足利尊氏がツンデレすぎる件w弟の足利直義との関係をわかりやすく解説!「直義好きすぎて辛い」→「直義絶対に許さない」

この記事は約12分で読めます。

今回は、足利尊氏とその弟の足利直義の関係について話をしていきます。

 

 

いきなりですが、両者の関係を簡単にまとめると、

1330年頃の足利尊氏直義大好き!!直義は信頼できるし頼りになるから政治は全部任せる!俺は出家する!」(結局、出家はできなかった)
1350年頃の足利尊氏「直義ぶっ潰す!戦争だ!!」(これが観応の擾乱)
1352年、足利直義死す。

 

と言う感じ。・・・意味わかんないですよねwww

 

足利尊氏がツンデレすぎて、精神ヤバいんじゃねーかって疑うレベルです。

 

 

しかし、当時の時代背景を詳しく見ていくと、仲の良かった2人が対立するのは必然だったのかもしれないとも思えてきます。というわけで・・・

 

仲良し兄弟が殺しあったのは、足利尊氏がツンデレだったのではなく、他にも色々理由があるんだよ

 

って言う話をしてみようと思います。とは言え、足利尊氏は躁鬱病だったんじゃねーか?って説もあるので、案外本当にツンデレだった可能性も捨て切れません(汗。

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弟を愛する良き兄、足利尊氏

足利尊氏と足利直義は、同じお母さんを持つ兄弟で、年も1つしか離れておらず、まさに世間一般でいう仲良し兄弟そのものでした。

 

 

一方、その性格はまるで正反対で

足利尊氏は、感情的で情緒不安定。だけど人に好かれる謎のカリスマ性がある
足利直義は真面目かつ冷静沈着で頭の冴えるクールキャラ。オラオラ系の陽キャ武士たちからは嫌われてたかも?

という感じでした。足利尊氏は弟の直義のこと強く信頼しており、尊氏の政治方針には直義の考えが強く反映されているとも言われています。

 

 

例えば、足利尊氏と後醍醐天皇が争った初戦の戦いとなる箱根・竹之下の戦い(1335年12月)

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この戦いで足利尊氏は天皇に刃を向けることをためらい、こんなことを言い始めます。

 

足利尊氏「天皇と戦うなんて俺には無理だ。出家するから後のことは直義に任せるわ・・・」

 

 

この時は結局、弟の直義がピンチになると急いで駆けつけて、むしろ敵をボッコボコにしてしまいましたが!笑

 

 

この時の後醍醐天皇と戦う政策判断は尊氏の独断ではなく、おそらくは直義の説得に応じた尊氏が苦悩の末に下した結論でした。当時、後醍醐天皇は力を持ちすぎた足利尊氏を失脚させたいとと考えており、それを見抜いていた直義は「これ以上天皇に好き勝手やらせると兄さんの立場が危うくなる!」と挙兵に至ったのです。

 

 

そして、戦いは足利尊氏の勝利に終わり、尊氏は京に幕府を開きます。これが室町幕府です。後醍醐天皇は京から追放され比叡山に逃げ込みます。

 

 

ところが、ここで勝利したはずの足利尊氏はまたこんなことを言い始めます。

 

足利尊氏「私は来世のために、出家(隠居)しようと思う。後の幸運は全て弟の直義に託し、直義の安寧を願うばかりだ」

 

 

これは1336年8月、足利尊氏が清水寺に納めた願文に書いた内容です。とても勝者の言葉とは思えませんが、きっと胸の内に後醍醐天皇に対して挙兵した後ろめたさや罪悪感があったのだと思います。

 

 

そして、この3ヶ月後、室町幕府の施政方針となる「建武式目(けんむしきもく)」が公布されます。幕府のトップである足利尊氏が公布したことになっていますが、少し前に隠居しようと思っていた人物が施政方針を作れるとも思えず、これも弟の直義が中心となって公布したという説もあります。

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こんな感じで、兄の尊氏は何か事あるごとに出家をほのめかして直義に全てを委ねる傾向がありました。尊氏の性格に問題があるような気もしますが、尊氏が直義を信頼していたと考えても良いように思います。

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室町幕府はトップが2人!

さて、建武式目が公布されるといよいよ室町幕府の運営が本格的になります。幕府のトップである足利尊氏は出家はしなかったものの、自らの権限の一部を直義に与え、表面上は2人のトップがいる形で幕府の運営を行いました。ここでも尊氏の直義依存が見え隠れします。

 

 

が、ことわざに「両雄並び立たず」というのがあるように、この室町幕府のツートップ制が尊氏と直義の仲に亀裂を生じさせることになります。

 

 

その原因を知るために、まずは2人の役割を確認しておきます。簡単に言ってしまうと

足利尊氏は軍事担当
足利直義は政務担当

 

なんですが、ここでは両者に亀裂が生じた原因についてもう少し突っ込んだ説明をします。

足利尊氏は功績ある者を守護に任命し、兵糧米を徴収する

足利尊氏は軍事担当なので、功績のある者に恩賞を与えなければいけません。その恩賞の1つとして守護職の任命というのがありました。

 

 

守護の仕事は、各国の軍事や治安維持に関することです。守護になった者はその地位を利用して任された国内の有力者と結びつき、美味しい話に預かることができました。

 

 

美味しい話とはどんな話かというと・・・

守護は地元の有力者から賄賂を貰う。その代わり守護は、国内でトラブルがあっても有力者に良いのよう取り計らうってのをイメージしてみてください。(実際はもっと複雑でいろんなケースがあったと思います)

 

そしてもう1つ、兵糧米を戦地で徴収する権利を持っていました。室町幕府の初期は、北朝と南朝が激しく争っており、小競り合いも含めると恒常的に戦いが続いていました。

 

 

兵糧米の徴収は、当然ながら現地住民からの強い反発に合います。そして兵糧米問題は、言葉を変えると「その土地の収穫物は誰のものか?」という問題とも捉えることができます。なので、A土地からの収穫物は兵糧米で、B土地の収穫物はこれまで通りでOKって感じで整理が進められました。(これが後に法律化される半済令となる)

 

そして、兵糧米に関連して各地で起こった土地トラブルに対応するのが政務担当だった足利直義の仕事の1つだったと言われています。

足利直義は適正な者を守護に推薦し、土地トラブルに対応する

足利直義は、守護のあり方についてこう考えていました。

 

「守護は各国を平和に治めるのが仕事である。そこに求められるのは戦いによる功績ではなく、統治の能力である。であるから、武勇に優れるからと言って守護に任命させるべきではない。」

 

ぐうの音も出ないほどの正論です。これは尊氏のやってることを全否定しています。これは先ほど紹介した建武式目にもズバッと明記されています。

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守護の任命権はあくまで尊氏にあったので、直義は何かあるごとに尊氏を説得します。こうなると、戦いで功績を挙げた者にとって直義の存在は邪魔以外の何者でもありません。

 

 

おまけに先ほど話したように兵糧米問題でも両者は対立する関係にありました。

足利尊氏は兵糧米を徴収する側
足利直義は不当な徴収についての訴えを聞く側

 

 

こんな風に、立場の上では両者は必然的に対立する関係にあったんです。それでも、しばらくはこの2人体制で室町幕府の運営を行うことができました。尊氏と直義の仲が良かったおかげでしょう。

 

 

しかし、1340年代後半に入ると雰囲気が変わってきます。「好き嫌い」の次元を超えて政治的に対立する宿命にある2人が長く平和を築くことは不可能だったのです。

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高師直「直義って本当にウザいよな(怒)」

きっかけは、高師直(こうのもろなお)という人物でした。

 

 

高師直は執事(しつじ)という足利尊氏の秘書官代表のようなポジションにいた人です。足利尊氏はどうも1330年代に後醍醐天皇と戦って以降、政治への意欲を失っていたようで、その代理として高師直が色々と頑張っていました。

 

 

そうすると、先ほど話した足利尊氏と直義の政治上の対立は、高師直と足利直義の対立へと読み換えることができます。

 

 

高師直は、秘書官であると同時に尊氏の親衛隊長でもありました。つまり戦いでも活躍していたということです。実際に、1348年には南朝側のエースだった楠木正行(くすのきまさつら)を撃破し、大きな成果を挙げています。

 

 

 

そして、この戦いの後から高師直と足利直義の関係が急速に悪化していきます。関係が悪化した直接の理由ははっきりとわかっていませんが、ぼんやりと察することはできます。

 

 

勝利の見返りを望み、戦乱を理由に人々の所領から税を徴収した高師直
武勇と守護の役職は無関係と考え、理不尽な税徴収の訴訟問題に対応した足利直義

 

尊氏と直義は仲良しパワーで対立を回避できましたが、高師直にそれは不可能でしたというより、高師直と足利直義は性格が違いすぎて人間的にも仲良くするなど不可能だったと言われています。

 

 

高師直は当時流行ったばさら者の一人でした。ばさら者とは鎌倉時代末期からの戦乱で、低い身分からのし上がった者が貴族などの旧支配層を軽蔑し、実力行使や傍若無人な振る舞いをする人々のことを言います。そして、足利直義はばさら者が嫌いでした。直義の元に舞い込んでくる訴訟の多くがばさら者に関係するものだったのだと思われます。

 

 

ちなみに、直義の意見が強く反映されているとされる建武式目でもばさら者の行動は全否定しています。ばさらの高師直とそれを嫌う足利直義の関係が崩壊するのも納得です。

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観応の擾乱

1348年以降、両者は人事などを巡って水面下で争いを続けますが、1349年になると遂に両者は武力衝突し、世は戦乱の時代へと突入します。いわゆる観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)が起こります。

 

 

事の発端は、1349年6月の足利直義による高師直の暗殺未遂事件。この事件を皮切りに、人々が足利直義派と高師直派に別れて激しく争うようになります。

 

 

ここで微妙な立場だったのが足利尊氏です。直義のことは大好きだけど、政治上は高師直側に立たなければいけません。そんな尊氏の採った行動は、「基本は高師直に味方しつつ、機会があらば直義との和睦に努める」という感じでした。

 

 

・・・が、これは上手くいきません。というのも観応の擾乱の規模がデカくなりすぎたからです。

 

戦いが全国規模に拡大してしまった
幕府内の争いだったのに直義が南朝に逃げたせいで、北朝VS南朝の戦いにもなってしまった。
尊氏の2人の息子、嫡流の足利義詮(よしあきら)と庶流の足利直冬(ただふゆ)が対立し、次期将軍問題にも発展しそうになった。

とか、いろんな事情が重なりに重なってカオスな情勢になってしまいます。

 

 

そして1350年10月、状況を見かねた足利尊氏が遂に重い腰を上げ、自ら出陣。直義に味方する直冬を討つために九州へと向かいます。

 

 

しかし、一度広がった戦乱を沈めることはもはや不可能でした。尊氏の出陣でも戦乱は静まらず、師直派と直義派は一進一退の攻防を続けます。1351年2月には戦乱のきっかけの一人である高師直が命を落としますが、

 

北朝VS南朝
足利義詮VS足利直冬

 

と戦いは新しいステージに移っており、戦乱が静まることはありませんでした。高師直亡き後は、足利尊氏が弟の直義と戦うハメになり、1352年、尊氏は弟の直義を撃破。その後、直義は謎の死を遂げます。

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足利尊氏はツンデレではない

以上が足利尊氏が大好きだった直義との争いのハイライトです。

 

 

タイトルで「尊氏ツンデレすぎww」とか煽ってみましたが、ここまで読んでもらうと、尊氏と直義の争いはある程度は必然だったことがわかると思います。

 

 

高師直亡き後、二人が仲直りすることもできそうにも思えますが、戦いが足利義詮VS足利直冬という構図に発展した時点でこれも難しくなっていました。

 

 

尊氏は嫡男の義詮派。一方の直義は直冬派でした(直義は直冬を養子にしていたので、親子の関係にあった)

 

尊氏・義詮・直義・直冬の関係を簡単にまとめると下のようになると個人的に考えています。

足利尊氏の場合

義詮は嫡男だからもちろん好き

直義はもっと大好き。愛してる。

直冬は絶対に許さん。庶流のくせに俺に歯向かうとはいい度胸だ。(ちなみに、直義死後も、尊氏は直冬と戦闘を続行している)

足利義詮の場合

尊氏お父さんは普通に好き

直義おじさんは僕を世話してくれた高師直の命を奪ったやつだから嫌い

直冬には絶対に負けられない。負けたら次期将軍の座を奪われる!

足利直義の場合

尊氏は好き

義詮は嫌いじゃないけど、高師直にゾッコンだし好きなわけでもない

直冬は養子だけど文武両道の優秀な息子だから大好き!

足利直冬の場合

尊氏は実の父親だけど庶流の自分を差別するから嫌い。というかめちゃくちゃ憎んでる。

義詮は尊氏にヨイショされてるから嫌い

直義は養子の自分を育ててくれたから大好き!

 

人間関係がかなり複雑です・・・。ただ、上の関係を見ると、尊氏と直義が戦いを止められなかった原因は、足利直冬にあるのではないかと思えてきます。尊氏と直義の直冬に対する評価は真っ向から反対し、しかも互いに譲れない部分があったのだろうと思います。

 

 

足利尊氏がツンデレではないとして、尊氏と直義はどんな気持ちで互いに戦っていたのでしょうか。今となっては誰もわかりませんが、少なくとも凡愚な私では想像もつかないような複雑な感情が2人の胸を締め付けていたことは間違いないように思います。

 

 

 

こうして高師直VS足利直義から始まった戦乱は、一度動き出した歯車が簡単には止まらないように、非情にも尊氏と直義の仲を引き裂き、直義は命を落としてしまうのでした。

 

尊氏と直義の話はわかっていないことも多く諸説ありますが、この記事は以下の2冊の本を参考にして書いています。

 

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この記事を書いた人
もぐたろう

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