今回は、842年に起きた皇太子の座をめぐる政争「承和の変」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
承和の変とは
承和の変とは、842年に起きた皇太子の座をめぐる政治争いのことを言います。
簡単に言うと承和の変とは、「当時天皇だった仁明天皇が、自分の息子を次の天皇にしたいから、邪魔者を失脚させた事件」です。
結論を先に言ってしまうと、承和の変は成功しました。仁明天皇は邪魔者を失脚させ、息子の道康親王(後の文徳天皇)を新たな皇太子にすることができたからです。
しかし、事件の裏には、仁明天皇以上に大成功を収めた重要人物が1人いました。その人物の名は、藤原良房。承和の変の主役の1人となる重要人物です。
藤原良房は、仁明天皇の側近として承和の変を成功に導いたことで大出世を遂げ、後に、臣下としては日本史上初めてとなる摂政にまで上り詰めることになります。
承和の変は、10世紀に始まる摂関政治のきっかけとなった大事な事件です。
歴史を大きく動かした承和の変がどんな事件だったのか、詳しく見ていきましょう!
承和の変が起きた時代背景
繰り返しになりますが、承和の変は皇位継承をめぐる政争です。なので、承和の変についてしっかり理解するには、当時の天皇家がどうなっていたのかを知っておく必要があります。
と言うわけで、まずは承和の変が起こるまでの天皇家の様子を、おさらいしておきます。
時代は、嵯峨天皇の時代(809年~823年)までさかのぼります。
嵯峨天皇は、次の天皇を恒世親王という人物に託そうと考えていました。
次の天皇は、兄の大伴親王と私の娘の間に生まれた恒世親王としよう!
恒世親王は、父からも母からも天皇家の血を引いており、血統的に最も次期天皇に相応しいからな。
・・・だが、父(大伴親王)を差し置いて息子(恒世親王)が天皇になることは、朝廷ではタブーとされている。
と言うわけでは、まずは大伴親王に天皇になってもらって、その後を恒世親王に継いでもらうことにしよう!
こうして823年、大伴新王が即位して淳和天皇となりました。
しかし、淳和天皇本人は、自分や息子が天皇になることを望んでいませんでした。
なぜかというと、淳和天皇には、後ろ盾となる有力貴族がいなかったからです。
有力貴族がバックにいなければ、政治が安定せず、息子たちが政争に巻き込まれても命を守り切ることができません。
そこで渋々即位した淳和天皇は、恒世親王を皇太子に選ばず、嵯峨上皇の息子である正良親王を皇太子とします。
※上皇:譲位した後の天皇のこと。
息子(恒世親王)が天皇になることを、なんとか防ぐことができた・・・!
正良親王なら、藤原氏の娘を正妻とし、その後ろ盾もある。これなら、争いも起こらず安定した皇位継承ができるだろう。
833年、淳和天皇が病によって亡くなり、皇太子の正良親王が仁明天皇として即位します。
そして、仁明天皇は、次の皇太子に、淳和天皇の息子である恒貞親王を選びました。
ん?
なんで、自分の息子じゃなくて、わざわざ淳和天皇の息子を皇太子に選んだの?
自分の息子に天皇を継いで欲しいって思うのが親の願いだと思うんだけど・・・。
それは、嵯峨上皇が恒貞親王の即位を強く望んでいたからです。
期待の星だった恒世親王は、826年に病で亡くなっていました。
そこで嵯峨上皇は、恒世親王と同じく、父母ともに皇族の血を引いていた恒貞親王を次期天皇(皇太子)と定めたのです。
仁明天皇は、この決定に内心は不満を持ちます。
なぜ、私の息子(道康親王)が皇太子じゃないんだ・・・!
納得できないが、父(嵯峨上皇)に逆らうことはできないし、今は事実を受けれるしかないかない
そして、仁明天皇と同じく、強く不満を持っていたのが藤原良房でした。
道康親王は、私の妹(藤原順子)の子供なんだ。つまり、道康親王が天皇になれば、私は天皇の親戚になるわけだ。
甥っ子の道康親王が天皇になれば、私は親戚として天皇にいろいろと物申すことができるのに、嵯峨上皇は恒貞親王を皇太子にしてしまった。
なんとかして、道康親王を皇太子にできる方法はないものか・・・。
仁明天皇・藤原良房は、挽回のチャンスを虎視眈々と狙います。そして842年7月、チャンスが訪れます。恒貞親王を支持していた嵯峨上皇が亡くなったのです。
恒貞親王は、もともと有力貴族の後ろ盾を持たず、833年に父の淳和天皇も失っていたため、嵯峨上皇の死によって、完全に孤立無援になってしまいました。
嵯峨上皇亡き今なら、恒貞親王を失脚させることは容易いこと。
この機に、道康親王を皇太子にしましょう!
・・・だな。動くとするか。
こうして、恒貞親王を失脚させて皇太子の座から引きずり下ろそうとして起こったのが承和の変です。
承和の変の経過【伴健岑・橘逸勢が失脚する】
嵯峨上皇が亡くなった2日後、平安京では突如として厳戒態勢が敷かれ、伴健岑・橘逸勢という二人の人物が逮捕されます。
逮捕の理由は、「恒貞親王を東国へ向かわせて、東国で仁明天皇に対して謀反を起こそうと企んだ!」という理由だったと言われています。
少し補足をしておくと、嵯峨上皇が亡くなれば、仁明天皇・藤原良房が、恒貞親王を失脚させるため強硬手段を採ってくることが十分予想されていました。
なので、命を狙われる前に東国へ逃げようと考えたけど、仁明天皇側はこの行動を謀反だとみなした・・・ということです。
生前の淳和天皇が恐れていたことが、現実になってしまいました。
伴健岑・橘逸勢は、謀反疑惑を否定します。しかし、言い分が認められることはなく、二人は流刑となりました。
さらに、謀反の当事者とみなされた恒貞親王も、皇太子の座を廃止されてしまうこととなります。
そして、翌月の8月には、仁明天皇の希望どおり道康親王が皇太子となり、突然の謀反事件はあっという間に終焉を迎えました。
陰謀渦巻く承和の変
承和の変は、タイミングも含め、あまりにも仁明天皇に都合が良すぎる事件のため、仁明天皇側が仕組んだ謀略だった・・・という説が有力です。
というのも、恒貞親王には、自ら天皇になろうとする野心がありませんでした。恒貞親王は、政争では藤原氏がバックにいる仁明天皇に勝てないことを理解しており、過去には皇太子になることを拒否していた経過もあります。
伴健岑・橘逸勢が、恒貞親王の命を守るために東国へ行こうと進言したのは事実かもしれませんが、謀反を企てるようなことは考えにくいのです。
つまり、承和の変は仁明天皇側によって仕組まれた冤罪事件であり、恒貞親王・伴健岑・橘逸勢その他の関係者たちは、道康親王が皇太子になるための犠牲者だった可能性が高い・・・ってことです。
特に橘逸勢は、流刑となった後、流刑地に着く前に命を落としてしまい、後に無実の罪で命を失った恨みから怨霊になった・・・と、世間の人々から恐れられました。
怨霊の噂が広がるということは、当時の人々が、「橘逸勢は冤罪だった!」と認識していた証拠です。
やっぱり、藤原良房は敵に回してはいけないね・・・。
ちなみに、橘逸勢は書道の達人でもあり、平安時代初期の書道の達人TOP3である三筆の一人として有名な人物です。
※三筆は、空海・嵯峨天皇・橘逸勢のことを言います。
承和の変の結果
承和の変によって、仁明天皇は、自らの望みどおり道康親王を皇太子にすることができました。(850年に道康親王は文徳天皇として即位することになります。)
この結果に満足したのは藤原良房も同じです。
道康親王が天皇になれば、妹の藤原順子は天皇の母として強い発言力を持つようになって、兄である良房の出世スピードも大幅UPすること間違いなしです。
しかも、承和の変で藤原良房が得たものは、天皇家との深い関係だけに留まりません。
藤原良房は、伴健岑・橘逸勢を流刑としたことで、藤原氏には及ばぬものの政界に力を持っていた伴氏・橘氏を失脚させることにも成功したのです。
天皇家との関係を深め、邪魔者を蹴落としてしまえば、朝廷で藤原氏に逆らえるものはそう多くはありません。
承和の変当時、中納言だった藤原良房は、事件直後に大納言に昇進。
その後、848年に右大臣、857年には太政官の最高官職だった太政大臣に就任。
さらに858年には、幼い清和天皇が即位すると、藤原良房は清和天皇を補佐し、政治の実権を握るようになります。当時はまだ、公式に摂政には任命されませんでしたが、やっていることは摂政と同じです。
866年には、応天門の変をきっかけに公式に摂政に任命され、藤原良房は名実ともに摂政として政治の実権を掌握することに成功しました。
摂政は、もともと皇族が担う仕事でしたが、藤原良房は日本史上で初めて臣下として摂政となりました。
藤原良房以降、摂政が置かれる場合には藤原氏が就任することが慣例となり、藤原良房は10世紀に全盛期を迎える摂関政治の「摂」の礎を築くことに成功したのです。
※摂関政治の「関」の部分(関白)は、良房の息子である藤原基経の活躍を待たねばなりません。
承和の変そのものは、派手な事件ではありません。
冤罪が濃厚で、実際に反乱が起こったわけでもないし、恒貞親王に野心がないこともあって、事件はあっさりと終焉を迎えます。
しかし、承和の変が歴史に与えた影響はとても大きく、藤原良房が臣下として日本史上初の摂政になることで、摂関政治への道を開きました。
そのため、事件自体は地味なのに、承和の変はこの時代を語る上で欠かすことのできない、超重大事件として歴史の教科書にも載っているのです。
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