今回は、六波羅蜜寺の境内にある六波羅探題跡についてのお話。
六波羅蜜寺の垣根に、小さな石碑がチョコンと立っているだけですが、今から約800年前、この地にはたしかに六波羅探題が存在していました。
というわけで、ここでは跡地を訪れる際に是非知ってほしい六波羅探題の歴史について紹介します。
死者と生者をつなぐ場所
六波羅(今は六原だけど、この記事では六波羅と言います。)はその地勢上、死者との結びつきがとても深い場所でした。
六波羅は、西に鴨川、東は山に囲まれた場所ですが、
951年、空也上人はこの地に六波羅蜜寺を建てます。(当時は、西光寺と呼ばれていた。)
六波羅蜜寺を建てた空也上人は、多くの社会事業を行ったことで有名で、
なんてエピソードもあります。死やその恐怖と隣り合わせの民衆たちに寄り添った空也上人が自らの拠点をこの地に選んだのはおそらく偶然ではないでしょう。
六波羅、平家の拠点となる
平安時代末期になると、六波羅は平家の本拠地となります。
平家が最も栄えた頃は、南北に500m、東西に600mほどの広大な敷地に平家一門の邸宅が立ち並んでいたとされています。現代の地図に大雑把に当てはめるとこんな感じ↓
しかし源平合戦中の1183年、木曽義仲が京に攻め入ると平家は六波羅の家々を焼き払い、都落ちしてしまいます。
六波羅探題、爆誕!
1185年に壇ノ浦の戦いで平家が滅ぶと、六波羅は鎌倉幕府における京の活動拠点になります。当時は京都守護と呼ばれていて、朝廷との政治交渉や諜報活動の拠点として活躍しました。
ちなみに、なぜこの地を拠点に選んだのかはわかりません。(瀬田川ルートで東国から京に向かう際に利便性があって、かつ、平家がいなくなって空いてた土地だったからとか?)
そんな中、1221年にとある事件が起こると、事態が大きく変わります。それが承久(じょうきゅう)の乱!
承久の乱は、後鳥羽上皇が朝廷の権限を奪い続けている鎌倉幕府に戦争を仕掛けた事件。
後鳥羽上皇はこの戦いに敗北し、島流しにされてしまうのですが、鎌倉幕府はこの一件を受けて、京の監視を強化します。
そして監視の強化のため、京都守護の代わって設置されたのが六波羅探題でした。六波羅探題の詳しい話は以下の記事でもしています。
六波羅探題のトップには代々、北条氏の中でも将来有望なエリートが就任する場所となり、北条氏の拠点となりました。平家一門が滅びた後、同じ桓武平氏の血を引くと言われる北条氏がこの地を選んだというのは、偶然か必然か、いずれにせよ運命的なものを感じますね。
鎌倉時代と共に栄え、滅んだ六波羅探題
六波羅探題は鎌倉幕府と共に栄え、そして滅びました。
後醍醐天皇が、幕府に対して挙兵した元弘(げんこう)の乱(1331年〜1333年)。六波羅探題はこの戦いの舞台となり、陥落することになります。(陥落させたのは、後に室町幕府初代将軍として有名となる足利尊氏らの部隊!)
当時は立派な建物が建てられていた六波羅探題は元弘の乱によって荒廃し、そのまま現代に至っているため、平家一門や六波羅探題の面影は今ではほとんどありません。
それこそ、面影が残っているのは民衆の信仰心によって残り続けた六波羅蜜寺ぐらいなんじゃないかと思う。(あとは、平重盛邸の跡地と言われている積翠園とか?)
という感じで、歴史を大きく動かした平家一門や北条氏が拠点としたのが、石碑の立つ六波羅蜜寺近辺だったのです。当時の面影はほとんどありませんが、せっかく近くを訪れるのなら、激動の歴史を振り返ってみるのも良いのではないでしょうか。
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