今回は、1860年3月に井伊直弼が襲撃され命を落とした桜田門外の変について解説します。
桜田門外の変までの流れ
最初に、桜田門外の変が起こるまでの時代の流れを簡単に載せておきます。
- 1857年〜1858年将軍継嗣問題が起こる
次期将軍(徳川慶福or徳川慶喜)をめぐって幕府内で対立が起こる。
井伊直弼は慶福派(南紀派)だったため、慶喜派(一橋派)から敵対視されることに。
- 1858年6月井伊直弼、天皇の意向を無視してアメリカと日米修好通商条約を結ぶ
井伊直弼の独断に、孝明天皇ブチ切れる。
さらに、将軍継嗣問題で井伊直弼と対立していた勢力も「天皇の意向を無視するとは何事か!」と便乗してブチギレ。
- 1858年〜1859年
天皇の意向を無視した井伊直弼への批判が日に日に強くなると、井伊直弼は、反対勢力を弾圧によって粛清することを決意する。
- 1860年桜田門外の変←この記事はココ
井伊直弼、闇討ちされる。
桜田門外の変は、安政の大獄への報復として起こった事件です。しかし、その背景には将軍継嗣問題や天皇の意向があり、実はその内情はもっと複雑です。
戊午の密勅
井伊直弼が安政の大獄による大弾圧に踏み切ったきっかけは、1858年12月に天皇が水戸藩に対して出した勅定(天皇からの命令文)でした。
この勅定には大きく3つのことが書いてありました。
勅定というのは普通、天皇→幕府に出すものです。諸藩に伝えたいことがあれば天皇→幕府→諸藩の順で伝えられます。
しかし、この時の勅定は、天皇→水戸藩と幕府はスルーされています。これは、孝明天皇が井伊直弼率いる幕府を信用していないことの現れであり、天皇が諸藩に直接命令するなど前代未聞の出来事でした。
この勅定は、幕府を介さない裏ルートの勅定だったことから、戊午の密勅と呼ばれています。
この密勅を知った井伊直弼は、強い不快感を示します。
幕府を無視するとは何事か!
これまで、諸藩の統率は幕府が行っていたが、天皇が諸藩に直接命令を出せば、諸藩は幕府の指示になど従わなくなるだろう。とんでもないことをしてくれたものだ・・・!
戊午の密勅を受けて、水戸藩士では中心に井伊直弼を失脚させようとする動きが活発になります。そこで井伊直弼は、「戊午の密勅は天皇の本意ではなく、水戸藩の陰謀である!」という理屈で、反対勢力の徹底弾圧に乗り出します。これが1858年に起こった安政の大獄と呼ばれる事件です。
安政の大獄による弾圧は朝廷関係者にも及び、さすがの孝明天皇も態度を軟化して、勅定の内容撤回をほのめかす発言をするようになります。
今は無理でも、いずれ外国を倒してくれることに期待をしている。条約が結ばれた事情も理解した。まぁ、仕方なかろう・・・
孝明天皇が態度を軟化させると、井伊直弼は水戸藩に対して勅定の返還を命じます
孝明天皇は、前回の勅定の内容を撤回するような発言をしている。だから、水戸藩の手元にも渡っている最初の勅定を天皇に返せ。
(帝が考え方を変えたとは言え、公式の文書が反対派に渡っていると何に使われるかわからんからな・・・)
水戸藩の葛藤 〜鎮派VS激派〜
安政の大獄による大規模弾圧・天皇の態度軟化など、めまぐるしい環境の変化の中、水戸藩では井伊直弼の命令に従って勅定を返すべきか否か、「鎮派」と「激派」で意見が大きく分かれました。
様々な駆け引きの結果、最終的に水戸藩の上層部を占める鎮派の意見が優勢となり、水戸藩は勅定を返還する方向へと動き始めました。
井伊直弼の闇討ち計画
この動きに反発したのが激派の人々でした。激派の人々は、身分の低い者が多く上層部の意見を覆すことはできません。
そこで、激派の人々は次第に「井伊直弼を殺せばいいんじゃね?」と言う実力行使の過激な思想へと傾き始めます。
この時、激派の大きな原動力になったのが、尊王攘夷(天皇を中心として外国を打ち倒そうとする考え)の思想です。
尊王攘夷の理屈で考えれば、天皇からの勅定こそが絶対であり、勅定の目的を達成するためであれば、大老の井伊直弼を殺めても問題ありません。
こうして、水戸藩の上層部にも隠されたまま、低い身分の水戸藩士たちが集まり井伊直弼の暗殺計画を考えました。
彼らは水戸藩を密かに抜け出し(脱藩し)、薩摩藩の有村次左衛門らとも協力し、井伊直弼の闇討ち作戦を決行しました。
桜田門外の変
計画の実行日は1860年3月3日。雛祭りの日でした。
雛祭りということで江戸城ではイベントが開催され、多くの人たちが江戸城を訪れる日でもありました。
江戸の町には江戸城へ向かう偉い大名たちの大名行列がたくさんでき、これを一目見ようと多くの見物者が集まります。この人混みを利用して井伊直弼を討ち取る計画です。
天気は久しぶりの雪。時間は早朝午前9時。井伊直弼の護衛隊は雨具着用により動きが鈍い。計画実行にはうってつけのシチュエーションです。
まずは刺客のうち数人が、見物客に紛れ込み井伊直弼に近づきます。そして、刺客の一人である森という人物が、護衛隊を切りつけたことで桜田門外の変は始まります。
森の目的は、護衛隊を自分に引きつけて井伊直弼の警護を薄くすること。護衛隊が森に注意を注いでいる間に、見物客に紛れた一人が井伊直弼の乗っている籠(かご)に向けて拳銃を打ち込みます。
この発砲は、井伊直弼暗殺の合図です。
銃声を合図に、他の刺客たちもワッと籠に押し寄せ、井伊直弼の入る籠を刀でめった刺しにします。薩摩藩の有村次左衛門が井伊直弼の首をとりましたが、護衛隊から受けた傷により動けなくなり、そのまま死亡。
井伊直弼のほか、護衛隊8名、刺客5名が亡くなりました。他の刺客らは、自首または逃亡しますが、その多くが捕らえられ、命を落としました。
白昼堂々の暗殺劇に見物者たちも騒然。そして、雪で白銀に染まっていた地面は、気付けば鮮血の赤に染まっていました。
桜田門外の変の影響
桜田門外の変の後、幕府は孝明天皇への歩み寄りを見せるようになります。幕府も尊王の意思を示すことで、尊王攘夷派の攻撃のかわすためです。
こうして幕府と朝廷(天皇)の歩み寄りが見えるようになると、幕府と朝廷は両者が協力して政治を行う公武合体の政治を目指すことになります。
しかし、いがみ合っていた朝廷(天皇)と幕府が一丸となるのは簡単なことではありません。
なぜなら、朝廷の幕府の考え方は真っ向から対立するものだったからです。
まさに水と油の関係です。この両者を結びつけるために利用されたが孝明天皇の妹(和宮)でした。和宮を14代将軍の徳川家茂に嫁がせる政略婚を利用することで、ようやく公武合体を実現することになります。
ただ、尊王攘夷派の人の中には
幕府は『公武合体』などと立派なことを言っているが、単に攘夷を唱える天皇を懐柔したいだけだろ。天皇の攘夷の志を惑わす幕府を許すわけにはいかない・・・!
みたいな人たちもいて(実際に幕府は似たようなことを考えていました)、1862年には、公武合体を目指していた老中の安藤信正が坂下門の前で襲撃を受ける事件も起きています。(坂下門外の変)
さらには、これに合わせるかのように攘夷の運動も盛んとなり、1863年には、長州藩と薩摩藩が外国船に砲撃する事件も起きました。
このような感じで桜田門外の変をきっかけに、これまでの「開国して戦争を避ける」という考えから、攘夷の思想へと日本全体が大きくシフトしていくことになりました。
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