今回は、1441年に起こった将軍暗殺事件「嘉吉の変(かきつのへん)」のお話です。
犠牲になったのは六代目の将軍、足利義教(あしかがよしのり)
首謀者は有力大名だった赤松満祐(あかまつみつすけ)
この記事では以下の2点を中心に嘉吉の変について解説していきます。
なぜ、足利義教は命を狙われたのか。
嘉吉の変はどのようにして起こった?嘉吉の変の影響は?
「万人恐怖」足利義教の人柄
本題に入る前に、まずは足利義教がどんな人物だったのかお話ししておこうと思います。というのも、義教の人柄が分かるとなんとなく命を狙われた理由もわかってくるからです。
足利義教の性格は、一言で表すと
万人恐怖・・・!!!!
めちゃくちゃ厳しい性格で、自分の言うことを聞かなかったり、気に食わないことをする奴は、どんな些細なことでも絶対に許さない。
義教に仕える人たちいつも戦々恐々としていたと言われています。
義教は「足利将軍は絶対であり、その権力と権威で世を治めるのだ!」という強い政治理念を持っていました。
その現れが「万人恐怖」と呼ばれる人柄となったわけです。鎌倉公方の足利持氏と戦った永享の乱でも、義教は断固として持氏を許さず、徹底抗戦しています。
しかし、義教には致命的な欠点がありました。それは感情が不安定で、短気で些細なことですぐにブチギレること。理不尽な理由で所領を奪われたり、命を奪われる人も多数いて、その強烈な性格ゆえに、敵を多く作ることになります。
酷い例をあげれば、義教を見て少し笑っただけで「お前は俺をバカにしている」とブチギレて、所領を奪われた人もいます。
なので、心の中で「足利義教なんて消えればいいのに・・・!」って思っていた人もたくさんいたはずで、それを嘉吉の変で有言実行したのが赤松満祐だったんです。
嘉吉の変が起こった理由
赤松満祐も、「万人恐怖」足利義教の被害者の一人でした。
赤松満祐は赤松氏の宗家で、当時は幕府の中では最大級の影響力を持つ一族でした。一方、赤松氏の庶流として赤松貞村(あかまつさだむら)という男がいました。
赤松貞村の妹は足利義教の側室になっていて、義教も赤松貞村のことを非常に寵愛していました。義教と貞村が男色関係にあったと噂されるほど、両者は良好な関係でした。
そして、これと同時並行でこれまで幕府に多大な貢献をしてきた赤松満祐の扱いが酷くなっていきます。
1437年には、満祐の所領だった・・・
を義教が奪おうとしているとの噂が流れ、京に緊張が走りました。
そして1440年3月、少し変わった形でこの噂は現実のものとなり、満祐の弟である赤松義雅(あかまつよしまさ)の所領が突如として没収され、その所領が義教の寵愛していた貞村の元へと渡ります。
赤松満祐・義雅は、室町幕府を支えていた功労者であり、幕府側として参戦した戦いでも数多くの部下が亡くなっています。その兄弟にこの仕打ちはあまりも酷すぎます・・・というわけで、赤松満祐は足利義教に対して非常に強い恨みを持つようになります。
さらに1440年5月、足利義教は一色義貫(いっしきよしつら)と土岐持頼(どきもちより)に「大和国で反乱があったから鎮圧に協力してくれ!!」と命令しておきながら、2人が大和に着くと、両者を暗殺します。
足利義教のこれらの行動の意図は「強くなりすぎた一族は将軍に逆らうかもしれないから消す」というものでした。そして強くなった一族とは、つまり幕府に貢献して多くの所領を得た一族なので、「頑張れば頑張るほど、将軍に目をつけられて命を奪われる」というなんとも理不尽な結論に至ってしまいます。
同じ一族内でも宗家の力が強くなれば、義教は庶家に加担し、宗家の力を削ごうとしました。そのめちゃくちゃ露骨な形が、「赤松満祐の弟の所領が奪われた」しまいには「一色・土岐の命を奪われた」なのです。
弟の所領が奪われ、さらには一色氏・土岐氏の宗主が暗殺されたことを知った赤松満祐は、「次は俺の番かもしれんな・・・」と強い不安を覚えるようになり、そして遂に足利義教の殺害を決意することになります。
血みどろの宴
計画実行は1441年6月24日。
この日、赤松満祐は自邸で結城合戦に勝利した記念として宴を開きました。
この宴には畠山・京極・細川・山名・大内と言った幕府の幹部たちも集められ、杯に注がれたお酒を飲んでいると、猿楽(さるがく)という当時流行っていた(今でいう舞台演劇的なものが始まります。
そしてその最中、背後から突如として刺客が現れ、足利義教の命が奪われます。
宴会場には血の海が広がり、逃げ出す人々で邸宅の中は混迷を極めます。幹部のうち刺客に抵抗したのは数名で、ほとんどの幹部らはその場から逃げ出します。
謎すぎる嘉吉の変の経過
逃げ出した幹部たちは、翌日に今後の対応について検討しますが、結論をすぐに出すことができません。
というのも、「赤松満祐単独で将軍暗殺というトンデモナイ事件を起こすはずがない。裏にはもっと多くの関係者がいるはずだ。」と考え、迂闊な行動ができなかったからです。
一方の赤松満祐は、こんなことを考えていました。
赤松満祐「足利義教の命を奪えば、すぐに諸大名たちが俺の命を奪いにくるだろう。それならいっそ、嘉吉の変が終わったら俺自身も自害して、この世を去ろう」
・・・、ところが諸大名たちは全然襲ってきません。なぜなら、上に書いたようにビビって静観していたから!
ここで赤松満祐の気持ちが変わります。
赤松満祐「誰も攻めて来ないんだがww今から播磨国に帰って体制立て直せば、生き残れるんじゃね?」
こうして、赤松満祐は播磨に帰り、防御を固めました。
とある貴族は、この時の様子を日記の中で辛辣に書き綴っています。
「将軍の首が取られたっていうのに大名たちは誰も切腹しないし、赤松を追おうともしない。もしかして逃げた大名たちも共謀者なのだろうか。まぁ、将軍が赤松満祐の命を奪おうとしたところを返り討ちにされたんだから、将軍の自業自得か。こんな犬死をした将軍きっと義教が初めてだなw」
首謀者の赤松満祐は何の抵抗も受ける事なく京を脱出し、京には事件が起こったとは思えないほどの不気味な静けさが漂います。嘉吉の変とは何とも不思議な事件です。
重い腰を上げた山名宗全
赤松満祐が裏でどんな人々と繋がっているかわからない中、幕府幹部からは中々挙兵の声が上がりません。幕府内に重い空気が漂う中、挙兵の名乗りを挙げた男がいました。
それが山名宗全(やまなそうぜん)です。山名宗全は出家後の名前で当時は山名持豊(やまなもちとよ)という名でしたが、山名宗全の方が有名なのでそう呼びます。
山名氏と赤松氏にはちょっとした因縁があって、赤松満祐の所領である播磨・美作は、元々は山名氏の所領でした。
1391年、山名氏が足利義満の謀略で起こった明徳(めいとく)の乱に敗れると、山名氏は広大な所領を一挙に奪われ、播磨と美作は赤松氏に与えらたという忌まわしき過去があります。
山名宗全は嘉吉の変を機に、昔に奪われた所領を奪い返そうと考えたのです。
赤松満祐VS山名宗全
嘉吉の変から一ヶ月経った1441年7月下旬、山名宗全を総大将として、幕府軍は播磨の赤松満祐の籠城する坂本城へ攻め込みます。
自国で準備の時間があったにも関わらず、意外と赤松満祐の兵力は脆く、9月になると坂本城は陥落。赤松満祐は別なお城に立て篭もり最後まで抗戦しますが、勝ち目がないことを悟った満祐は自害します。
将軍の死から二ヶ月半後、赤松満祐の死によってようやく事件は収束へ向かいます。
赤松満祐の最大の誤算は、地元の有力者を味方に引き入れることができなかった点にあります。
播磨国では1429年に播磨の土一揆と呼ばれる赤松満祐に対する反乱が起こっており、そもそも地元との関係が微妙でした。むしろ、赤松満祐を倒そうとする動きもあったりして、自国だからと言って気を許せる状況ではなかったのです。
嘉吉の変の後
嘉吉の変の後、1442年に七代目の将軍にわずか9歳の足利義勝(あしかがよしかつ)が就任。
幼い義勝では幕府運営は難しいので細川氏がこれを補佐することになります。幼少の将軍が就任したことで、これまでの「将軍は絶対」という義教の方針は消え去り、将軍の権力は次第に失墜します。
また、明徳の乱で弱体化していた山名氏は嘉吉の変によって完全復活し、応仁の乱の主役の一人である山名宗全が台頭するようになりました。
嘉吉の変により将軍の権力・権威は大きく失墜し、誰も争いを止められる者がいなくなると、全国を巻き込んだ大戦乱「応仁の乱」が始まり、世は戦国時代へと突入していきます。
おしまい。
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