藤原仲麻呂って何をした人?【孝謙天皇と橘奈良麻呂の乱】

DSC01480

さて、前回(学校では教えてくれない日本の聖人、行基の話-聖武天皇、東大寺の大仏造立へ-)は聖武天皇の大仏造立のお話をしました。

大仏造立後の日本は、聖武天皇の願いも空しく、陰謀渦巻く陰湿な政治闘争の時代へと突入していきます。そして、時代は少しずつ、平安京の時代へとシフトし始めるのです。

実はこのあたりの話、結構マニアックです。雑学程度に読んでいただけると嬉しいです。

756年、聖武太上天皇逝去 -藤原氏の復興へ-

756年、聖武太上天皇は逝去します。「太上」とは元天皇のこと。

当時、天皇は孝謙天皇という人物でした。

huziwara4

(クリックで別ウィンドウで表示されます。)

今回の主役たちを系図でご紹介。あまり歴史の表舞台には出てきませんが、藤原光明子(聖武の皇后)の存在が政治に大きな影響を与えていたようです。

光明子は、中臣鎌足から続く藤原一門であるとともに、通常は皇族しかなりえなかった天皇の妻(皇后)となった人物でもある凄い人なんです。

そんな中、光明子の権勢をバックに着実に力を強めていった人物がいました。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)です。

聖武天皇がいる頃は、まだ光明子・藤原仲麻呂の力は抑えられていました。最高権力者である聖武天皇が上手い具合にクッションになっていたのです。

しかし、聖武天皇の逝去により権力の均衡バランスが崩れ、藤原仲麻呂は急速に力を強めていきます。天然痘によって衰退した藤原氏の勢力が再び復活しようとしていました。

(天然痘と藤原氏の関係については知りたい方は、日本で最初の怨霊!?藤原広嗣の乱をわかりやすく解説!-聖武天皇はなぜ東大寺の仏像を造ったのか-をどうぞ)

政治の世界で力を強めるとは、すなわち邪魔な有力者を排除すること。政治闘争の始まりです。

藤原仲麻呂が最初のターゲットにしたのが、橘諸兄(たちばなのもろえ)という人物とその息子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)という人物でした。

藤原仲麻呂「おまえらの席、ねーから!」

橘諸兄は、天然痘により藤原氏らがなくなった後、政界のトップに君臨していた男です。

(橘諸兄については、日本で最初の怨霊!?藤原広嗣の乱をわかりやすく解説!-聖武天皇はなぜ東大寺の仏像を造ったのか-を参考にどうぞ)

聖武天皇が逝去する少し前、橘諸兄は、病気だった聖武太上天皇に対して酒の席で不敬の言を述べたと讒言(ざんげん。他人を陥れるため、人を悪く言うこと)しされ、職を辞職してしまいます

「え?そんだけ?」と思うかもしれませんが、酒の話はきっかけにすぎません。藤原仲麻呂は、橘諸兄をクビにしたい!と思っていましたが、大義名分がありませんでした。

藤原仲麻呂としては、どんな些細なことでも嘘っぱちでも良いので大義名分さえ手に入れてしまえば良かったのです。まさに陰湿な政治闘争です。

父の無念を晴らすぞ!!橘奈良麻呂の乱

政界から排除された橘諸兄の息子、橘奈良麻呂は仲麻呂のことを強く恨んでいました。

そして、756年、聖武天皇が逝去し藤原仲麻呂の力がますます強くなったことを受け、757年、藤原仲麻呂排除に向けての謀反を企てます

藤原仲麻呂の光明氏をバックにした強引な有力者排除には多くの人々が不満を持っていました。橘奈良麻呂はそのような不満を持つ者を集めたのです。

また、当時、聖武太上天皇の逝去を受け、孝謙天皇の次の天皇候補(皇太子)を誰にするかが議論となっていました。

藤原仲麻呂は、大炊王(おおいおう。後の淳仁天皇)という人物を推し、一方の橘仲麻呂は皇位を望む別の皇族たちとの結びつきを強めます。

橘奈良麻呂の乱は、父の無念を晴らす!というだけではなく、皇位継承問題という側面も持つおおがかりなクーデターだったのです。

謀反、あっけなく露見する -藤原仲麻呂の諜報活動-

しかし、乱は失敗します。乱を起こす前に計画が露見してしまったのです。

橘奈良麻呂の仲間の中に藤原仲麻呂サイドの内通者が存在し、上手く情報をリークしていました。

藤原仲麻呂の粛清「削除、削除、削除、削除ぉ!!」

橘奈良麻呂らは、乱を起こす前に仲麻呂たちに捕まります。

ここから、藤原仲麻呂の粛清が始まります。乱に関与したものは容赦なく処罰を行い、命を落とした者や流罪となった者は総計で400人を上回るほどだったと言われています。

藤原仲麻呂は、橘奈良麻呂の乱を利用して政界の邪魔者をすべて排除しようとしていたのです。

そのため、邪魔者であれば、乱に直接関係ない者にまで被害が及びました。

仲麻呂「おまえら左遷な」佐伯・大伴氏「は?」

佐伯氏と大伴氏は、橘奈良麻呂から「乱に参加しようぜ!」と持ち掛けられていましたが、朝廷に忠誠を示すため、乱への参加は断っていました。

しかし、橘奈良麻呂から参加を持ちかけられたことに対して仲麻呂にいちゃもんをつけられ、これら2つの氏族たちの政治的立場は失墜することとなりました。

橘諸兄の左遷となんとなく似ていますね・・・。

仲麻呂「お前、尋問へたくそだったから左遷な」藤原豊成「は?」

橘奈良麻呂の乱は、内通者の活躍により未然に防がれてしまいますが、その後、関係者を洗い出すための尋問が行われました。

そんな中、藤原豊成(ふじわらのとよなり)は尋問を行っていましたが、相手は全然関係者の話をしてくれません。

それに加え、豊成の子が橘奈良麻呂に加わっていたこともあり、左遷されてしまいます。言いがかりにもほどがあります(汗

こうして、邪魔な者ならば乱に直接関係ない者まで排除を行い、藤原仲麻呂の一強時代が到来します。

傀儡の淳仁天皇 -藤原仲麻呂の独裁政治へ-

monmu-genme

(出典:wikipwdia 文武天皇)

橘奈良麻呂の乱は皇位継承問題という側面もあったという話を先ほどしました。

邪魔者を大量排除した仲麻呂は、橘奈良麻呂の乱の翌年の758年、遂に自分の言いなりになってくれそうな大炊王を即位させます。

淳仁天皇(じゅんにんてんのう)の即位です。孝謙天皇は上皇(元天皇。「太上天皇」と同じ意味。)になりました。

なぜ、一官僚にすぎない藤原仲麻呂が天皇即位に大きな影響を与えるほどの権力を持つようになったのでしょうか?

陰で暗躍する藤原光明子(聖武天皇の皇后)が原因です。

さらに、絶大な権勢を誇る光明子は淳仁の前代である孝謙天皇のお母さんです。最高権力者の天皇さえ光明子に逆らうことは簡単にはできませんでした。

つまり、光明子が藤原仲麻呂を支援してくれる限り、孝謙天皇も仲麻呂とは協力体制を採らざるを得ないということ意味します。

要は、光明子がいる限り仲麻呂は無敵モード。マリオのスター状態です。

しかし!藤原仲麻呂が好き勝手できたのは、あくまで「光明子がいる限り」です。760年、淳仁天皇即位から2年後、光明子は逝去してしまいます。

光明子の死をきっかけに、政界のパワーバランスは再び大きく揺れ動き、激動の時代がやってきます。

道鏡という僧の登場をきっかけに、藤原仲麻呂の権勢は少しずつ凋落し始めます。

今回は、ちょっとマニアックな話でしたが、次回からの話はかなり熱いです。おそらく奈良時代の中で一番面白い話だと思います。

・栄華必衰の藤原仲麻呂の人生
・天皇として認めてすらもらえず、淡路島に流される淳仁天皇
・道鏡にのめり込む孝謙上皇
・上皇の弱みに付け入り、天皇の座を狙う道鏡

ここから平安京遷都までの話は、まさに小説を読んでいるかのごとくに感じるはずです。確かに源平合戦や戦国時代と比べれば見劣りはします。ですが、古代日本にこんな熱い話があったんだ!と少しでも多くの方に知っていただければとうれしいです。

次:道鏡と孝謙(称徳)の恋の予感!?水を差す淳仁天皇

前:誰でもわかる鑑真来日の感動物語【なぜ日本に戒律を伝えたのか】

楽しく学ぶわかりやすい日本の歴史講座一覧に戻る

スポンサーリンク

こちらの記事もオススメです

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする