今回は、鎌倉仏教の一つである浄土真宗の開祖「親鸞」について、わかりやすく丁寧に解説していきます。
親戚の勧めで仏門に入る
親鸞は1173年5月21日、京都の日野の里という場所(今の京都市伏見区)で誕生しました。
父は下級貴族だった日野有範という男。母親は諸説あります。
1181年、親鸞は親戚の勧めで京都にある青蓮院というお寺(今も現存する有名なお寺です)で出家します。
天台宗の僧侶として新しい一歩を歩み始めたのです。数えで9歳の時でした。
出家後は、名を範宴と名乗りました。(この記事では親鸞の表記で話を進めます)
親鸞が出家した1181年というのは、ちょうど源平合戦が起こっていた頃に当たります。
1181年2月に権力者の平清盛が亡くなり、政治の世界のパワーバランスも崩れ始めました。
親鸞が出家を勧められたのも、「世が不安定であるから、俗世を離れて僧侶として平和に生きて欲しい」という周囲の人の配慮によるものかもしれません。
出家後は天台宗の総本山「比叡山」に登り、20年間にわたって厳しい修行と学問に打ち込みました。
しかし、比叡山での修行では仏教の真理(悟りを開く方法)を見出せないため、1201年に比叡山を降りました。
親鸞、聖徳太子のお告げで法然に弟子入りする
比叡山を降りた親鸞は、聖徳太子が創建したと伝えられる京都の六角堂で百日参籠を行いました。
参籠とは?
神社・仏閣などにあらかじめ定めた日数の間とじこもって心身をきよめ祈願し修行すること。
参籠してから95日目の夜明け、親鸞の生涯を大きく変える出来事が起こります。
目の前に突如として聖徳太子が現れて、親鸞にお告げを伝えたのです・・・!
親鸞よ。お主の悩みを解決したくば、ここから東に向かい法然という僧のところへ行くのです・・・。
このお告げを聞いた親鸞は法然のもとへ向かい、そこで法然から浄土宗の教えを学びます。
浄土宗の真髄は専修念仏です。
ひたすらに「南無阿弥陀仏」と唱えれば、厳しい修行をしなくとも、全ての人は阿弥陀如来の救いによって浄土に往生できる・・・というのが浄土宗の教えです。
僧侶としての修行を否定する点で、浄土宗の教えはとても革新的な思想でした。他宗派からは異端な信仰だと、敵対視されることもありました。(宗教版のベンチャー企業というイメージが近いと思います。)
それでも親鸞は、「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」と浄土の教えをマスターすることを心に決めました。
こうして親鸞は、法然を師と仰ぎ、法然のもとで6年間を過ごしました。
親鸞は法然から「綽空」の名を与えられ、一番弟子とも言えるほど法然から強い期待と信頼を寄せられることになります。
法然はその信頼の証として、自らの著書「選択本願念仏集」を書き写すことも認められました。法然は限られた弟子にしか書写を許さなかったので、法然が親鸞に大いに期待を寄せていたことがうかがえます。
親鸞自身も、「南無阿弥陀仏と唱えれば多くの人が救われる」という教えに天台宗とは違う新しい可能性を感じ、法然から多くのことを学びました。
【悲報】親鸞、流刑で越後に飛ばされる
しかし、充実した僧侶としての生活は長くは続きません。
1207年、承元の法難と呼ばれる事件が起こります。
難しそうな名前ですが、要するに女性スキャンダルです。法然の弟子が人の女に手を出したのです。
しかも、その女性というのが後鳥羽上皇に仕えている女官だったのです。
そもそも、僧侶が女性トラブルを起こすだけでも問題ですが、この事件では法然の弟子の影響を受けて、女官が出家して仕事をやめてしまう事態にまで発展しました。
私の女官に手を出すとはいい度胸だな。浄土宗は、新興宗派で良からぬ話も聞いておる。
絶対に許さないから覚悟しとけよ。
こうして、女官に手を出した法然の弟子2名は死罪。
後鳥羽上皇の逆鱗は浄土宗そのものにも及び、浄土宗の開祖である法然とその弟子たちをみな京から追放し、流罪としてしまいました。
この時、親鸞も流罪となり越後国(今の新潟県)へ飛ばされることになります。親鸞が35歳(数え)の時でした。
親鸞「僧侶だけど結婚したわww」
承元の法難は、表向きは女性スキャンダルをきっかけとする浄土宗の弾圧事件ですが、その裏には宗派同士の激しい争いもありました。
浄土宗は、「念仏を唱えればOK」というとてもシンプルな教えだったため、仏教の知識がない民衆から朝廷の貴族たちまで幅広い層へ爆発的に広がりました。
これに危機感を感じたのが延暦寺の天台宗・興福寺を筆頭とする南都六宗などの旧仏教の勢力です。
浄土宗を信じる者の中には「南無阿弥陀仏と唱えるだけいいのなら、他は何をやっても許されるんだろww」と僧侶として軽率な行動をとる者が多くいました。
興福寺や比叡山は、この軽率な行動を取り上げて炎上させ、「浄土宗はヤバイ勢力だから弾圧すべきだ」と朝廷に圧力をかけて浄土宗への攻撃を続けていました。この攻撃が身を結んだのが承元の法難だったのです。
浄土宗の異端エピソードの1つに、親鸞が妻子を持ちながら浄土宗を信仰したという話も残っています。
親鸞が結婚した時期は定かではありませんが、法然に弟子入りしてから流罪となるまでの間には、9歳年下の恵信尼と結婚したといわれています。
当時、僧侶の妻帯はタブーとされていたので、これは革新的な出来事でした。
南無阿弥陀仏と唱えれば全ての人が救われるのなら、妻を持ったとしても浄土への道は変わらないはずだ・・・!
親鸞は浄土宗の教えを強く信じ、非難されることを覚悟で仏教界のタブーに勇敢に挑んでいったのです。(さらには、師匠の法然もこれを認めました。)
浄土宗の登場は、それまでの常識を大きく覆す仏教界の大変革を起こしたのです。
親鸞、浄土真宗を開く
親鸞は、1207年から家族とともに越後国で生活しました。
1211年に流罪が許されると、1214年、門弟とともに常陸国に移り住みます。東国に移ったのは、まだ浄土教の信仰が広まっていなかった関東地方での布教を行うためだったといわれています。
なお、1212年に師匠である法然が亡くなっています。
親鸞は、常陸国で約20年間にわたって布教を続け、関東一円に念仏の教えを広める活動を続けました。
そして、1224年には、浄土真宗の教えを記した主著「教行信証」を書き上げました。この1224年というのが、一般的に「親鸞が浄土真宗を開いた年」だと言われています。
ただ、親鸞自身には新しい宗派を開くという考えはありませんでした。あくまで法然の意思を継いで、浄土の教えを広め・洗練していくことを考えていたのです。
なので、親鸞自身が自分の信仰を「浄土真宗」と呼ぶこともありませんでした。親鸞の教えが浄土真宗と言われるようになたのは、親鸞のひ孫である覚如という人物だと言われています。
浄土真宗という名称は、「浄土を真の拠り所とする」という考えに由来します。
浄土真宗は室町時代以降、全国各地に布教され、本願寺を本拠地として絶大な力を誇るようになります。
浄土真宗はどんな教えなの?
浄土真宗の土台となるのは「南無阿弥陀仏と唱えれば、阿弥陀仏が全ての人を救って、浄土へ連れてってくれる」という浄土宗の教えです。
阿弥陀仏は、簡単に言うと人々を浄土に導くパワーを秘めた仏様のこと。平安時代に末法が到来したことで、「釈迦様を信じて悟りを開くより、阿弥陀様の救いパワーを信仰した方がよくね?」という阿弥陀様ブームが到来しました。
阿弥陀仏って何?という人は、読み進める前に以下の記事を読んでみてください!
そして、この阿弥陀様信仰を1つの宗派としてまとめあげたのが法然でした。
法然は「阿弥陀様の救いパワーを得るには何をすべきか?」をひたすら追求し、そこで出した答えが「南無阿弥陀仏と唱えればOK」と言う専修念仏の思想だったのです。
親鸞は、この法然の教えを発展させて、「念仏」だけではなく「阿弥陀仏を信じる心」も大事だと考えるようになりました。
親鸞の弟子唯円が書いた歎異抄と言う本に、親鸞が語ったとされる次の言葉が記されています。
本願を信じ念仏申さば仏になる
【現代語訳】
本願(阿弥陀仏の持つ力のこと)を信じて念仏を唱えれば、仏になれる(浄土にいける)
親鸞は、阿弥陀仏の本願を得るには念仏を唱えるだけではなく、信じる心が必要だと説いたのです。
浄土宗の信徒には、「念仏さえ唱えれば何をしても良い」と考えて軽率な行動をとる輩がいた・・・という話をしました。
親鸞が「信じる心」を改めて強調したのは、浄土宗の腐敗を正そうとする意図もあったのかもしれません。
悪人正機の思想
もう1つ、親鸞の有名な思想に「悪人正機」という考え方があります。
弟子の唯円が書いた歎異抄に親鸞の言葉として次のようなことが書かれています。
善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
【現代語訳】
善人(自力で悟りを開こうとする人)でさえ、浄土に往生できるのだから、悪人(自力で悟りを開くことを諦めて阿弥陀仏の本願に頼ろうとする人)が浄土に往生できるのは言うまでもないことだ。
阿弥陀様は、人々を救う力を持った仏様です。
その仏様が、助けの声を上げずに自力で頑張っている人(善人)ですら浄土に導いてくれるのだから、「助けてヘルプ!」とSOSを出している人(悪人)を浄土に導いてくれるのは当然だよね!って考え方です。
阿弥陀様の力を信じている人ならどんな人でも救われると、改めて強調しているのが「悪人正機」の思想です。
ここでも親鸞は念仏だけでなく「阿弥陀様を信じる心」を重要視していることがわかります。
僧侶が妻を持つのを禁じられているのは、それが煩悩(性欲)に結びつくからです。しかし、悪人正機の思想では、煩悩があっても阿弥陀様を信じ抜けば救われると考えます。なので、浄土真宗では僧侶でも妻を持つことが許されるのです。
晩年の様子
1235年頃、63歳の頃に京都に戻りました。戻った理由は、はっきりとはわかっていません。
京都に戻ると、80歳代になるまで、「教行信証」の推敲を重ねたほか、多くの著作を書き残しました。
そして1263年、親鸞は亡くなりました。最期は自身で念仏をとなえ続けていたと言われ、末娘や門徒が死を看取ったといわれています。
親鸞の生涯まとめ【年表付】
- 1173年京都で生まれる
- 1181年出家し、約20年間比叡山で勉学・修行に励む
- 1201年比叡山を降りる
聖徳太子のお告げを聞き、法然と出会い、法然の弟子として浄土宗の教えを学ぶ。
- 1207年承元の法難により越後国へ流罪
- 1211年罪が許される
- 1214年常陸国に住み、東国で布教活動を始める
- 1224年自身の教えをまとめた「教行信証」を書き上げる
教行信証が書かれたこの年は、浄土真宗が開かれた年とされている。
- 1235年親鸞、京都に戻る
- 1263年親鸞、亡くなる。享年90歳
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