
今回は甲午農民戦争(東学党の乱)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ! 名前は難しそうだけど、「役人にいじめられた農民がブチ切れて立ち上がった」という、シンプルでアツい事件なんだ。しかもこれが、あの日清戦争のスイッチを押すことになるんだよ。
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
甲午農民戦争と聞くと、「日本が朝鮮に攻め込むためにわざと起こした事件なんでしょ?」というイメージを持つ人がいるかもしれません。
でも実は——この戦争は、日本とはまったく関係のないところで始まった、朝鮮の農民たちによる反乱でした。日本が仕組んだわけでも、最初から侵略を狙っていたわけでもありません。
にもかかわらず、この1894年の農民蜂起が引き金となって、日清戦争・下関条約・そして日露戦争へと、東アジアの歴史が一気に動き出していくのです。「ただの農民の反乱」が、なぜ近代史を根本から変える大事件になったのか。その流れを、最初からたどっていきましょう。
甲午農民戦争とは?東学党の乱と同じ?
- いつ・どこで:1894年(明治27年)、朝鮮半島南部の全羅道で起きた農民の反乱
- なぜ・きっかけ:役人による不正な税の取り立てに怒った農民が、新興宗教「東学」を旗印に蜂起した
- その後:朝鮮政府の要請で清が出兵→日本も出兵し、日清戦争のきっかけになった
甲午農民戦争とは、1894年(明治27年)に朝鮮半島で起きた、農民による大規模な反乱のことです。腐敗した役人の支配に苦しんでいた農民たちが、もう我慢できないと立ち上がった事件でした。
「甲午」というのは、この年(1894年)の干支が「甲午(きのえうま)」だったことに由来します。事件が起きた年をそのまま名前にしている、というわけです。
そしてこの事件は、別名で東学党の乱とも呼ばれます。学校の教科書や参考書では、こちらの名前で習った人も多いかもしれません。

「甲午農民戦争」と「東学党の乱」って、別々の事件なのかと思ってたわ。どっちの呼び方が正しいの?

どっちも同じ出来事を指してるよ! 昔は反乱を起こした側を見下すニュアンスで「東学党の乱」と呼ばれていたけど、今は「甲午農民戦争」と呼ぶのが一般的。韓国では「東学農民革命」とも呼ばれているんだ。この記事では「甲午農民戦争」に統一して進めるね。
東学とは、1860年に崔済愚という人物が朝鮮で始めた新しい宗教です。当時、朝鮮にはヨーロッパから「西学(=キリスト教)」が入ってきていました。これに対抗する「東の学問・東の教え」という意味で、東学と名づけられました。
東学の中心にあったのは「人乃天(人すなわち天)」という考え方。つまり「すべての人間は天と同じように尊い存在だ」という思想です。身分制度に苦しんでいた農民にとって、これは「自分たちも対等な人間なんだ」と勇気をくれる教えでした。だからこそ、東学は農民の間で爆発的に広まっていったのです。

甲午農民戦争が起きたきっかけ・背景
では、農民たちはなぜ命がけで立ち上がったのでしょうか。きっかけは「役人の横暴」、その背景には「朝鮮社会全体の行き詰まり」がありました。順番に見ていきましょう。
■ 役人の税横領が直接のきっかけ
直接のきっかけになったのは、全羅道の古阜という地域で起きた、役人の不正でした。
この地域の役人だった趙秉甲は、農民から不当に重い税を取り立てたり、農民が作ったため池の水を使うのにまで使用料を取ったりと、やりたい放題の搾取を繰り返していました。
たまりかねた農民たちは、何度も役所に訴え出ます。しかし、その訴えはことごとく無視されました。それどころか、訴えた者が罰せられることさえあったのです。「もう話し合いでは無理だ」——そう判断した農民たちは、ついに武器を取って蜂起しました。これが甲午農民戦争の始まりです。

役人がそんなにひどいことしてたなら、政府がちゃんと止めればよかったのに。なんで放っておいたの?

それがね、当時の朝鮮は政府そのものが腐敗しきっていたんだ。役人の地位がお金で売り買いされていて、地位を買った役人は元を取ろうと農民から搾り取る…という悪循環。だから農民がどこに訴えても、まともに取り合ってもらえなかったんだよ。趙秉甲はあくまで「氷山の一角」だったんだ。
■ 東学の広まりと農民の団結
古阜での蜂起は、最初は一つの地域の小さな騒ぎにすぎませんでした。それがあっという間に朝鮮全土を揺るがす大反乱へと膨れ上がった理由——それが、先ほど紹介した宗教「東学」の存在です。
「すべての人は天のように尊い」と説く東学は、苦しい暮らしを強いられていた農民の心を強くつかみました。バラバラだった農民たちが、東学という共通の旗印のもとに団結することで、政府軍と戦えるほどの大きな力になっていったのです。つまり東学は、農民軍を一つにまとめる「精神的な支柱」の役割を果たしました。
📌 ここがポイント:甲午農民戦争には「①役人の不正というきっかけ」と「②東学という団結の核」の2つの要素がある。きっかけ(直接の原因)と背景(広がった理由)を分けて覚えると、テストでも答えやすい。

農民軍の蜂起〜全州城の占領(第一次蜂起)
1894年に始まった農民たちの蜂起は、たちまち大きなうねりとなって広がっていきました。この最初の盛り上がりを第一次蜂起と呼びます。農民軍は各地で政府軍を打ち破り、ついには全羅道の中心都市・全州の城まで占領してしまいました。

■ 指導者・全琫準(ぜんほうじゅん)とは?
農民軍を率いたリーダーが、全琫準という人物です。
彼は体が小さかったことから、人々に緑豆将軍という愛称で呼ばれていました。「緑豆」とは小さな豆のこと。小柄ながらも農民を力強くまとめあげ、政府軍を相手に堂々と戦うその姿は、多くの農民たちの希望の象徴となっていきました。
全琫準が農民たちに語りかけた言葉は、おおよそ次のようなものだったと伝えられています。
「われわれを苦しめているのは、税をむさぼる腐敗した役人たちだ。民のために、ともに立ち上がろう。」
彼が掲げたのは、私利私欲ではなく「悪い政治を正し、苦しむ民を救う」という大義でした。だからこそ農民たちは命をかけて彼に従ったのです。

農民の集まりなのに、お城まで落としちゃうなんてすごいわね。よっぽど政府がガタガタだったのね。

そうなんだ。農民軍の勢いに、朝鮮政府は完全に追い詰められた。自分たちの力ではもう抑えられない…と判断した政府は、なんと外国=清に「助けてください」と救援を求めることになるんだ。これがのちの大事件への伏線になるんだよ。
■ 全州和約〜一時的な和平の成立
全州城を占領された朝鮮政府は、農民軍を鎮圧するため清に出兵を要請しました。ところが、清が出兵すると、それを口実に日本まで出兵してくる事態になります(くわしくは次の章で解説します)。
外国軍が自分の国に入ってくる——これは農民軍にとっても、朝鮮政府にとっても望ましくない展開でした。そこで両者は話し合い、1894年6月、全州和約という和平を結びます。
この和約で、農民軍は政府に「弊政改革(=悪い政治を正すこと)」を約束させた上で、いったん武器を置いて引き上げました。腐敗した役人の処罰や、不正な税の廃止などを政府に認めさせたのです。武力で要求を通したという意味では、これは農民側の「勝利」とも言える和平でした。
📝 全州和約(1894年6月):農民軍が「弊政改革(腐敗役人の処罰・不正な税の廃止など)」を政府に約束させた上で停戦した和平。農民側が要求を勝ち取った形だったが、すでに清・日本の軍隊が朝鮮に入り込んでおり、火種は残ったままだった。
なぜ日本は出兵したのか〜天津条約と日清の対立
ここが甲午農民戦争のいちばん重要なポイントです。「朝鮮の農民の反乱なのに、どうして日本が出てくるの?」——その答えのカギを握るのが、天津条約という、日本と清の間で結ばれていた取り決めです。
流れを整理すると、こうなります。農民軍に城を奪われた朝鮮政府は、清に救援を求めました。清はこれに応じて朝鮮に軍を送ります。すると日本も、清に対抗するように軍を朝鮮へ送り込んだのです。こうして、農民の反乱の場であったはずの朝鮮半島に、清と日本という2つの大国の軍隊が向かい合うことになりました。
📖 天津条約(1885年)とは:1884年に朝鮮で起きた甲申事変(親日派のクーデター)のあと、日本と清が結んだ取り決め。「朝鮮に出兵するときは、どちらか一方が出兵する場合、もう一方の国にも事前に知らせる」という内容だった。この条項があったため、清が出兵すると日本も対等に出兵できる、という理屈が成り立ってしまった。なお、この天津条約と同じ1885年に、福沢諭吉が脱亜論を執筆し、「日本は朝鮮・清を見捨てて西洋の列強と歩むべき」と主張している。

でも、農民の反乱はもう全州和約で収まりかけてたんでしょう? それなのに、どうして日本はわざわざ軍を送ったの?

いいところに気づいたね。実は当時、日本も清も「朝鮮への影響力を握りたい」と狙っていたんだ。朝鮮はもともと清の強い影響下にあったから、日本としてはここで清を追い出して、自分が朝鮮で主導権を握りたかった。だから農民の反乱が収まりかけても、両国とも軍をなかなか引き上げなかったんだよ。そして、にらみ合いがそのまま日清戦争へとつながっていくんだ。
■ ロシアの南下政策という背景
日本が朝鮮にこだわった背景には、もう一つ大きな理由がありました。それが、北から勢力を伸ばしてくるロシアの存在です。
当時のロシアは、不凍港(冬でも凍らない港)を求めて、満洲や朝鮮半島へと南下しようとしていました。これを南下政策と呼びます。日本にとって、すぐ目の前の朝鮮半島が大国ロシアの手に渡ることは、自国の安全をおびやかす大問題でした。
「朝鮮を清やロシアに支配させたくない」——この危機感が、日本を朝鮮への出兵へと突き動かした、もう一つの大きな動機だったのです。つまり甲午農民戦争は、清・日本・ロシアという3つの大国の思惑が、朝鮮半島でぶつかり合う舞台にもなっていきました。

第二次蜂起と甲午農民戦争の終結
全州和約でいったんは武器を置いた農民軍。しかし、その後の展開が彼らを再び立ち上がらせることになります。和約が結ばれたあとも、清と日本の軍隊は朝鮮から引き上げようとしませんでした。それどころか、日本軍は朝鮮の王宮を占拠し、朝鮮の政治に強引に介入し始めたのです。
決定打となったのは、1894年7月23日未明の景福宮占拠でした。日本軍は突然、朝鮮国王(高宗)が暮らす景福宮を武力で占拠します。宮殿の門を砲撃で打ち破って乗り込んだ日本軍は、国王を事実上の人質にして、みずからに都合のよい政権を強引に樹立しました。
「役人の不正をただすために立ち上がったはずなのに、今度は外国の軍隊が国そのものを乗っ取ろうとしている」——その怒りに火がついた農民たちは、ふたたび武器を取りました。これが1894年秋の第二次蜂起です。第一次が「腐敗した役人への反乱」だったのに対し、第二次は「外国(とくに日本)の侵入への抵抗」という性格を強く帯びていました。
■ 日本軍との激戦〜牛金峙の戦い
再起した農民軍は、首都・漢城を目指して北上します。その途中、公州の近くにある牛金峙という峠で、日本軍・朝鮮政府軍の連合軍と激突しました。これが牛金峙の戦いです。
しかし、ここで残酷な現実が立ちはだかります。農民軍の主な武器は竹槍や火縄銃。対する日本軍は、近代的な連発式の銃や大砲で武装した正規軍でした。装備の差はあまりにも大きく、勇敢に戦った農民軍は、この戦いで壊滅的な敗北を喫してしまいます。
記録によれば、牛金峙では農民軍の突撃が40〜50回以上にのぼったとも言われています。銃声が轟くたびに仲間が倒れていく中でも、農民たちは引き返しませんでした。当時の日本軍側の記録にも「敵は勇敢に山を駆け上がってきた」という記述が残されており、その凄まじさは見方をした相手の目にも焼きついていたのです。

竹槍で近代的な軍隊に立ち向かったのか…。勝てるわけないってわかってても、戦うしかなかったんだね。

そうなんだ。装備の差は本当に大きかった。でも、農民たちが「外国に支配されてたまるか」と命がけで立ち上がった事実は、その後の朝鮮の人々の心に長く語り継がれていくことになるんだよ。
■ 全琫準の逮捕と処刑

牛金峙の戦いで大敗した農民軍は、各地に散り散りになっていきました。指導者の全琫準は、再起をはかって身を隠そうとしますが、ともに戦ったはずの仲間の裏切りによって、ついに捕らえられてしまいます。
そして1895年、全琫準は処刑されました。彼の死とともに、各地に残っていた農民軍も鎮圧され、約1年にわたって朝鮮を揺るがした甲午農民戦争は、ここに幕を閉じることになります。
農民たちの戦いは、軍事的には敗北に終わりました。しかし、彼らが望んだ「弊政改革」の一部は、その後の朝鮮の近代化政策(甲午改革)に取り入れられていきます。そして何より、この農民の蜂起こそが、東アジアの歴史を大きく動かす日清戦争の引き金となったのです。その流れは、次の章でくわしく見ていきましょう。
日清戦争へつながる流れ〜甲午農民戦争の歴史的意義
甲午農民戦争は、農民軍の敗北で終わりました。けれども、この出来事の本当の「すごさ」は、ここから先にあります。朝鮮の一地方で起きた農民の反乱が、東アジア全体を巻き込む大戦争——日清戦争の引き金になっていくのです。
流れをもう一度、整理してみましょう。農民の反乱を鎮めるため、清と日本の軍隊が朝鮮へ出兵しました。ところが、全州和約で反乱が収まりかけても、両国とも軍を引き上げようとしません。それどころか、たがいに朝鮮での主導権を握ろうとにらみ合いを続けます。そして1894年8月、ついに日本と清は正面から激突しました。これが日清戦争です。
📖 日清戦争(1894〜1895年)とは:朝鮮をめぐる主導権争いから起きた、日本と清の戦争。近代化を進めた日本が勝利し、1895年の下関条約で清は朝鮮への影響力を失い、日本は台湾や賠償金を得た。甲午農民戦争は、この日清戦争のきっかけとなった出来事として位置づけられる。

■ 甲午農民戦争が近代史を変えた理由
「たった1国の農民の反乱が、そんなに重要なの?」——そう思う人もいるかもしれません。けれども、その後の歴史の流れを並べてみると、その重みがよくわかります。
甲午農民戦争(1894年)をきっかけに日清戦争が始まり、日本が勝利します。すると下関条約で清は朝鮮への影響力を失い、朝鮮は清からの独立を宣言しました。さらに、日本が手に入れた利権をめぐってロシアとの対立が深まり、それが約10年後の日露戦争(1904年)へとつながっていきます。そして最終的には、1910年の韓国併合へと帰結していくのです。
つまり、近代日本がアジアへと進出していく大きな流れの「最初の一歩」が、この1894年の農民蜂起だったと言えます。朝鮮の農民が腐敗政治に立ち上がった——たったそれだけの出来事が、まわりまわって東アジアの地図を塗り替えていったのです。
甲午農民戦争は軍事的には敗北に終わりましたが、その「思想」と「要求」は朝鮮社会に深い爪あとを残しました。
農民軍が掲げた「人はみな平等である(人すなわち天)」という東学の思想や、「腐敗した役人をなくし、不正な税を廃止せよ」という要求は、その後に朝鮮政府が進めた近代化改革——甲午改革——の中に部分的に取り入れられていきました。身分制度の廃止や税制の整理など、農民たちが命をかけて訴えた内容の一部が、制度として実現していったのです。
また、外国の介入に抵抗した第二次蜂起は、後の朝鮮における民族運動の原点の一つとして、現在の韓国でも「東学農民革命」と呼ばれ、高く評価されています。負けた戦いでありながら、その精神は長く語り継がれているのです。

甲午農民戦争がなければ、日清戦争もなかったかもしれない。たった1国の農民の蜂起が、めぐりめぐって東アジアの地図を塗り替えていったんだ。歴史って、こんなふうに思いがけないところでつながっているんだよ。

甲午農民戦争・日清戦争の理解を深めるおすすめ本
甲午農民戦争から日清戦争へと至る流れを、最もわかりやすく整理してくれる一冊が大谷正『日清戦争』(中公新書)です。開戦の経緯・朝鮮半島での戦況・講和条約(下関条約)まで、日本初の対外戦争の全貌をコンパクトに解説。教科書の記述だけでは見えてこない「朝鮮をめぐる日清の駆け引き」が丁寧に描かれており、甲午農民戦争の位置づけを深く理解するのに最適です。
原田敬一『日清・日露戦争』(岩波新書・シリーズ日本近現代史③)は、日清戦争から日露戦争までの約10年間を東アジアの視点から読み解く入門書です。甲午農民戦争がなぜ日清戦争を引き起こし、さらに日露戦争へとつながったのかという「連鎖の構造」が一冊で把握でき、近現代史の流れを体系的に学びたい高校生・大学生にもおすすめです。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「甲午農民戦争(1894年)→ 清・日本が出兵(天津条約が根拠)→ 全州和約 → でも両軍が撤兵せず → 日清戦争(1894年8月)」という一本の流れでまとめて覚えると忘れにくい。「甲午=こうご=1894年」「別名=東学党の乱」「指導者=全琫準(緑豆将軍)」の3点は、語句問題で頻出。

覚えることが多くて混乱しそう…。この中で、テストに絶対出るのはどこ?

一番出るのは「甲午農民戦争=1894年=日清戦争のきっかけ」という関係だよ。あとは別名の「東学党の乱」、指導者の「全琫準」、出兵の根拠になった「天津条約」をセットで押さえればバッチリ!流れで覚えるのがコツだよ。
よくある質問
はい、同じ出来事を指します。「東学党の乱」は日本でかつて使われていた旧称で、新興宗教・東学を旗印にしたことに由来します。現在は学術的にも「甲午農民戦争」と呼ぶのが一般的で、韓国では「東学農民革命」とも呼ばれています。
1894年(明治27年)です。同じ年の8月には日清戦争も始まっており、甲午農民戦争はその直接のきっかけとなりました。「1894年=甲午農民戦争=日清戦争のはじまり」とセットで覚えるのがおすすめです。
「甲午」は、年を表す干支(十干十二支)の組み合わせの一つで、1894年がちょうど「甲午(こうご・きのえうま)」の年にあたるためです。昔は年を干支で呼ぶことがよくあり、その年に起きた農民の戦争なので「甲午農民戦争」と名づけられました。
甲午農民戦争で農民軍を率いた中心的な指導者です。体が小さかったことから「緑豆将軍」という愛称で呼ばれました。腐敗した役人をただし、苦しむ民を救おうと立ち上がりましたが、第二次蜂起の敗北後に仲間の裏切りで捕らえられ、1895年に処刑されました。
最大の理由は、武器の差です。農民軍の主力は竹槍や火縄銃だったのに対し、相手の日本軍は近代的な連発式の銃や大砲を備えた正規軍でした。とくに第二次蜂起での牛金峙の戦いでは、この装備の差が決定的となり、勇敢に戦った農民軍も壊滅的な敗北を喫しました。
甲午農民戦争は、日清戦争の直接のきっかけになりました。反乱を鎮めるために清と日本が朝鮮へ出兵しましたが、反乱が収まっても両軍が撤兵せず、朝鮮の主導権をめぐって対立が激化。その結果、1894年8月に日清戦争が始まりました。つまり「農民の反乱→大国の出兵→日清戦争」という流れでつながっています。
まとめ〜甲午農民戦争を3分でおさらい
最後に、この記事のポイントをぎゅっとまとめておきましょう。試験直前の確認にも使ってください。

以上、甲午農民戦争のまとめでした!「農民の反乱が日清戦争の引き金になった」という流れさえつかめれば、この時代はグッとわかりやすくなるよ。下にある日清戦争や韓国併合の記事も、あわせて読んでみてね!
甲午農民戦争の年表
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1860年崔済愚が新興宗教・東学を創始する
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1885年天津条約が締結される(清・日本の朝鮮出兵に関する取り決め)
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1894年2月古阜郡で農民が蜂起する(古阜民乱・甲午農民戦争の発端)
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1894年5月農民軍が全羅道の中心都市・全州城を占領する
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1894年6月全州和約が成立し、農民軍が一時停戦・撤退する
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1894年6月清が朝鮮に出兵、天津条約を根拠に日本も出兵する
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1894年8月日清戦争が開戦する
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1894年10月外国の介入に抵抗して農民軍が第二次蜂起を起こす
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1894年11月牛金峙の戦いで農民軍が敗北し、甲午農民戦争が実質的に終結する
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1895年指導者・全琫準が処刑される
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「甲午農民戦争」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「全琫準」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「天津条約 (1885年)」(2026年6月確認)
コトバンク「甲午農民戦争」「全琫準」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年6月確認)
ヒストリスト(山川出版社)「甲午農民戦争」(2026年6月確認)
山川出版社『詳説日本史』
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