遣隋使の目的・内容は?小野妹子って?簡単にわかりやすく

今回は、600年と607年の2度派遣された遣隋使の話をしようと思います。当時は推古天皇が即位していた時代で、十七条の憲法の制定や冠位十二階制など様々な政治改革が行われました。詳しくは以下の記事を。

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遣隋使はなぜ派遣されたのか

日本では、600年に約130年ぶりとなる遣隋使の派遣が実施されました。なぜこのタイミングで長年封印していた使節団の派遣を決定したのでしょうか?

アジア大陸では581年、長い間分裂していた中国を統一した超大国の隋(ずい)が建国されました。中国は長い間、様々な王朝が乱立していましたが、久しぶり統一を成し遂げた大国が登場したのです。

突如として現れた大国の登場によって、隋の隣国は隋との外交政策を展開します。外交方針は様々で、隋と対立する国もあれば、隋と結びつきを深める国もありました。目まぐるしく激変する国際情勢にどの国も必死の対応に追われていたのです。

しかし、日本だけは対応に遅れをとってしまいます。当時の日本は、物部氏と蘇我氏による内紛や崇峻天皇の暗殺事件など内政対応に追われて、とてもそれどころではありませんでした。

そして政治情勢が落ち着いてきた600年に、ようやく隋との外交を開始する余裕が生まれたというわけです。

大失敗の第1回遣隋使

日本は遣隋使を派遣し、隋との対等外交を目指しました。

当時の中国の外交スタンスは、朝貢関係と言って、中国が目上の立場に立ち、諸国が中国に対して貢物や謁見をするような外交スタイルが一般的でした。しかし、日本はこのような朝貢関係は拒否し、あくまで大国隋と対等に話し合える国である!というのを国際社会にアピールしようとしたのです。

やる気満々で派遣された600年の第1回遣隋使ですが、これは大失敗に終わります。

呆れる隋皇帝の煬帝(ようてい)

日本は隋に対して日本の政治の在り方などについて説明しましたが、日本がトンチンカンなことを言うものだから、煬帝は呆れ、日本の使者を諭すほどの有様だったようです。これでは隋との対等外交など夢のまた夢の話。こうして第1回目の遣隋使派遣は大失敗に終わりました。

遣隋使の意義

外交的には失敗した遣隋使ですが、隋の政治のあり方や文化などを日本に伝えることができたことは遣隋使の大きな功績の1つです。

604年に制定された十七条の憲法の制定や冠位十二階制の導入ほ背景にも、600年の遣隋使の影響があったものと思います。

そして607年、大失敗に終わった第1回のリベンジをすべく、第2回目の遣隋使が派遣されます。この時に活躍したのが、女の人とよく間違えられるあの有名な小野妹子でした。

小野妹子は何をしたか

607年の遣隋使は、高向玄理、南淵請安、旻などその後日本の政治で大活躍する多くの有能な人物を連れての派遣でした。そして使節団の代表は小野妹子です。そのそうそうたるメンバーからは、遣隋使の派遣に対する日本の意気込みが感じ取れます。

ところが、607年の第2回遣隋使一行は隋皇帝である煬帝(ようてい)の逆鱗に触れることになってしまいます。きっかけは小野妹子が持ってきた国書の内容でした。

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。

小野妹子が持参した国書の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という部分に煬帝は大激怒します。

日が昇るところ(東)の天子とはすなわち日本のこと、一方の日没するところ(西)の天子とは隋を指します。煬帝は次に掲げる2点について到底容認できないと激怒しました。

  • 天子は世界を統治すべき者を意味する言葉で世界に1人、隋皇帝のみである。それなのに日本が自らの君主を天子と呼んでいること。
  • 隋が日の没する処とはまるで衰退する国のような言いぶりであること。

怒った煬帝は、次のように側近に命じ、小野妹子を筆頭とする日本の使節団を追い返してしまいます。

「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼で野蛮な国書を、二度と私に取り次ぐな)

顔面蒼白!?返書を紛失する小野妹子

小野妹子たちを追い返してしまった煬帝ですが、実は小野妹子に返書を渡していました。そして、使節団の代表である小野妹子には返書を無事に天皇の元は持ち帰る責務があります。ところが、日本への帰国途中、小野妹子は重要な重要な外交文書である隋からの返書を紛失してしまいます。

返書紛失という大爆弾を抱えたまま、小野妹子らは帰国します。推古天皇や聖徳太子は小野妹子らの帰国を喜んだことでしょう。なぜなら、小野妹子ら遣隋使と一緒に隋の使者である裴世清(はいせいせい)という人物が同行していたからです。裴世清は決して官位の高い者ではありませんでしたが、大国の隋がわざわざ使者まで同行してくれたという事実は、天皇たちに隋との対等外交の成功を感じさせたことでしょう。(実際は上述の有様ですが・・・)

ところが、返書を紛失した話になると話の成り行きは全く違います。返書紛失の責任をとってなのか実は小野妹子は一度流罪に処されてしまいます。

ここからが不思議なのですが、一度流罪となった小野妹子はなぜか罪を許され、突如として冠位十二階制の最高冠位である「大徳」を得ることになります。罪人からいきなり朝廷の要人に大出世をしたのです。

小野妹子に対するこの不可解な処遇の裏には一体何があったのでしょうか?実は、よくわかってはいませんが、私の可能な範囲でその実態に迫ってみたいと思います。

第2回遣隋使派遣は成功したのか?

さて、煬帝を激怒させてしまった607年の遣隋使たちですが、この使節団の派遣は隋との対等外交を実現するという目的を達成できたのでしょうか?

一見失敗しているように見えますが、実はそうでもない・・・という考え方もできます。

聖徳太子と慧慈(えじ)

摂政として朝廷の要職についていた聖徳太子。仏教を深く信仰し、儒教を重んじたと言われていますが、聖徳太子が仏教の師と仰いでいた人物がいました。それが、慧慈(えじ)という僧侶です。日本人ではありません。はるばる高句麗からやってきました。

この慧慈という人物。仏教を日本に伝来するためやってきたのですが、なぜわざわざ日本へ仏教を伝来しよう!と思ったのでしょうか?実は単なる布教活動ではなく、仏教を利用した高句麗の外交政策だと言われています。

隋VS高句麗

581年に建国された隋は、近隣国を攻め領土を拡大させることに注力し続けてきました。特に煬帝の時代になると侵略戦争は本格的になります。そんな隋の侵略ターゲットの1つだったのが高句麗でした。高句麗は昔から強国として知られ、隋の無茶な要求を無視し、隋と徹底抗戦の構えを見せていました。そんな高句麗が後顧の憂いを消し去るために実施したのが日本との仏教外交だったのです。

こうして、隋との戦いに専念するため、仏教に興味を持っている日本と親密になろうと考えたわけです。慧慈は、摂政の聖徳太子に近づくことができたので、この外交政策は大成功だったのではないでしょうか。

聖徳太子は慧慈を通じて隋や高句麗の国際事情はもちろん知っていたはずで、摂政という立場上、遣隋使の派遣にも無関係ではありません。そんな聖徳太子が、何の考えもなしに煬帝を怒らせるような国書を認めるでしょうか?

聖徳太子の巧みな外交術

607年の遣隋使派遣当時、実は隋を取り巻く国際事情は非常に不安定なものでした。侵略戦争を繰り返したおかげで、周囲の国は敵だらけ。そして戦争のしすぎで民が疲弊し、各地で暴動が多発するほどでした。さらに、肝心の高句麗討伐も強固な高句麗の守りの前になかなか上手く進みません。

そんな状況の隋に、はるばる海を渡ってやってきたのが小野妹子らの遣隋使だったのです。当時の隋は、多くの国と対立状態であり無駄な敵を作りたくはありませんでした。当然、高句麗が日本に近づいていることも知っていたはずで、日本を敵にすることは何としても避けたい状況だったのです。

そんな隋の苦心の現れが、小野妹子ら遣隋使に同行した隋の使者の裴世清の存在だと言われています。隋から見れば、日本はほとんど関与したこともない無礼千万な国書を携えた離れた島国にしかすぎません。隋がそんな国に対して使者を派遣したのですから、607年の遣隋使派遣は「遣との対等外交を実現する!」という目的のために一定の効果はあったという考え方もあります。

整理すると、607年の遣隋使は、トラブっても煬帝は何もしてこないだろう・・・というしたたかな聖徳太子の策略により、意図的に超強気に書き上げた国書を携えさせた計画的犯行である・・・という説があるということです。

小野妹子はわざと国書を紛失した説

上述の説が正しいと仮定すると、煬帝を怒らせたにも関わらず、裴世清を隋から同行させることに成功した小野妹子ら遣隋使派遣は大成功だった・・・とも捉えることができます。

そして、紛失した国書についても「隋と日本が対等に外交をする!」という点に関して日本に不都合な文言があったため、帰国途中にわざと紛失し、その内容をうやむやにした・・・という説があるのです。

こう考えると、小野妹子が一度流罪となったあと、すぐに罪が許され冠位十二階制の大徳に大出世した理由も推測することができます。

小野妹子の事情を察した聖徳太子や推古天皇ですが、返書紛失が国務上の大失態であることには変わりなく、お咎めなしでは周囲の人に説明がつきません。そこで、すぐに罪を許すことを前提に一度形式的に流罪とし、その後その実績を称して大徳の冠位を与えた・・・と考えることができるわけですね!

遣隋使と小野妹子まとめ

遣隋使派遣や小野妹子の処遇については謎に包まれていることが多く、この記事では自分が一番すんなりと納得できた説を紹介しました。遣隋使と一言に言っても、当時の複雑な国際事情を考慮すると、実に奥が深い歴史的事件であると私は考えています。

いずれにせよ、名前から女に間違われる小野妹子ですが、その人物像は、遣隋使の代表という重役を担い、流罪から一転大出世を遂げるようになったとても波乱万丈な人生を歩んだ男です。そんな国に尽くした男が女の子に間違われてしまうというのは、なんだか不憫でなりません。

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