聖徳太子は何をした?可哀そうな小野妹子【わかりやすい聖徳太子物語第4話】

第3話では、600年に派遣した遣隋使が、隋にフルボッコにされた反省から、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の3人協力体制の下、17条憲法と冠位十二階という制度を作り上げ、隋を真似た天皇をトップとした中央集権国家の実現を目指していました!

ということを説明しました。

【推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子のおさらい】

<推古天皇>
崇峻天皇亡き後、皇位継承問題が勃発したが、蘇我馬子の暗躍もあり聖徳太子が天皇になるための中継ぎとして天皇になった。中継ぎと言いつつも、なかなか聡明な人物だったよう。

<聖徳太子>
蘇我氏と天皇家の血を引く、次期天皇の第一人者。天皇ではないものの、推古天皇の側近として国政を司っていた。みんなに愛されるアイドル的存在。

<蘇我馬子>
丁未の乱で物部氏を滅ぼした後、強大な権力を築き上げた有力豪族。その権力は、崇峻天皇の排除・推古天皇即位など皇位継承に直接介入できるほどの強大な権力であった。冠位十二階制度でも、天皇家と蘇我氏は別格な存在として制度の対象外とされていた。

第4話では、607年に行われた第2回遣隋使の派遣の話から始めていきます。

7年ぶりのリベンジなるか!?第2回遣隋使

607年、日本では7年ぶりに遣隋使の派遣を行いました。目的は、第1回目と同様に、日本という国の凄さを隋に見せつけるためでした。(詳しくは、聖徳太子物語第2話をご覧ください。)

600年の第1回遣隋使が隋でフルボッコにされたのを受け、日本では隋のような天皇をトップにした国づくりを推し進めるため、大きく3つの政策を実施しました。

○17条憲法

○冠位十二階

○新たな都の建設

上2つは、聖徳太子物語第3話で説明しました。一番下の京の建設はまた別の機会に紹介できればと考えています(今回は省略します。すみません)。

大国の隋に馬鹿にされたというのは、侵略されやすくなるということ。日本にとってはかなりの脅威だったはずです。

変わった日本の姿を隋に見せ、7年ぶりのリベンジを行う必要が日本にはあったのです。

隋皇帝ブチ切れ!小野妹子の「天子」発言

第1回目のときは「日本では、日が昇っているときは天子の弟が、日が沈んだら天子が政治を行います(キリっ」発言により、隋から馬鹿にされてしまいました。「夜中に仕事するとか非効率的すぎるけど馬鹿なの?」

第2回目の遣隋使派遣では、有名な小野妹子が使節代表として登場します。小野妹子は隋皇帝に次のような書き出しの国書を渡します。

「日出(い)ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや、うんぬん・・・」(東(日本)の天子から西(隋)の天子へ国書をお渡しします。・・・・)

これに隋皇帝は大激怒!!天子は世の中で隋皇帝だけなのに、東の天子とは何事か!!!というわけです。隋から見れば、日本が喧嘩を売っているように見えたことでしょう。

隋皇帝は、次のように側近に命じ、日本の使者を追い返してしまいます。「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼で野蛮な国書を、二度と私に取り次ぐな)

ここで、注目したいのは、日本が天皇のことを天子と考えていること。日本としても、自分が他の国の下に位置づけられることはあってはならないことだったのです。なぜ日本に仏教が伝来したのか!?その秘話に迫るでも日本の天子思想について少し触れましたが、この時代になると日本独自の天子思想が本格的に根付き始めたと言えます。

国交断絶の危機!?

隋皇帝を怒らせてしまった小野妹子。皇帝の怒りようは凄まじく、国交断絶もやむなしというような状況にまでなってしまいました。

隋にとって、小野妹子の「天子」発言は宣戦布告に近いものだったのでしょう。日本にとっても隋を怒らせたことは相当な脅威だったはずです。

しかし、最終的には、隋も日本に使者を派遣し、小野妹子らと一緒に日本へとやってきました。

かろうじて国交断絶は防げたのです。

あんなにブチ切れていた隋皇帝が、日本に使者を派遣したのはなぜでしょう?そこには、複雑な国際情勢があります。

隋vs高句麗

隋は隣国である高句麗とずっと対立を続けていました。そこで、高句麗が仲良くなろうと日本に接近してきたというのは、聖徳太子物語第2話で見たところです。

そんな矢先に600年、607年と立て続けに隋と対等な国であることをアピールするために、日本から遣隋使が派遣されてきました。

隋から見れば、話が出来すぎてると思いませんか?隋皇帝は、高句麗と緊張関係にあり、無駄な敵を作りたくないと考え、無礼は許しがたいものの、国交断絶は得策ではないと判断したのです。

日本にとっては、不幸中の幸いだったと言えるでしょう。

可哀そうな小野妹子

一番可哀そうなのは、小野妹子です。隋皇帝には怒鳴られ、日本に戻れば任務失敗(日本を隋と対等の国であるとアピールすること)のため、お説教が待っている。

小野妹子は、隋と日本から板挟み状態だったのです。

小野妹子は、608年に隋の使者とともに日本へ帰るのですが、使者とともに渡された隋皇帝から日本国への返書を帰国途中で紛失してしまいます。

紛失した理由にはいろんな説があるようですが、返書には日本が隋の臣下であるという日本が隋より下の立場であるという表現があったため、これを日本に帰って天皇に見せれば、次は天皇に怒鳴られる・・・と恐怖に震えた小野妹子がわざと紛失したのではないか?という説もあったりします。

そんな不憫な人物が小野妹子でした。

その後の隋との関係は?

日本もさすがに反省したようです。隋に「日本に天子がいる」という発言はタブーということを知り、その後は発言を控えるようになります。

隋としても、本来は天子思想に基づき日本を冊封(隋の臣下国として、官爵を授けること)したいのですが、そうすると日本が怒り、高句麗と結びついてしまう恐れがあるため、朝貢(貢物を持って、隋へ訪れること)だけしてくれれば冊封は受けなくていいよ!という妥協案を採用することとしました。

日本としても、隋との対等外交は駄目だとしても、仏教を振興したい日本にとって、大陸の最新文化(主に仏教)を取り入れるという意味で隋との国交を保つことは大変重要でした。日本も隋の妥協案で納得したのでした。

こうして、約130~40年ぶりに両者の交易の道が開かれていきます。

もしここで国交が断絶していれば、日本の歴史は大きく変わっていたと思います。奈良の大仏もなければ、空海や最澄などの偉人が誕生することもなかったのですから。

今回は、聖徳太子があまり登場しませんでした(汗)。推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子を中心に行った政策は、結局隋皇帝を激怒させてしまったことで失敗してしまったと言えますが、結果オーライで隋との国交が開かれたのでした。

次は、最終話!聖徳太子亡き後の話やそのほか聖徳太子にまつわるお話をしていきます。

次:聖徳太子はなぜ有名?聖徳太子が有名な3つの理由【わかりやすい聖徳太子物語最終話】前:聖徳太子はなぜ有名?17条の憲法と冠位12階【わかりやすい聖徳太子物語第3話】

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