今回は、1876年に実施された秩禄処分と、それに利用された金禄公債証書についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
最初に教科書風に秩禄処分のことをまとめておきます↓
この記事では秩禄処分について以下の点を中心に解説をしていきます。
そもそも「秩禄」って何?
本題に入る前に、「秩禄」について確認しておきます。
当時、秩禄は基本的に米によって支給されていて、士族たちは秩禄によって生計を立てていました。
一方で、士族に支給する秩禄は明治政府に多額の負担を強いるものであり、明治政府では秩禄廃止の議論が進められることになります。
秩禄処分までの流れ
次は秩禄処分が行われるまでの流れを確認!
- 1869年5年戊辰戦争、終わる
戦後、王政復古や戊辰戦争で活躍した人々に対して禄が与えられる。(賞典禄)
章典禄の対象は、薩摩・長州・土佐の人々がだった。
- 1869年
全ての藩を天皇に返上。藩主は経済基盤を失うが、引き続き各地方の長(知藩事)となり、明治政府から家禄(お給料)を与えられて、保護を受ける。
藩主に仕えていた士族にも家禄が支給された。
- 1871年
全ての藩が廃止され、新しく県が置かれる。県には県令が置かれて知藩事(旧藩主)はクビになるけど、無職になっても家禄だけ貰い続ける。
同じく他の士族たちも家禄を貰い続ける。
- 1873年12月
秩禄が政府の財政を圧迫し始めたため、秩禄の奉還を求める法律を作る。
- 1875年秩禄奉還の法を廃止
秩禄奉還の法は、「数年分の秩禄を前払いする代わりに秩禄を廃止する」という趣旨でしたが、明治政府は前払いに必要な資金を用意しきれず、法律は廃止へ。
- 1876年秩禄処分←この記事はココ!
秩禄奉還の失敗を踏まえつつ、秩禄処分を実施。秩禄処分によって全ての士族の秩禄が廃止された。
上の時系列からわかるように、秩禄処分は秩禄奉還と合わせて実施された明治政府の財政立て直し政策の1つでした。
秩禄奉還の法とセットなので、合わせて以下の記事を読んでいただくと理解がスムーズになるのでオススメです。
秩禄「奉還」から秩禄「処分」へ
秩禄の廃止は、イコール「士族の生活手段を奪う」ということを意味していました。現代風に言えば、「急にリストラされて生活ができなくなる・・・」というのと同じです。
しかし、このまま秩禄を支給し続けることも不可能でした。なぜなら明治政府にはお金がないからです。当時、秩禄は毎年の政府支出の約30%を占めていて、富国強兵を目指し工場を建設したり、軍隊を整備するためにはこの30%がとても邪魔だったんです。
1873年、秩禄の扱いについて明治政府内で激しい議論が行われます。
もはや政府の財源には一刻の猶予もない。
すぐにでも秩禄を全て廃止にしてしまうべきだ。
そんなことをしては、士族たちが必ず反乱を起こすぞ。絶対ダメだ!
もう少し、穏便な方法はないものか・・・。
秩禄をどうするにせよ、士族の生活は必ず守らなければならない。急な秩禄の廃止は良くない。
こんな感じで、明治政府の中でも意見は様々でした。ただ、「秩禄を今のまま放っておくと、明治政府の財政がマジでやばい」ってところでは意見は一致していました。
同じ1873年、賛成・反対の両意見の折衷案として秩禄奉還の法が定められます。
秩禄奉還の目的は、「前払いした資金を使って士族たちに新しい仕事を探してほしい」というものでした。まさに「秩禄廃止」と「士族保護」の折衷案とも言える内容です。現代で言えば、失業保険的なものでしょう。
しかし、これはうまくいきません。秩禄のたった3割を廃止しただけで、前払いの財源が無くなりそうになったからです。(当時、日本は秩禄奉還のためイギリスから借金(外債)をしていたけど、それでも足りなかった)
そのため1875年には秩禄奉還の法は廃止され、代わりに1876年に秩禄処分が実施されることになりました。
秩禄処分の内容
そんな経過があるので、秩禄処分はできるだけ士族に対する支出を減らす形で行われます。つまり、秩禄奉還と比べて「秩禄廃止」>「士族保護」となったわけです。
その内容は以下のようなものでした。
秩禄処分によって、廃止対象者は希望者から全ての士族へと大きく拡大しました。
対象者を増やしたら、明治政府はさらに財政的に苦しくなるのでは・・・?
という疑問もあるかもしれません。・・・が、そこの対策はバッチリです。
まず、秩禄の支給をお米から現金に変更しました。過去3年間の米の価格を基に支給金額が計算されることになりました。
これは、実質的な支給額の減額に繋がります。なぜなら、年々お米の物価は上昇し続けていたからです。以下の具体例を見るとわかりやすいです。
例えば、お米1kgの価格が以下のように毎年値上がりしていたとします。(金額は私がテキトーに決めた額なので実際とは全然違います)
そして、士族Aさんが貰っていた秩禄相当分は毎月10kgだったとします。
これをお金に変換するため、1872年〜1874年の1kg当たり米価格の平均値を計算すると・・・
(100+105+115)/3≒106円
なので、Aさんが貰える毎月のお金は「1kg当たり106円」×10kg=1,060円です。
そして、秩禄処分が行われた1876年の米の価格とAさんが貰える金額を比較してみます。
おかしいですよね。Aさんは秩禄相当分をお米で貰ってそれを売った方が240円得する計算です。逆に考えると、明治政府は支給方法をお米→お金とするだけで、財源を節約できることになります。
このようにして、お金で支給する秩禄のことを金禄と言います。
さらに、明治政府は金禄を現金で渡さず、全て公債としてしまいました。
【公債】
行政組織(明治政府)が借りているお金などの債務のこと。
明治政府は士族に金録を渡さず、全てを強制的に公債として借り入れてしまいました。
その代わりに、お金を貸している士族は毎年5〜10%の利息を国から受け取ることになります。(秩禄奉還の時は8%だった。)
この公債は、士族の金録を国が強制的に借り入れたものだったので金禄公債と呼ばれます。そして、士族たちには、金録を国に貸している証明として金禄公債証書が発行されました。
金禄公債の影響は凄まじく、下級士族たちはこの仕組みによって息の根を止められることになります。また具体例を挙げてみましょう。
士族Bさんの毎年の秩禄が1万円(10,000円)だったとします。さらに、Bさんに対する秩禄処分の内容が以下のとおりだったとします。
まず、Bさんが貰える金録は10,000円×5年=50,000円。
この金禄は、国が強制的に借り入れる金禄公債となり、全額がBさんの手元に渡ることはありません。Bさんがもらえるのは、金禄を国に貸していることで貰える5%分(50,000円×5%=2,500円)の利息だけです。
単純計算で、士族が貰える年間の秩禄は10,000円から2,500円へと75%も減っていることがわかります。これに加えて、上で述べたように物価の上昇しても、支給額が変わらないので、実質的に75%以上の減額となります。
しかも、明治政府に貸した5万円が戻ってくるのに最大30年も待たなければなりません。仕組みが難しいですが、明治政府が士族に対して非常に鬼畜なことをしていることがわかると思います。
上の具体例をまとめると、士族の生活を苦しめた仕組みは以下のようになります。
これを政府視点から見ると全てが真逆となり、「支出額を減らせるし、返済期間を長くすることで財政への負担も減らせる」というとってもお得な制度となりました。
政府は、秩禄処分によって士族たちがブチギレてテロ行為を行わないよう、秩禄処分とほぼ同時に廃刀令を出しました。士族が刀を携帯することを禁じて、暴動が起こることを防ごうとしたのです。(政府も自分が鬼畜なことをしている自覚があったということです)
士族、終了のお知らせ
秩禄処分によって、ほとんどの士族が没落してしまいました。平穏無事に秩禄処分を乗り切れたのは、藩主レベルの高い身分の士族に限られます。(この他、西郷隆盛のいた薩摩藩も優遇されました。)
生活する術を失った士族の多くは、手元の金禄公債を売って、売ったお金で新しいビジネスを始めたり、仕事を探したりすることになります。
・・・が、その多くは失敗しました。商売に慣れていない士族がビジネスを立ち上げたところで、そのほとんどが上手くいかなかったのです。その様子から、慣れないことに手を出して失敗することを「士族の商法」なんて言われるようになります。
例えば、いつもセブンイレブンで買い物するのに、たまにローソンに買い物に行って欲しいものがなかった時に「あー、ミスった。士族の商法だわ」って使い方をします。
少しややこしいですが金禄公債は本人の意思で売ることが認められていました。
士族から金禄公債を買い取った人は、その士族の代わりに利息を受け取り、30年以内に元本を受け取ります。
金禄公債は当時大量に設立された銀行から大人気で、買いたい人がたくさんいました。一方で、金禄公債を売って現金を欲しがる士族もたくさんいたので、金禄公債は活発に取引が行われます。
明治政府は士族たちに、「荒地の開墾」「北海道の開拓」という仕事を与えて士族を救おうともしました(士族授産)が、これも上手くいきません。これらは過酷な労働・環境を強いるものだったので、辛うじて生活はできても、秩禄処分以前の生活水準を維持することはほとんど不可能であり、多くの氏族は厳しい生活を強いられました。
このように新しい道を手探りする士族たちもいれば、ストレートに明治政府に対して反乱を起こす士族たちもいました。反乱を起こす士族は九州地方に多く、これは最終的に1877年に勃発した西南戦争にまで発展することになります。
コメント
教えてほしいのですが、先祖は岡山藩士であったものが幕末に博打等で城下を追われたようで川漁をしておりました、岡山県下にはそういう家が散在しています、その年代が渋染め一揆の前後なのか、または秩禄処分に合わせたものなのか知っておられるでしょうか?岡山藩はこの一揆があったことから、より下層民を世に送り出そうとした可能性もあります、母(現在90歳)は普通以下であるということを強く言っていました。岡山出身の歴史家磯田準教授もテレビの中で「没落武士は川漁や渡し船をしておりました」といっておられます、また、どなたか詳しい方はおられないでしょうか?
当ブログをご覧いただきありがとうございます。
諸藩の詳細な歴史でしたら、岡山県にある博物館や郷土資料館のような社会施設を尋ねてみるのはいかがでしょうか。
おそらく、郷土史について一番詳しい場所なのではないかと思います。