

今回は「沖縄返還」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜ27年間もアメリカ統治が続いたのか、佐藤栄作がどうやって返還を勝ち取ったのかまで、テスト対策にも役立つように解説するね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト)に対応
「沖縄は昔から日本の一部」——そう思っていませんか?
実は、沖縄が「日本」になったのは1879年(明治12年)のことです。それ以前の450年以上、沖縄は琉球王国という独立した国でした。
そして日本になってからも、1945年から1972年までの27年間は、アメリカの統治下に置かれていました。本土から沖縄へ行くには、日本人なのにパスポートが必要だったのです。
その27年間の終わりに実現したのが「沖縄返還」です。今回は、この沖縄返還がなぜ起こり、どのように実現したのかを、順番に見ていきましょう。
沖縄返還とは?
- 1972年5月15日、27年間アメリカの統治下にあった沖縄が日本に返還された
- 佐藤栄作首相がニクソン大統領と交渉し「核抜き・本土並み」での返還を実現
- ただし米軍基地は残り、県民が求めた「即時・無条件・全面返還」とは異なる結果だった
沖縄返還とは、太平洋戦争終結後の1945年からアメリカ合衆国の統治下に置かれていた沖縄が、1972年5月15日に日本の施政権のもとに戻った出来事を指します。
正式には「沖縄返還協定」(1971年6月17日調印)に基づき、日本政府はアメリカ政府に3億2000万ドルを支払い、沖縄の施政権(統治する権限)を取り戻しました。
この瞬間、27年間続いたアメリカ統治が終わり、沖縄は正式に「沖縄県」として日本に復帰しました。※施政権とは、ある土地を実際に統治する権限のことです。「主権(土地の所有権)」とは区別されます。
なぜこれほど重大な事件かというと、日本の敗戦後から1972年まで、沖縄は日本の法律が適用されず、アメリカのルールで生活しなければならなかったからです。通貨は円ではなくドル、交通規則も本土とは異なる右側通行、そして本土の家族に会いに行くにもパスポートが必要でした。

え、日本人なのに沖縄から本土に行くのにパスポートが必要だったの?それって、外国みたいだね。

そうなんだよ!法律的には「別の支配地域」だったから、まさに外国みたいな扱いだったんだ。日本国籍はあるのに、日本の法律が適用されない——それが27年間続いたということだよ。
戦前の沖縄:琉球王国から「日本」へ

沖縄の歴史は、日本の他の地域とはまったく異なる独自の道を歩んできました。沖縄返還を理解するには、この長い歴史を知ることが欠かせません。
■ 琉球王国の歴史
沖縄の前身となる琉球王国は、15世紀初頭に成立しました。1429年、尚巴志が沖縄本島を統一し、那覇の首里城を王宮として栄えました。
琉球王国は、日本・中国(明)・東南アジアを結ぶ「中継貿易」で繁栄します。「万国津梁」(世界の架け橋)という言葉のとおり、東アジア有数の貿易国家として独自の文化を育みました。
1609年、薩摩藩(現・鹿児島県)が琉球に侵攻し、琉球王国は薩摩の支配下に入りながらも、形式上は王国として存続しました。この時期、琉球は薩摩藩と中国(清)の両方に服属するという独特の二重の立場を維持していました。
■ 1879年 琉球処分:琉球王国の終わり
明治政府は1879年(明治12年)、「琉球処分」を断行しました。軍隊を送り込み、琉球王国を廃して沖縄県を設置したのです。これにより、450年以上続いた琉球王国の歴史は幕を閉じました。
当時の琉球国王・尚泰は東京への移住を命じられ、沖縄は強制的に日本に組み込まれました。県民の多くは、この「日本化」に強い抵抗を感じていたとされています。
📖 琉球処分とは?:明治政府が1879年に琉球藩を廃止して沖縄県を設置した一連の政策のことです。「処分」という言葉が使われていますが、ここでは「政治的な決定」という意味で使われています。
■ 太平洋戦争と「鉄の暴風」沖縄戦
1945年3月26日〜6月23日、太平洋戦争末期に沖縄戦が起きます。アメリカ軍はまず3月26日に慶良間諸島に上陸し、4月1日に沖縄本島へと上陸。日本軍と激戦を繰り広げた末、6月23日に日本軍司令官が自決し組織的戦闘が終結しました。
この戦いで犠牲になった人は約20万人にのぼります。特に深刻だったのは民間人の犠牲で、沖縄県民の4人に1人が命を落としたとされています。沖縄で「鉄の暴風」と呼ばれるほど、激烈な地上戦でした。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し降伏。沖縄はアメリカ軍の占領下に入りました。こうして、悲惨な地上戦を経た沖縄で、長い「アメリカ統治」の時代が始まったのです。

沖縄は日本の中でも、本当に特別な歴史を持っているんですね。もともと独立した王国だったのに、強引に日本に編入されて、その後は戦場になって……。

そうだね。しかも沖縄戦では、日本軍が沖縄の民間人を「足手まとい」として扱ったり、「集団死」を強いたりした側面もあって、本土への複雑な感情が生まれたんだ。だからこそ「復帰」の意味も複雑だったんだよ。
アメリカ統治下の沖縄(1945〜1972年)

■ 「琉球列島米国民政府」の統治
1951年、連合国と日本の間でサンフランシスコ平和条約が締結されました(発効は翌1952年)。この条約の第3条で、沖縄はアメリカの施政権下に置かれることが正式に定められました。
アメリカは琉球列島米国民政府(USCAR)を設置し、沖縄を直接統治します。日本本土が独立を回復した後も、沖縄だけはアメリカの支配下に残されたのです。
📖 なぜアメリカは沖縄を手放さなかったのか?:朝鮮戦争(1950〜1953年)やベトナム戦争(1955〜1975年)が起きた冷戦時代、沖縄の米軍基地はアジア太平洋地域の「要石(かなめいし)」として不可欠でした。アメリカにとって沖縄は、東アジアへの軍事拠点として手放しにくい場所だったのです。
■ ドル・右側通行・パスポート——生活実態のビフォーアフター
アメリカ統治下の沖縄では、人々の生活はあらゆる面で本土と異なっていました。
米統治下の沖縄 vs 本土の違い
通貨:沖縄ではドル(米ドル)が使われていた。本土との送金・両替も自由ではなかった
交通:車は右側通行(本土は左側通行)。返還後も6年間は右側のまま続き、1978年7月30日(「730」)にようやく切り替わった
移動:本土へ行くには日本のパスポートではなく「渡航証明書(パスポートに準じる書類)」が必要だった
沖縄の人々は、日本国籍を持ちながらも日本の法律が適用されず、アメリカの規則のもとで生活することを余儀なくされていました。本土にいる家族・親戚に会いに行くことすら、公式の手続きが必要だったのです。

今では沖縄旅行に気軽に行けるけど、当時は「外国に行く」感覚に近かったんだよ。日本人なのに日本語が通じる「別の国」に住んでいる——そんな感覚だったんだ。
■ 経済格差と土地接収
経済的な格差も深刻でした。アメリカによる土地の強制接収が行われ、農地を失った農民が多数出ました。1950年代の「島ぐるみ闘争」では、土地の強制接収に反対する大規模な県民運動が起きています。
また、本土の高度経済成長の恩恵を受けられず、沖縄の所得水準は本土を大幅に下回っていました。就職で本土に渡ろうとしても差別的な扱いを受けるケースもあり、経済的・社会的なハンディキャップを抱えた27年間でした。
復帰運動の高まり:「祖国への想い」
■ 祖国復帰協議会と復帰運動の広がり
アメリカ統治下の沖縄で、「祖国・日本に返してほしい」という願いは早くから高まっていました。1960年、教職員や労働組合が中心となり「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)が結成されます。
復帰協は「5月15日デー」などの記念集会や署名活動を通じて、日本への復帰を強く求めました。1960年代後半になると、ベトナム戦争の激化に伴い沖縄の基地機能が高まる中、「基地のない平和な沖縄」を求める声も一層強まっていきます。
1968年には、復帰運動の象徴的人物である屋良朝苗が初めての公選制で行政主席(沖縄のトップ)に選ばれました。
屋良朝苗(1902〜1997年)は、教育者出身の沖縄の政治家です。沖縄教職員会の会長として復帰運動をリードし、1968年に初の公選行政主席に当選。返還後は初代沖縄県知事(1972〜1976年)を2期務めました。日本政府との交渉では常に「県民の意思」を代弁し続けた人物として知られています。

私たちが求めたのは「即時・無条件・全面返還」だ。核も基地もない、平和な沖縄を——それが27年間待ち続けた県民の本当の願いだった…
■ 「即時・無条件・全面返還」vs「核抜き・本土並み」——二つの方向性
復帰運動において、重要な対立軸がありました。沖縄の県民・労働団体が求めていたのは「即時・無条件・全面返還」——つまり、一刻も早く、何の条件もなく、米軍基地も含めてすべて日本に返してほしいという要求でした。
しかし、日本政府(佐藤栄作内閣)が採った方針は「核抜き・本土並み」でした。核兵器は持ち込まないが、米軍基地は存続させる、そして法制度は本土と同じにする——という現実的な落としどころです。

県民が求めていた返還の内容と、実際に実現した返還の内容って、違ったんですか?

大きく違ったんだよ。屋良主席たちは「基地も核もなくして返してほしい」と言っていた。でも実際の返還では米軍基地は残ったまま。しかも後で密約の存在まで明らかになった。返還は実現したけど、県民の本音には届かない部分があったんだ。
佐藤栄作の外交戦略:「核抜き・本土並み」を勝ち取るまで

沖縄返還の実現において、最も中心的な役割を果たしたのが佐藤栄作首相(任期:1964〜1972年)です。佐藤は「沖縄返還なしに戦後は終わらない」と繰り返し述べ、返還実現を自らの政治的使命と位置づけていました。
■ 1967年 非核三原則の提唱
1967年12月、佐藤首相は国会答弁で「非核三原則」を表明しました。「持たず・作らず・持ち込ませず」という三原則です。
当時、米軍が沖縄に核兵器を配備していることは公然の秘密でした。沖縄返還を求める県民の声と、アメリカの核戦略を両立させるためのメッセージとして、佐藤はこの原則を提唱したのです。
非核三原則は1971年の国会決議で採択され、日本の安全保障政策の基本方針となりました。この業績が後にノーベル平和賞受賞(1974年)へとつながります。
■ 1969年 佐藤・ニクソン会談:歴史的な合意
1969年11月、佐藤首相はアメリカのニクソン大統領とワシントンで会談します。この会談で「1972年に、核抜き・本土並みで沖縄を返還する」という合意が成立しました。
「核抜き」とは、返還後の沖縄には核兵器を持ち込まないこと。「本土並み」とは、沖縄に適用される米軍基地の使用条件を本土と同じ水準にすること——具体的には日米安全保障条約を沖縄にも適用することを意味します。
🎯 テストに出やすい!:「核抜き・本土並み」は1969年の佐藤・ニクソン会談での合意内容。「1969年の日米共同声明」とセットで覚えよう。

核も基地も完全には排除できなかった。だが、それでも「返還」を実現させなければならなかった。27年間、本土への渡航にパスポートが必要だった沖縄の人々のために……
■ 繊維交渉との取引——外交の舞台裏
沖縄返還交渉には、知られざる「取引」があったとされています。それが繊維交渉問題です。
当時、日本の繊維(衣料品)がアメリカに大量輸出されており、アメリカの繊維業界が打撃を受けていました。ニクソン政権は日本に「繊維製品の対米輸出を自主規制せよ」と要求しており、これが沖縄返還交渉と複雑に絡み合っていたとされます。
「繊維の譲歩と引き換えに沖縄返還を確約させた」という見方もありますが、日本政府は公式にはこれを否定しています。この「取引」の真相は、現在も外交史家の間で議論されています。
■ 密約問題:「核抜き」の裏にあったもの
「核抜き・本土並み」で返還が実現したはずでしたが、後に密約の存在が明らかになりました。
- ①核持ち込み密約:有事(戦争状態)の際には、アメリカが沖縄に核兵器を再び持ち込む権利を認める——という密約があったとされています
- ②軍用地原状回復費用の肩代わり密約:アメリカが負担すべき基地の原状回復費用(約400万ドル)を、日本政府が肩代わりする——という密約があったとされています
- 2010年に外務省が認定:長年にわたり日本政府は密約の存在を否定し続けていましたが、2010年に外務省の有識者委員会が密約の存在を認定しました

密約って何?表向きは「核なし」で合意したけど、裏では「核あり」も認める約束があったってこと?

そういうことだよ。「平時は核なし、でも戦時は持ち込んでいい」という密約があったとされている。日本政府は長らく「そんな約束はない」と言い続けていたけど、2010年に外務省が「あった」と認定したんだ。非核三原則が実は「例外あり」だったかもしれないということで、当時大きな問題になったよ。
1971年 返還協定調印・1972年5月15日の返還実現
■ 1971年6月17日 日米返還協定の調印
1969年の佐藤・ニクソン会談から2年後、ついに正式な協定が結ばれます。
1971年6月17日、東京とワシントンで同時に「沖縄返還協定」が調印されました。衛星テレビ中継によって両国同時に署名する様子が生中継され、歴史的な瞬間が世界に伝えられました。
協定の主な内容は次のとおりです。日本はアメリカに3億2000万ドルを支払い、沖縄の施政権を返還してもらうこと。返還後は日米安全保障条約が適用され、米軍基地は引き続き沖縄に存続すること。核兵器については持ち込まない(核抜き)こと——この3点が柱でした。
🎯 テストに出やすい!:協定調印の日は1971年6月17日。実際に返還が発効したのは1972年5月15日。この2つの日付を混同しないようにしよう。
■ 3億2000万ドルの代償
日本がアメリカに支払った3億2000万ドルとは、現在の金額に換算すると数千億円規模です。これはどのような名目だったのでしょうか。
この額は主に「アメリカが沖縄に設置した軍施設・設備などの補償費」として計上されました。本来ならアメリカ側が負担すべき原状回復費用(基地跡地を元の状態に戻す費用)も日本側が肩代わりしたとされ、これが先述の「密約」の一つです。

「返してもらうのに、なぜ日本がお金を払うの?」って疑問を持つ人も多いんだ。でもこれは「施設の補償」という名目だから、法的には問題ないとされているんだよ。ただ、本来アメリカが払うべきお金まで肩代わりしていたとすれば……という批判もあるわけだね。
■ 1972年5月15日 返還の瞬間
1972年5月15日午前0時、ついにその瞬間が来ました。
沖縄各地で返還を祝う式典が開かれ、日本の国旗が掲揚されました。アメリカ星条旗が降ろされ、日の丸が揚がる——27年間待ち続けた人々にとって、感無量の瞬間だったはずです。
この日、式典に参加した屋良朝苗知事は「沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえない」と述べ、複雑な思いを示しました。
実は前年の1971年11月、屋良主席は「復帰措置に関する建議書」(「米軍基地の撤去」「沖縄の非武装化」など県民の本音の要求が盛り込まれたもの)を携えて国会に訴えに上京しました。しかし返還協定は、主席の到着を待たずして衆議院特別委員会で強行採決されてしまい、県民の声は国会に届きませんでした。沖縄は「復帰」を実現したものの、県民の真の願いとの乖離は残ったままでした。
こうして1972年5月15日、沖縄県が誕生。屋良朝苗は初代沖縄県知事に就任しました。
■ 返還後の生活変化
返還と同時に、沖縄の人々の生活は大きく変わりました。通貨はドルから円に切り替えられ、日本の法律が適用されるようになりました。住民票・戸籍の移管、教育制度や医療制度の本土への統一も行われました。
ただし、すべてが一夜にして変わったわけではありません。たとえば、交通ルール(右側通行→左側通行)の変更は、返還から6年後の1978年7月30日まで待たなければなりませんでした。
⚠️ 「730(ナナサンマル)」に注意:交通ルールの右側→左側通行への切り替えは、沖縄返還(1972年5月15日)と同時ではありません。それから6年後の1978年7月30日に実施されました。この日は「ナナサンマル(730)」と呼ばれ、沖縄の人々には今も鮮明に記憶されています。

27年間待ち続けた「復帰」がついに実現した。でも、基地は残り、密約もあった。喜びと複雑な思いが入り混じった瞬間だったんだ——これが沖縄返還の本質だよ。
返還後の沖縄:基地問題は解決しなかった
1972年5月15日、沖縄は晴れて日本に「復帰」しました。しかし県民が求めた「即時・無条件・全面返還」とはほど遠い現実が待っていました。
■ 残された米軍基地
返還後も、沖縄には多数の米軍基地が存続しました。日米安全保障条約により、米軍が日本国内に基地を置く権利は維持されたからです。
現在(2026年時点)でも、在日米軍基地の約70%が沖縄に集中しています。沖縄の面積は日本全体のわずか0.6%にすぎないにもかかわらず、この極端な偏在は返還後も変わっていません。
問題①:基地の集中 日本の0.6%の面積に、在日米軍基地の約70%が集中
問題②:地位協定 日米地位協定による米兵の犯罪への対応が、日本の司法とたびたび衝突
沖縄県民は返還後も「本土と同じ平和な生活」を求め続けています。基地周辺での騒音問題・事故・犯罪など、日常生活への影響は今も続いています。
■ 1974年 佐藤栄作 ノーベル平和賞
沖縄返還を実現した佐藤栄作は、1972年に内閣総理大臣を退任しました。そして1974年、ノーベル平和賞を受賞します。
受賞理由は「非核三原則の提唱」と「沖縄・小笠原の返還実現」による核軍縮・太平洋の平和への貢献でした。日本人として初めてのノーベル平和賞受賞者となった佐藤の名は、歴史に刻まれることになりました。
🎯 テストに出やすい!:佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞したのは1974年。「非核三原則(1967年)・沖縄返還(1972年)→ノーベル平和賞(1974年)」の流れで覚えよう。
■ 現在の沖縄と基地問題
沖縄返還から半世紀以上が過ぎた今も、基地問題は沖縄の最重要課題です。普天間飛行場の移設問題・辺野古新基地建設をめぐる議論は、現在も国・県・住民の間で続いています。
「返還」は一つのゴールであると同時に、新たな問題の始まりでもありました。県民が求めた「即時・無条件・全面返還」の夢は、半世紀を経た今もなお、完全には実現していないのかもしれません。

返還から50年以上経っても、基地問題は続いているんですね…。沖縄の方々は今もそのジレンマの中にいるということですか?

そういうことだね。「復帰」は実現したけど、「基地のない沖縄」はまだ実現していない。日米安保の枠組みの中で、沖縄はずっと特別な負担を背負い続けているんだ。沖縄返還の歴史を学ぶときは、その後の現実までセットで考えてみてほしいな。
沖縄返還のテストに出るポイント

テスト前に絶対おさえておきたいポイントをまとめてほしい!

了解!中学・高校どちらにも出やすいポイントをまとめたよ!年号と人物の組み合わせが一番出題されやすいから要チェック!
💡 覚え方のコツ:「1967(非核三原則)→1969(佐藤ニクソン)→1971(協定調印)→1972(返還)→1974(ノーベル賞)」と2年刻みのリズムで覚えると忘れにくいよ!
沖縄返還に関するよくある質問
1972年5月15日、第二次世界大戦後から27年間にわたりアメリカの統治下に置かれていた沖縄(琉球列島)が日本に返還された出来事です。1971年6月17日に日米沖縄返還協定が調印され、翌1972年5月15日に施政権が日本に移りました。佐藤栄作首相とニクソン大統領の交渉により「核兵器を持ち込まず、本土と同じ条件で」という「核抜き・本土並み」での返還が実現しました。
第二次世界大戦末期(1945年)に日本軍・米軍双方に多大な犠牲を出した沖縄戦の後、アメリカ軍が沖縄を占領しました。1951年のサンフランシスコ平和条約(1952年発効)で日本は独立を回復しましたが、この条約の第3条により沖縄・奄美・小笠原諸島は引き続きアメリカの施政権下に置かれることが規定されました。冷戦構造のもとでアメリカが太平洋の軍事拠点として沖縄を維持したかったことが、長期にわたる統治の背景にあります。
1969年の佐藤・ニクソン会談で合意された沖縄返還の条件です。「核抜き」とは、返還後の沖縄には核兵器を持ち込まないこと。「本土並み」とは、沖縄に適用される米軍基地の使用条件を日本本土と同じ水準にすること(具体的には日米安全保障条約を沖縄にも適用すること)を意味します。ただし、後に「有事の際には核を持ち込める」という密約が存在したとされ、2010年に外務省有識者委員会が密約の存在を認定しました。
沖縄の施政権が日本に返還された(発効した)のは1972年5月15日です。これが一般に「沖縄返還」の日として知られています。なお、返還協定の調印日は1971年6月17日で異なります。関連する重要年号は以下のとおりです:1967年(非核三原則提唱)→1969年(佐藤・ニクソン会談)→1971年6月17日(返還協定調印)→1972年5月15日(返還発効)→1974年(佐藤栄作 ノーベル平和賞)。
屋良朝苗(やらちょうびょう、1902〜1997年)は、沖縄の復帰運動を牽引したリーダーです。1968年に沖縄の初代公選行政主席に当選し、「即時・無条件・全面返還」(核も基地もなく、平和な状態での返還)を訴え続けました。1971年11月、基地撤去などを求める「復帰措置に関する建議書」を携えて国会に上京しましたが、返還協定が主席の到着前に強行採決されてしまい、県民の声は届きませんでした。1972年5月15日の返還により、初代沖縄県知事に就任しました(〜1976年、2期)。
「核抜き・本土並み」での返還とは、沖縄に日米安全保障条約を適用することを意味しており、米軍が日本国内に基地を置く権利も維持されました。県民が求めた「即時・無条件・全面返還(基地も撤去)」とは異なり、「基地は残るが、日本の法律のもとに置く」というのが返還の実態でした。現在も在日米軍基地の約70%が沖縄に集中しており、日本全体の安全保障の負担を沖縄が不均衡に担い続けているという問題は、今なお解決されていません。
沖縄返還についてもっと詳しく知りたい人へ
沖縄戦後の米統治から現在の基地問題まで、沖縄現代史の全体像を一冊でつかめる岩波新書の定番書。返還前の生活実態・復帰運動・佐藤栄作の外交交渉が丁寧に解説されており、テスト前の整理にも、「沖縄とはどんな場所か」を知りたい入門者にも最適です。
沖縄返還に生涯をかけた佐藤栄作の全体像を描く中公新書。「核抜き・本土並み」に至るまでのニクソンとの駆け引き、繊維交渉との連動、非核三原則の背景まで、一次史料をもとに解説。「なぜ佐藤はノーベル平和賞を取れたのか」を深く理解したい高校生・社会人に。
沖縄返還の「核密約」交渉を担った密使・若泉敬が、自らの関与を告白した衝撃のノンフィクション。佐藤首相の命を受けてキッシンジャーと極秘交渉を続けた当事者だけが知る舞台裏。「核抜き・本土並み」の裏に何があったのかを一次証言で知りたい読者に。重厚な一冊です。
まとめ:沖縄返還で覚えておくべきこと
- 1879年琉球処分:沖縄県設置(日本に編入)明治政府が琉球藩を廃し、沖縄県を設置
- 1945年沖縄戦終結・アメリカ軍の統治開始民間人を含む多大な犠牲の末、米軍が沖縄を占領
- 1952年サンフランシスコ平和条約発効:米施政権が法的に確定日本の独立回復と引き換えに、沖縄の米施政権を条約第3条で規定
- 1967年佐藤栄作、非核三原則を国会で提唱「持たず・作らず・持ち込ませず」。1971年に国会決議で採択
- 1969年佐藤・ニクソン会談:「核抜き・本土並み」での返還に合意ワシントンにて会談、1972年返還を確約する日米共同声明を発表
- 1971年6月17日日米沖縄返還協定 調印(衛星TV中継)東京・ワシントン同時調印。日本側支払額は3億2000万ドル
- 1972年5月15日沖縄返還実現・沖縄県発足(初代知事:屋良朝苗)27年間のアメリカ統治が終了。通貨がドルから円に切り替え
- 1974年佐藤栄作 ノーベル平和賞受賞(日本人初)非核三原則・沖縄返還の実績が評価される
- 1978年7月30日「730(ナナサンマル)」:交通ルールを右側→左側に切り替え返還から6年後に実施。沖縄の人々に今も記憶される歴史的な一日
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📅 最終確認:2026年4月
📖 本記事は山川出版『詳説日本史』(2022年版)に基づいています。中学歴史・高校日本史どちらにも対応しています。
Wikipedia日本語版「沖縄返還」(2026年4月確認)
コトバンク「沖縄返還」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)p.328〜331(第14章「占領下の日本と独立の回復」・第15章「高度成長の時代」)
外務省有識者委員会報告書「いわゆる『密約』問題に関する有識者委員会報告書」(2010年)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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