し、その役目を終えることになります。
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