今回は、1919年に朝鮮で起こった三・一独立運動について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
三・一独立運動とは
三・一独立運動とは、1919年に朝鮮で起こった独立運動のことです。
1910年の韓国併合以降、朝鮮半島は日本の植民地となっていました。三・一独立運動の「独立」は、「日本の植民地支配から脱して、国として独立すること」を意味しています。
「三・一」というのは、独立運動が3月1日に始まったことを指しています。
まとめると、三・一独立運動とは、
1919年3月1日から始まった日本の植民地支配から脱して朝鮮の独立を目指した運動
という感じになります。
三・一独立運動が起こった背景
1910年、日本は朝鮮(大韓帝国)を植民地としました。(韓国併合)
日本は、朝鮮をロシアに対抗する国防上の重要拠点とし、また、朝鮮のマーケットに日本企業が参入することで、日本の経済発展を目指しました。
しかし、朝鮮の人々は貧しく資本主義国家でもなかったので、日本企業が朝鮮に進出しても、物が売れる状況ではありませんでした。お金のないところで商売をしても、儲かるわけがありませんよね。
そこで、日本はまず朝鮮の経済発展を目指すことにしました。
経済発展を目指すには資本主義を採用するのが手っ取り早いですが、朝鮮には資本主義に必須である「土地の所有権」という概念がありませんでした。そのため、日本は朝鮮の土地を調査して、「この土地はAさんのもの!この土地はBさんのもの」と土地の所有権を明確にしていきます。(土地調査事業)
※資本主義と所有権の関係は、以下の記事で紹介しています。
その過程で、「農民Cさんが耕していた土地が実はAさんの土地で、Cさんは農地を失って生計を立てられなくなった!」というトラブルが続出し、多くの農民が没落していきました。
さらに、日本企業が朝鮮に本格進出すると、朝鮮産の商品が売れなくなり、多くの人が仕事を失ったり、貧困に苦しむようになりました。
こうなると当然、朝鮮の人々はこう思います。
私たちがこんな苦しい生活を送ることになったのは、全部日本が朝鮮を植民地にしたせいだ!
日本なんかどっかに行ってしまえ!
日本も朝鮮の人々が日本に不満を持っていることを知っていたので、反乱が起こらぬよう軍人を警察として朝鮮各地に配置して、武力によって人々を押さえつけました。(この軍人警察のことを「憲兵」と言います。
このような朝鮮人の扱いは、朝鮮の人々のさらなる反日感情を生み、「日本憎し」の声は日に日に高まっていきました。
朝鮮に希望の光を与えた14か条の平和原則
1919年1月、そんな朝鮮の人々に朗報が伝わります。
世界の主要国が第一次世界大戦の戦後処理について話し合うため、パリ講和会議が始まったのです。パリ講和会議に参加したアメリカ大統領ウィルソンはこんなスローガンを掲げていました。
第一次世界大戦は凄惨な結果を生み、世界初の社会主義国家(ソビエト政権)が誕生した。そして、ソビエトではレーニンが世界平和と訴えている。
もはや資本主義では平和な世界の実現は不可能なのか。否、資本主義でも平和な世界を作ることは可能なはずだ。
私は、民族自決を含む14か条の平和原則を掲げようと思う。これをパリ講和会議のスローガンとし、14か条の内容をヴェルサイユ条約に反映させるのだ・・・!
このウィルソンのスローガンは、朝鮮の人々を強く刺激しました。
ウィルソン、マジがんばれ!
民族自決が世界に認められたら、きっと朝鮮も憎き日本の植民地支配から脱することができるはずだ!!!
こうして、朝鮮人の日本への不満と、ウィルソンが掲げる14か条の平和原則への期待が合わさって、独立運動が起こることになります。
三・一独立運動の計画
独立運動を起こそうとしたのは、民衆たちに広く布教されていた天道教・キリスト教を中心とする宗教指導者たちでした。
独立運動の決行日は、大韓帝国初代皇帝「高宗」の葬儀予定日である3月3日の2日前、つまり3月1日に定められました。
高宗は、朝鮮支配を強める日本に対抗するため1907年にハーグ密使事件を起こして日本を怒らせ、日本の圧力によって退位に追い込まれた人物です。退位後は幽閉され、1919年1月に幽閉先で命を落としました。
独立運動を「日本の圧力で退位に追い込まれた前皇帝」の葬儀に合わせることで、民衆たちに反日感情を改めて思い出させようという狙いです。
宗教指導者たちの計画は、まず3月1日に京城(今のソウル市)のパゴダ公園にて独立宣言を行い、その後も各地に宣言書をばら撒き、高宗の葬儀に合わせて全国各地で朝鮮独立の声を上げる・・・というものでした。
三・一独立運動、起こる
1919年3月1日、パゴダ公園には運動に参加しようとする多くの学生が集まり、独立宣言が行われます。これが三・一独立運動の始まりです。
以下は、独立宣言の最初の一文です。
吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。
出典:wikipedia「三・一独立運動」
宣言は行われましたが、発起人である宗教指導者たちの姿はパゴダ公園にはありません。宗教指導者たちは大衆が暴徒と化して日本軍と衝突することを恐れ、当初の予定とは違う場所に集まっていたのです。
もともと、三・一独立運動は独立の声を上げることが目的であり、勝ち目のない日本の軍人警察と衝突することを嫌いました。つまり、三・一独立運動は平和的な運動を目指していたのです。
平和的な解決を試みるのは良いことかもしれないけど、それで効果があるのかな?
軍事力を持っている日本に声を上げるだけじゃ、何も解決しないような・・・。
実は、三・一独立運動が声を届けようとした相手は日本ではありません。三・一独立運動の目的は、日本ではなく世界に対して声を届けることでした。
もし、ウィルソンの掲げる民族自決の方針がパリ講和会議で決定すれば、日本はそれに反する植民地支配をしていることになります。
このタイミングで朝鮮から世界に対して独立のメッセージを発信すれば、日本は国際的に非難される立場に追い込まれ、さらには朝鮮独立を助けてくれる国が現れるかもしれません。
つまり、三・一独立運動の首謀者たちは「日本と真っ向から戦っても勝てないから、朝鮮から声を上げることで日本の国際的地位を脅かそう!そうすれば、朝鮮独立のチャンスが生まれるはずだ!」と考えたのです。
こんな理由があったので、日本との戦いを避ける方針が採られたのです。
三・一独立運動の鎮圧
三・一独立運動は瞬く間に朝鮮全土に広がり、これまでに例を見ない大規模な運動に発展していきました。
日本は、三・一独立運動の鎮圧に苦慮します。
運動参加者はできる限り憲兵たちと争うことを避けたため、日本側も迂闊に手出しができません。もし強引に手を出せば、「日本の残虐非道な行いで、無抵抗な朝鮮人が殺された!」と日本の悪評が世界を駆け巡るかもしれないからです。
一方で平和的な運動だからといって、三・一独立運動を放置することもできません。なぜなら、1919年3月というのはパリ講和会議の真っ最中だったからです。
パリ講和会議は、第一次世界大戦後の平和を目指して行われた会議です。そこで、平和秩序を乱しかねないデモが朝鮮で起これば、列強国が「日本は朝鮮の圧政を改めるべき!」とイチャモンをつけてきて、外交面で不利な立場に立たされることも想定されます。
パリ講和会議を無事に終えるためにも、火の小さいうちに三・一独立運動を鎮圧しておく必要がありました。
4月15日、朝鮮総督府は「政治の変革を目的としてデモを起こした者は犯罪者とする!」と発表しました。こうすれば、運動に参加している人々を逮捕することが可能となります。つまり、日本は検討の末、三・一独立運動を力づくで抑え込む方針を固めたということです。
こうして朝鮮全土で憲兵・軍隊による三・一独立運動の弾圧が始まり、4月末には三・一独立運動はおおむね鎮圧されることになります。
三・一独立運動によって数千の朝鮮人が命を落とし、5万人近い人が検挙を受けたと言われています。(参考:詳説世界史Bより)
また、鎮圧に当たった日本人も少なくない死傷者を出していることから、三・一独立運動の規模の大きさが窺えます。
三・一独立運動の後
朝鮮人が期待した外国からの援助もなく、三・一独立運動は失敗に終わりました。
1919年6月、パリ講和会議の内容を反映させたヴェルサイユ条約が調印されましたが、ウィルソンの民族自決が実現したのは一部の地域に限定され、朝鮮は対象外とされました。
※民族自決の実現は、敗戦国のドイツ・オーストリアと社会主義国ソビエト(ロシア)の支配下にあった東欧の一部に限られました。(戦勝国にとって不都合な地域には適用されなかったということ)
日本は、三・一独立運動の原因が「武力を背景にした朝鮮統治(武断政治)」にあると考え、朝鮮統治のあり方を一部見直しました。(文治政治)
こうして三・一独立運動以後、朝鮮半島で大規模な反乱が起こることはなくなりました。
※1の内容はあくまで文官が就任「できる」だけです。三・一独立運動の配慮から朝鮮総督を陸軍の人物から、海軍の斎藤実という人物に替えましたが、陸軍→海軍に変わっただけで文官が就任することはその後もありませんでした。
三・一独立運動の首謀者の一部は朝鮮から亡命し、1919年4月、上海にて大韓民国臨時政府を立ち上げて、抗日活動を続けます。
三・一独立運動を通じて、首謀者たちは「声をあげれば諸外国が助けてくれるかもしれない」という他力本願的な運動では、独立を実現できないことを痛感します。そのため、大韓民国臨時政府では、外交面から自ら独立に向けて活動することになりますが、これも思うように成果を上げることができません。
朝鮮の独立が実現するのは、日本の太平洋戦争敗北まで待たねばなりません。
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