今回は、明治時代の終わりに桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣になった桂園時代についてわかりやすく丁寧に解説していきます。記事の最後に年表も用意しています。
記事の最後に、桂園時代をまとめた年表も用意しているよ!
桂園時代が始まった理由
桂園時代とは、1901年〜1913年の約10年にわたって、桂太郎と西園寺公望が交代で内閣総理大臣となって、日本の政治を主導した時代のことを言います。
当時、日本の政界は、「政治は官僚が主導すべき!」と考える官僚派と、「いやいや、帝国議会があるんだから政党が政治を主導すべき!」と考える政党派がバチバチと火花をす散らす状態でした。
官僚派と政党派の争いは、1890年に帝国議会が設置されてからずーっと続く根の深い問題。実は、桂園時代が始まったのもこの問題がきっかけです。
桂園時代到来の直接のきっかけは、1900年に結成された立憲政友会の存在です。
こうして、
政党派は伊藤博文
官僚派は山縣有朋
を中心に駆け引きが行われます。伊藤博文と山縣有朋は、同じ長州藩出身。互いに手の内を知る旧知の仲でした。
先に動いたのは、当時、内閣総理大臣だった山縣有朋です。
そんなに政党主導の政治をしたいなら、総理大臣の座を伊藤に譲ってやるよ。やれるものならやってみろ。
(立ち上げたばっかの立憲政友会には、さまざまな利害関係を持つ人がいる。それらをまとめる時間を与えずに国政を任せれば、党は内部から崩壊してくだろう・・・ww)
断りきれない伊藤博文は、1900年10月、内閣総理大臣となります。(4回目の就任だったので、この内閣を第四次伊藤内閣と言います。)
その後、山縣有朋の予想どおり立憲政友会は意見をまとめることができず、内閣は内部崩壊。その責任を取る形で、伊藤博文は1901年に内閣総理大臣を辞任します。
そして、その次に内閣総理大臣に選ばれたのが、官僚派の実力者だった桂太郎でした。こうして桂園時代は、まずは「桂」から始まりました。
桂園時代と日露戦争
桂太郎が総理大臣になっても、引き続き官僚派と政党派の駆け引きは続きます。
1903年に伊藤博文が立憲政友会の代表を西園寺公望に託したことで、両者の構図は
政党派の筆頭:西園寺公望
官僚派の筆頭:桂太郎
という形に変化します。
ただし、山縣有朋と伊藤博文は、裏から政界をあやつるボスとして引き続き強い影響力を持ち続けました。
駆け引きが続く1904年、日露戦争の勃発によって、両者の均衡は一変します。
戦時中に国政が停滞したとなれば、それがそのまま敗北に繋がるかもしれません。つまり、これまでのように官僚派と政党派が争って、国政が停滞することは絶対にあってはいけないのです。
そこで、桂太郎と立憲政友会の原敬という人物の間で話し合いが行われ、最終的に次のような密約が結ばれました。
こうして、官僚派と政党派の争いは収束に向かうことになります。戦争で内政が安定するというのは皮肉にも思えますが、古今東西よくある話です。
第一次桂内閣(1901年〜1906年)
次に、桂太郎と西園寺公望が交代して政権を担っていく様子を見ていきます。
最初に紹介する第一次桂内閣は、上で紹介した桂内閣のことです。
日露戦争をきっかけに、官僚派と政党派との間で密約が結ばれ、両者の協力関係が実現。(おかげで?)日露戦争も辛勝ながら、勝利に終わります。
戦後の外交問題などを解決した後の1906年、内閣を解散し、密約どおり政権を立憲政友会に譲りました。
第一次西園寺内閣(1906年〜1908年)
次に総理大臣になったのは、立憲政友会の代表だった西園寺公望。
これで隈板内閣(1898年)以来の政党内閣の再来か・・・とも思われますが、そうはなりませんでした。
内閣総理大臣は西園寺公望ですが、内閣を構成する各大臣はそのほとんどが、山縣有朋や桂太郎などの息のかかった官僚派。立憲政友会のメンバーは若干名しかいませんでした。
内部に対立の種を抱えた第一次西園寺内閣は、1908年、官僚派との調整が行き詰まり、解散に追い込まれることになります。
第二次桂内閣(1908年〜1910年)
2回目の内閣総理大臣となった桂太郎は、官僚派主導による政治を進めます。今回は、日露戦争のように立憲政友会に妥協をする理由もありません。
官僚派の時代が到来か・・・と思われた矢先の1910年、ある事件が起こります。政府が社会主義者を弾圧した大逆事件です。
大逆事件で、政府はテロを企む社会主義者を捕らえて死刑としました。しかし、そのやり方があまりにも強引であり、国民から強い批判を受けることになります。
裁判は非公開の暗黒裁判。テロに無関係な者でも社会主義者というだけで死刑になる者もいました。
多くの国民は、これを「国家権力の濫用だ!」と受け止めたのです。
桂太郎は、「多くの国民を敵にしたままでは議会の力が強くなり、国政の運営が困難になるだろう」と判断し、策略を練ることにします。
桂太郎の策略は簡単に言ってしまうと「政権を譲る条件を餌に与党の立憲政友会を籠絡して、事態を穏便に収めて、ほとぼりが冷めたらまた政権を握ってやろう」という策略です。
日露戦争の際に、桂太郎が立憲政友会と交わした密約と同じ流れですね。策士だった桂太郎は、立憲政友会を「困った時に国民のガス抜きをしてくれる便利な政党」としてうまく利用しようとしたのだろうと思います。
第二次西園寺内閣(1911年〜1912年)
立憲政友会は桂太郎の提案に賛同し、1911年、再び西園寺公望が政権を握ります。(第二次西園寺内閣)
ちょうど同じころ、中国では民衆の清王朝への不満が爆発し、辛亥革命が起こりました。辛亥革命により清国は滅亡。新しく中華民国が樹立されます。
政界の裏のボスだった山縣有朋は、この中国の動乱をきっかけに、朝鮮・中国での日本の影響力を強固なものとするため、陸軍を増強することを強く望むようになります。具体的には陸軍の2個師団の増設を求めました。
しかし、西園寺公望はこれを拒否します。
軍事力増強は、増税という形で国民に負担を強いるものですし、当時は陸軍よりも海軍の増強が優先だと考えていたからです。
結局、2個師団増設をめぐる問題は、陸軍と西園寺内閣の交渉も進展せず、西園寺公望によって却下されることになります。
この決定は、陸軍と陸軍のバックにいた山県有朋に強い不快感を与えました。
最終的に、陸軍大臣だった上原勇作が大臣を辞任。陸軍は「2個師団増設を認めないなら、次の陸軍大臣を推薦しない」と西園寺を脅します。
大臣不在となり内閣を維持できず詰んだ西園寺公望は、この脅しのあった数日後に内閣を解散してしまいます。
当時の日本には、「軍部大臣(陸・海軍大臣)は現役の武官しか就任できないよ!」という軍部大臣現役武官制が敷かれていました。
そして、現役武官の人事は軍部が行うルールになっていました。
つまり!陸軍が「現役武官は誰も陸軍大臣にさせないよ。」と決めれば、理屈上、陸軍大臣を就任させないこともできてしまいます。
陸軍は、この制度を利用して陸軍大臣のストライキを行い、「陸軍大臣がいないと困るだろ?陸軍大臣を就任させたければ、俺たちの要求(2個師団増設)を認めろよ」と西園寺内閣に脅しをかけたわけです。
この頃から、官僚派VS政党派の争いに軍部も介入するようになり、政局は非常に不安定となっていきます・・・。(そして、軍部の介入は年々激しくなり、太平洋戦争で敗戦するまで続くことになる。)
第三次桂内閣(1912年〜1913年)
官僚派の内部でいろいろ話し合いが行われた結果、桂太郎が再び内閣総理大臣に就任することになります。
しかし、大逆事件以来、国民の桂太郎の評価は最悪で、桂太郎は世間から痛烈な批判を浴びることになります。
今回の陸軍の件も、裏で権力を欲する桂太郎が暗躍していたに違いない。なんて卑劣な男なんだ!
権力に目が眩み、藩閥や軍部の利権ばかりを重んじて国民を軽んじる日本の政治は腐っている!!
批判の声は日に日に強まり、立憲政友会や他の政党からも「国民のためにも政府と徹底抗戦すべきだ」という意見が強まり、桂太郎は苦しい立場に立たされました。
桂園時代の終焉 〜第一次憲政擁護運動と大正政変〜
立憲政友会の影響力が日に日に増していくのを見た桂太郎は、桂園時代の到来で影の薄くなっていた立憲国民党という政党に接近。
1913年、桂太郎は、立憲国民党の一部のメンバーと、内閣寄りの政党だった中央倶楽部を合わせて新しく立憲同志会を立ち上げることを考えました。
当初は立憲政友会のメンバーも引き抜く予定でしたが、これは失敗に終わります。(経験豊富な立憲政友会の結束は固かった!)
この桂太郎の行動は、「政党を立ち上げて立憲政友会に対抗するよ!」という立憲政友会へのメッセージでもあります。立憲政友会も、桂太郎との協調路線を捨て、桂太郎に対して徹底抗戦の構えを見せます。
こうして起こったのが、第三次桂太郎内閣を解散に追い込むための反対運動です。この運動は、第一次憲政擁護運動とも呼ばれ、立憲政友会の反桂太郎運動と国民の桂太郎への不満が合体して、大規模な運動に発展。桂太郎の政権運営を苦しめます。
そして、国民や立憲政友会を完全に敵に回した桂太郎は、議会の賛同を得られずに政権運営を行えなくなり、辞職に追い込まれます。
第三次桂内閣は、1912年12月〜1913年2月のわずか2ヶ月の短命政権に終わりました。国民と政党の大運動で官僚派の桂太郎を辞職に追い込んだことを日本史では大正政変と言います。
桂太郎の後に、海軍大将だった山本権兵衛が内閣総理大臣となったことで、桂太郎と西園寺公望が交代で政権を担った桂園時代は終焉を迎えることになります。
桂太郎が構想した立憲同志会は、1913年12月に結成されましたが、その2ヶ月前の10月、桂太郎は新政党を見ることなく命を落としています。
桂園時代まとめ(年表付き)
桂園時代以後の日本の政治は、官僚派VS政党派の争いに加えて軍部の政治介入が強まり、混迷を極めることになります。
桂園時代は、官僚派VS政党派の争いはあったものの、お互いに歩み寄る場面も多かったため、戦前の他の時期と比べると、比較的国政が安定していたのが大きな特徴です。
- 1901年第一次桂内閣
山縣有朋の策略によって、政党派の立憲政友会が内部分裂。
この隙に乗じて、官僚派の桂太郎が内閣総理大臣就任
- 1904年日露戦争、起こる
戦争に勝つために、政争の敵同士だった立憲政友会と第一次桂内閣が協調路線をとる。
これにより国政は安定化。日露戦争にも勝利!
- 1906年第一次西園寺内閣
日露戦争の際に、第一次桂内閣に協力してくれた見返りに、立憲政友会が政権を握る。
立憲政友会の代表だった西園寺公望が内閣総理大臣に就任。
- 1908年第二次桂内閣
次第に官僚派と意見が対立するようになり、政策をまとめきれなくなった西園寺公望が総理大臣を辞職。
代わりに官僚派の桂太郎が再び内閣総理大臣に
- 1909年伊藤博文、亡くなる
伊藤博文が韓国で暗殺される。
伊藤の死によって、官僚派のボスだった山縣有朋に堂々と発言できるものがいなくなり、官僚派が攻勢へ。
- 1910年大逆事件
テロを企んだ社会主義者が政府に弾圧される。
非民主的な弾圧に国民の政府(第二次桂内閣)への批判が強まる。
- 1911年第二次西園寺内閣
世間の強い批判を受けて、第二次桂内閣は解散。再び西園寺公望が内閣総理大臣に(第二次西園寺内閣)
- 1912年第三次桂内閣
陸軍とのトラブルにより第二次西園寺内閣が解散。再び桂太郎が内閣総理大臣に(第三次桂内閣)
- 1913年第一次憲政擁護運動と大正政変
政権復帰した桂太郎への国民の批判が再び強まる。立憲政友会も桂太郎を叩き、耐えきれなくなった桂太郎はわずか2ヶ月程度で内閣総理大臣を辞任。
海軍大将の山本権兵衛が内閣総理大臣に選ばれ、桂園時代は終焉へ。
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