平治の乱とは?勝者は?簡単にわかりやすく紹介!【平氏VS源氏】

平治の乱は、対立関係が超複雑であることで有名な1159年に起こった内乱です。この3年前に起こった保元の乱にも複雑な対立関係がありましたが、平治の乱はそれ以上に複雑です。

今回は、そんな平治(へいじ)の乱について、できる限りわかりやすくかつ詳しく紹介してみようと思います。ちなみに、以下の保元の乱の話を知っておくと理解がスムーズになるかもしれません。

今回は、人間関係が複雑でよくわからないことで有名な保元(ほうげん)の乱について紹介したいと思います。この記事だけでは...
スポンサーリンク

後白河上皇と二条天皇(守仁親王)の関係

保元の乱は、崇徳上皇を排除し、後白河上皇→二条天皇という皇位継承ルートを確立するための内乱でした。

当時、亡き鳥羽上皇の遺産を受け継いだ妃である藤原得子が裏で強大な影響力を持っていました。別称「美福門院」とも呼ばれます。この記事では美福門院という名で統一しようと思います。

美福門院は守仁親王(後の二条天皇)を養子としており、何としても守仁親王を即位させようと考えていました。ところが、守仁親王には父がいました。父を差し置いて子だけ天皇になるなど、男系血族に重きを置く日本の天皇制度においては前代未聞の出来事です。

こうして、守仁親王が即位するまでの繋ぎ役として止むを得ずその父である後白河天皇が即位したのです。つまり、後白河天皇は天皇即位はしたけど、周囲の人からはあまり期待はされていなかったことになります。

1158年、美福門院らの裏工作により後白河天皇は譲位し、守仁親王が二条天皇として即位します。こうして、裏の権力者美福門院の目的は達成されたわけですが、ここで少し困った事態に陥ります。

白河法皇が創設した院政制度によって、天皇が絶対的権力者ではなくなったため、人々が後白河法皇派と二条天皇派で対立するようになってしまったのです。院政は、天皇が困った時のピンチヒッター的な役割によって政治の安定性向上に資する反面、権力の二重構造化が進み、戦乱の火種を生むようになってしまいます。

権力の二重構造問題、二条天皇派と後白河上皇派

保元の乱の頃からずーっと二条天皇の即位を望んでいた美福門院や二条天皇と密接な結びつきのある者たちは、二条天皇の天皇親政を望みます。要は「後白河上皇は譲位したんだから、政治の世界に首を突っ込むなよ!!」という立場です。

一方、後白河天皇と親密な関係にある人たちは逆に上皇による院政を望みます。「白河法皇以後、継続して院政が行われているんだから当然、後白河上皇も天皇を後見する立場から院政をすべきだ!!」という立場です。後白河上皇の乳母を妻に持つ信西や院近臣たちがこの立場でした。

こうして、朝廷内は二条天皇親政派VS後白河上皇院政派で対立することになります。情勢的に有利だったのは後白河上皇院政派でした。超有能だった信西が後白河上皇のブレーン役として、着実に権力を掌握していたのです。信西は低い身分でありながら権力を掌握し、息子たちを朝廷内の要職に送り込んでゆきました。

信西については、以下の記事でも紹介しています。

今回は、保元の乱・平治の乱で活躍した人物の1人である信西(しんぜい)という人物について紹介してみたいと思います。信西...

三つ巴の朝廷

権力を牛耳りつつあった信西に、次第に不満を持つ者も現れます。当然、二条天皇親政派の人々は信西のことをよく思うはずがありません。事態をさらに複雑にしたのは、信西と同じ立場の後白河上皇院政派の中からも「信西ふざけんな!!」と不満の声が上がり始めたのです。

こうして朝廷内では3つの勢力が形成されました。

1 二条天皇親政派(信西に不満を持つ)

2 後白河上皇院政派だけど反信西派(信西に不満を持つ)

3 後白河上皇院政派で親信西派

当時、一番権勢を誇っていたのは信西だったので、立場的に苦しい「二条天皇親政派」と「後白河上皇院政派だけど反信西派」の人々は、政治理念的には相反するけれども、打倒信西のために一時的に同盟関係を結ぶことになります。

平治の乱、勃発

1159年12月、「後白河上皇院政派だけど反信西派」の代表格だった藤原信頼(のぶより)という人物が源義朝と協力し、信西を襲撃しました。

藤原信頼と源義朝の同盟関係

藤原信頼は、後白河上皇の院近臣として活躍した人物です。実は藤原信頼にはあまり良い噂はありません。藤原信頼は、後白河上皇は男色関係を通じて、院近臣として重用され出世したと言われており、政治能力自体は皆無でいわゆる「無能」だった・・・と言われています。(事実がどうだったかはわかりません)

藤原信頼は、後白河上皇との親密な関係を利用して自分の有利なように人事や政治をしたい!と考えますが、それを信西が邪魔します。院近臣内部で権力争いが起こったわけですね。

信西は平家と親密な関係を持ち、平家を武力として利用していました。藤原信頼は、これに対抗するため源義朝に接近します。

源義朝は保元の乱の際、主戦力として活躍したにも関わらず、未だに平家の足元にも及ばぬ低い地位に源氏を放置した信西に強い敵対心を抱いていたと言われています。また、源義朝は関東の土地の関係で藤原信頼と結びつきがあったようで、そんな縁もあって藤原信頼と源義朝は同盟関係を結ぶようになりました。

源義朝については、以下の記事で紹介していますので気になる方はどうぞ。

今回は、鎌倉幕府を開いたことで有名な源頼朝・・・ではなくて、その父である源義朝(みなもとのよしとも)という人物について紹介したいとお...

院御所三条殿の襲撃

1159年12月9日の夜、源義朝・藤原信頼はテキトーな理由をでっち上げて院御所だった三条殿を奇襲します。平清盛が熊野へ行幸し、信西の軍力が手薄なタイミングを狙ったのです。しかし、事前に奇襲を察知した信西は、既に逃げ出していました。

源義朝らは、後白河上皇らを皇居内へ連れ込み、二条天皇と共に軟禁状態にします。逃げ出した信西もその後すぐに発見され、首を刎ねられます。

この作戦の主役は源義朝・藤原信頼らの「後白河上皇院政派だけど反信西派」の人々でしたが、二条天皇親政派の人々もこの作戦に加わっており、二条天皇親政派の人々もこの動きを黙認していました。

天皇争奪戦【平治の乱中盤】

藤原信頼の奇襲があった翌日の12月10日、平清盛のところにも情報が届きます。自分を重用してくれた信西の死は、平清盛にとっても相当にショックな出来事でした。このままでは、これまで築き上げた平家の繁栄が瓦解しかねません。

それに加え藤原信頼は天皇・上皇を引き連れて皇居内に構えており、平清盛とて迂闊に手出しはできません。変に天皇・上皇に危害が及べば朝敵のレッテルを貼られ日本全国を敵に回しかねないからです。戦において大義名分はとても重要ですが、日本の場合は特にその傾向が強いようです。

12月16日、ひとまず平清盛は平安京の自宅に戻ることにします。平清盛とて天皇・上皇を人質に取られては迂闊に攻め入ることはできませんが、一方の藤原信頼にも平清盛に攻め入ることのできない理由がありました。それは、圧倒的に兵が少ないことです。藤原信頼らは、院御所襲撃のため急ぎで兵を集めていたため、そこまで多くの兵がいなかったのです。こうして、両者がにらみ合ったまましばらくこう着状態が続きます。

平清盛に接近する二条天皇親政派

この間、平清盛の下に二条天皇親政派の人物が接近します。接近したのは二条天皇の側近だった藤原惟方(これかた)・藤原経宗(つねむね)という人物です。

二条天皇親政派は、反信西という点では藤原信頼と同盟関係にありましたが、信西がなくなった時点で既に両者は協力関係にありません。むしろ二条天皇親政派にしてみれば、天皇と上皇を軟禁し、皇居に立て籠もる藤原信頼はもはや敵でしかなくなっていました。

平清盛は、藤原惟方・藤原経宗と計画を練り、二条天皇を皇居から脱出させる作戦を考えます。

二条天皇脱出作戦

まず最初に平清盛は、藤原信頼に恭順を誓いました。藤原信頼はこれを大変喜びました。平家が恭順の意を示してしまえば、自分に対抗できる者はもはや存在しないからです。

しかも、藤原信頼の息子と平清盛の娘が婚姻関係にあったので、そのような親戚関係が平清盛の従順な姿勢に信ぴょう性を持たせることになります。こうして、勝ちを確信した藤原信頼は大いに油断することになります。

藤原信頼に接近し相手を油断させたところで二条天皇脱出作戦を実行します。12月25日の夜、二条天皇を女装させ藤原惟方の付き添いのもと、密かに二条天皇を平清盛の邸宅のある六波羅へと避難させます。そして、同時に後白河天皇も仁和寺へと脱出することに成功します。

藤原信頼の大失態

天皇を迎え入れ、朝敵になる可能性が亡くなった平清盛と二条天皇親政派は、藤原信頼に対して一気に攻勢にでます。12月26日、二条天皇に藤原信頼・源義朝らへの追討宣旨を出させ、藤原信頼・源義朝らを朝敵としたのです。

一方の藤原信頼側は後白河上皇がこっそりと皇居を脱出していたせいで、二条天皇の追討宣旨に対抗することができません。(後白河上皇がいれば、院宣という形で対抗手段はあった)こうして、藤原信頼・源義朝らは朝敵のレッテルを貼られ窮地に追い込まれることになります。

こんなことになってしまったのは、藤原信頼が平清盛を味方にしたことで油断してしまったからです。源義朝は藤原信頼に対して「お前は日本一の大馬鹿野郎だよ!!!(怒)」と怒ったと言われています。

六波羅合戦【平治の乱終盤】

12月26日、平清盛軍が内裏(皇居)を襲撃します。二条天皇の追討宣旨により万策尽きた藤原信頼らはおそらく負け覚悟で最終決戦に臨みます。

平清盛らは内裏が戦火に巻き込まれるのを避けるため、一度内裏に攻め込むが退却したふりをして敵をおびき出し、内裏を占拠しつつ、今でいう京都の六条河原付近で源義朝らと対峙します。

先ほど説明したように、藤原信頼側の兵力は合戦を想定していなかったため少数であり、朝敵にもなってしまったのでもはや勝ち目はありませんでした。藤原信頼に加担していた多くの武士たちが平家軍により討ち死にしてゆきます。ちなみに藤原信頼に加担していたのは、源義朝をはじめ多くの源氏たちでした。

源義朝の逃走劇

六条河原で敗戦した源義朝は、命からがら平安京内から抜け出すことに成功します。源義朝は、息子の源頼朝を引き連れ東国へ向かいます。しかし、途中、多くの落ち武者狩りに襲われ、義朝は息子の頼朝とはぐれてしまいます。

源頼朝は、逃走中に捕らえられ、源義朝は味方に裏切られ討ち取られてしまいます。棟梁の死により、源氏の勢力は大きく衰えることになります。

平治の乱を終えて・・・

平治の乱は信西と藤原信頼という後白河上皇の側近たちの死により終わることになります。冒頭の方で、朝廷では後白河上皇院政派と二条天皇親政派の勢力があったことを話しましたが、平治の乱では二条天皇親政派が大勝利を収めることになったわけです。

こうして二条天皇による親政が行われるのだろう・・・と思いますが、実は事情はそう簡単ではありません。平氏が政治をかき乱すようになったのです。

唯一無二の武士団となった平氏

平治の乱により源氏の棟梁である源義朝が亡くなったことで、源氏は力を失います。すると、軍事力を要する仕事を依頼するには、平氏に頼るほかありませんでした。

当時、武力を要する仕事は山ほどあったので、もはや平氏なしでは政治運営は成り立たなくなっていました。天皇や貴族たちは、平安京の治安維持、所領問題、強訴などなどを全て平氏に頼らざるを得ないわけです。平清盛は、引っ張りだことなった自らの地位を巧みに利用し、朝廷内での地位を高めようと企みます。

平清盛は後白河上皇にも二条天皇も良い顔をして、お互いから最大限の利益を享受できるよう努めます。おまけに平清盛は武力だけではなく、財力や官位をも持ち合わせていました。後白河上皇も二条天皇も、平清盛の顔色を伺わなければもはや何もできなくなっていました。

平治の乱の勝者は一見すると二条天皇親政派に見えますが、実は一番の勝利者は平清盛だったと言っても過言ではありません。現に、二条天皇親政派だった藤原惟方・藤原経宗は平治の乱の後、後白河上皇とのいざこざにより流罪となり失脚しています。

平治の乱まとめ

平治の乱により、時の権力者である信西や後白河上皇の院近臣だった藤原信頼が亡くなり、二条天皇親政派が大勝利となるかと思いきや、実際に一番の勝者となったのは漁夫の利を得た平清盛だった・・・というのが平治の乱のまとめでしょうか。

平治の乱の歴史的意義は何か?と考えてみると、やはり「源氏が没落した」という点が一番大きいような気がします。軍事を担う源氏と平氏のうち、源氏が没落したことで、当時の軍事産業を平清盛が全て掌握してしまうことになります。これでは、どうあがいても平清盛の勢いが衰えるわけがありません。

「平家にあらずんば人にあらず」という名言が意味するような、平家の大躍進の直接的なきっかけになったのが平治の乱だったのです。

スポンサーリンク

関連記事

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする