今回は、浄土宗の開祖で有名な法然の生涯について、わかりやすく丁寧に解説していきます。
法然、幼い頃に父を失う
法然は1133年、今の岡山県あたりで生まれました。
父は、その地域の治安維持を任されていたお役人で漆間時国と言いました。
地方のお役人はとても敵の多い仕事です。1141年、法然がまだ9歳の時、漆間時国は闇討ちされ、幼い法然を残したまま命を落とします。
父の時国は死ぬ間際、法然にこう言い残したと言われています。
私を襲った敵を恨んではいけない。もしお前が敵を恨むようなことがあれば、将来また敵の子孫がお前を恨むというように、憎しみの連鎖が生まれるだろう。お前は早くそのような世俗の世界を離れて出家しなさい。
法然の出家
主人を失って将来に悲嘆した法然の母は、法然を親戚のお寺に預けることを決心します。これは母との子の別れを意味しており、母にとっては苦渋の決断でもあったはずです。
親戚に預けられた法然は、そこで天才的な頭の良さを発揮して、一目置く存在になりました。
「法然は天才だ。こんな田舎にいるべきではない!すぐに比叡山に行って修行するのです!!」
こう考えた親戚は、法然が天台宗の拠点である比叡山で学べるよう配慮して、1145年に法然を比叡山に送り込みました。この時、法然はまだ13歳です。
1147年になると、法然は比叡山で出家し、父の遺言どおり僧侶としての生涯を本格的に歩み始めることになります。
腐敗する比叡山
1147年といえば、僧兵の強訴が激しくなり、僧侶が政治に深く介入し始めた時代でした。
特に延暦寺と興福寺の強訴は有名で、両寺院は所領を始めとした既得権益を守るため、ありとあらゆる手段を使って天皇や上皇に圧力をかけ、自分たちの有利になるように政治を動かそうとします。
こうして寺院が政治活動に専念するようになると、比叡山には兵力としてあられくれ者の僧兵たちが跋扈し、修行や勉学に励む者も少なくなります。天台宗を信仰する寺院としては比叡山は完全に腐敗していたのです。
もはや比叡山にいても、仏教の真の教えを学ぶことなどできない・・・
こう考えた法然は、1150年、叡空を師として延暦寺のやや北側に位置する黒谷という場所で厳しい修行と勉学に明け暮れました。
叡空は、天台宗だけではなく浄土信仰についても詳しい師匠であり、法然が浄土信仰に興味を持つきっかけなった人物でもあります。
法然と末法思想
仏教とは簡単に言ってしまえば、「いかにして苦しみだらけのこの世界から救われるのか?(苦しみのない浄土の世界に行けるのか?)」を考える宗教です。
法然は大量の経典を読破し、厳しい修行にも耐え抜きます。その努力と持ち前の才によって周囲から「智慧第一の法然房」という異名で絶大な評価を得ていた法然ですが、当の本人に納得した様子は全くありません。
めっちゃ修行して、大量の本を読んだけど未だに救われる方法はわからないままだ。周りは色々私のことを言うし、師匠らも貴重なお話をしてくれるんだけど、なんか違うんだよなぁ・・・
天台宗は、お釈迦様の教えが書かれている法華経という経典を最も重要な経典と位置付けていました。
しかし、比叡山の本を読み尽くし、厳しい修行に耐え続けても、法然は法華経から人々を苦しみから救う方法を見出すことができません。
この時に法然が着目したのが、阿弥陀様への信仰です。
日本では1050年ごろから、「お釈迦様の教えが正しく伝わらなくなりみんなが悟りを開けなくなる(苦しみのない浄土へ行く方法を知ることができなくなる)末法の時代が到来する!!」という末法思想がブームとなります。
なぜブームが起こったのかは、以下の記事で詳しく紹介しています。
こうして「末法の到来でお釈迦さまの教えはオワコンなんじゃね?」ってみんなが思い始めた頃に、人気を集めたのが阿弥陀様への信仰だったのです。
阿弥陀様とは何者なのか
阿弥陀信仰というのは、ザックリ言うと
お釈迦様の教えを実践して自分の力で浄土へ行くのは超難しいから、人々を救う力を持っている阿弥陀様に救ってもらえるように頑張ろうぜ!!
っていう考え方のことです。
この阿弥陀様の救いの力にあやかろうとすることを仏教用語で他力本願って言います。
今でこそ他力本願って「他人に丸投げしてあとはよろしく〜」的な意味で使われますが、本来の意味は全く違います。
阿弥陀様に救ってもらうにしても、何もしない者を阿弥陀様は救ってくれません。私たちは、阿弥陀様に救ってもらえるよう努力しなければならないんです。そして阿弥陀様に救ってもらえるよう何かに励むことを本来、他力本願と言います。
阿弥陀様については、以下の記事で詳しく紹介しています。
では、具体的に何をすれば阿弥陀様は私たちを救ってくれるのでしょうか。
そのヒントがたくさん載っていたのが、往生要集という本でした。985年に天台宗の僧侶である源信によって書かれた本です。
法然は、この往生要集を熟読に熟読を重ねた末、こんな結論に至りました。
阿弥陀様に救ってもらう最強の方法は、念仏を唱えることなのでは・・・!?
法然が特に注目したのは、往生要集に書かれた「念仏を唱え続ければ、10人いれば10人が往生でき、100人いれば100人が往生できる」という一文でした。中国の善導という僧侶の言葉を引用したものであり、この一文は法然の運命を大きく変えることになります。
往生要集自体は、阿弥陀様を信仰するには「阿弥陀様のことを心の中で考えること」が重要だと言っており、念仏を声に出して唱えることを熱く語っているような本ではありません。
それでも法然は「念仏こそが最強。浄土に行きたいなら念仏にだけ特化すべき。」という強い確信を持つことになります。念仏に何かビビッと感じるものがあったのでしょう。
法然と浄土宗の始まり
しかし、法然は迷っていました。というのも、「とにかく念仏を声に出して唱えればOK」って話になると、他の仏教宗派を全否定することになりかねないからです。
法然の考える「念仏を唱えればOK」理論では、これまで行われていた密教的な修行はもちろん難しい教理の理解すら不要です。つまり、頑張っている僧侶たちの存在を全否定する理論であり、他宗派から敵とみなされることは間違いなしの危険な思想だったのです。
考え方の違いから次第に師匠の叡空とも対立するようになった法然は、1175年に比叡山を降りることにします。法然は、往生要集に引用されていた善導の一文が気になって気になってしょうがなく、善導の本を探す旅に出ることにしました。
比叡山を降りた後、法然は「念仏を唱えまくったらなんか不思議な霊験があった!」という体験をした円照と出会い、自らの考えが間違っていないことを確信。
そして、念願の善導の本を宇治で発見すると、本を読み込んだ法然はここでも自分の考えが正しかったことを改めて確信します。
こうして覚悟を決めた法然は、1175年、念仏に特化した異端の宗派「浄土宗」を開くことになります。
1175年当時、法然は43才。出家してから25年間の厳しい修行とストイックなまでの探究の末に浄土宗が生まれました。
浄土宗の教え
浄土宗の教えはとてもシンプルです。
念仏を唱えれば、末法の世でも阿弥陀様が浄土に連れてってくれる
という教えです。
念仏は、具体的には「南無阿弥陀仏」と唱えればOKとされました。(この考え方のことを専修念仏って言います)
つまり、南無阿弥陀仏と唱えまくれば現世の苦しみから救われるわけです。
「南無阿弥陀仏唱えればOK」という浄土宗の教えは、そのシンプルさ故に信仰へのハードルが著しく低かったため、世間に爆発的な勢いで布教されることになります。
さらに、法然が1175年に浄土宗を開いて少し経つと、世の中は源平合戦に突入します。戦乱により多くの人が不安な気持ちになったことも、浄土宗の流行の1つの原因となりました。
実際に源平合戦には浄土宗に関するエピソードがいくつか登場します。
・南都焼討をした平重衡が、法然の説法を聞いて浄土宗に帰依したというエピソード
・一ノ谷の戦いで平敦盛を討ったことを悔いた熊谷直実が浄土宗に帰依したエピソード
などがあります。わずか10年前後で、有名人物のエピソードに残るほど浄土宗は爆発的な広まりを見せていたことがわかります。
しかし、その教理のシンプルさは爆発的な布教のきっかけとなった一方、浄土宗が腐敗化する一因にもなってしまいました。
南無阿弥陀仏って唱えるだけでOKってことは、逆に考えれば南無阿弥陀仏って唱えさせすれば何をしても良いってことだよなww
こんな理屈で好き勝手に振舞う輩が増え、浄土宗は旧仏教勢力(興福寺や延暦寺)から狙われることになります。
弾圧される法然
延暦寺や興福寺は、浄土宗を拡大解釈する輩を見つけては、「浄土宗は仏教を乱す悪しき輩だ!」と朝廷に直訴を始めます。
すでに述べたように、僧侶の修行を全否定しかねない浄土宗は、旧仏教勢力にとっては倒すべき敵でした。
1204年には延暦寺が、そして1205年には興福寺が直訴を行います。その内容は、ザックリと次のようなものでした。
しかし、法然は延暦寺・興福寺との争うことはしませんでした。
法然は、弟子たちを集め不埒な行いをしないことを誓う7ヶ条の内容にサインさせて、荒れた浄土宗を改善しようと努めました。この7ヶ条は、七個条制戒と呼ばれています。
これでひとまず、延暦寺・興福寺の攻撃をかわすことができました。しかし1206年、法然でもフォローしきれないような大事件が起きてしまいます・・・。
なんと、法然の弟子が後鳥羽上皇の女房と密通していることが発覚したのです。天皇の女に手を出したわけですから、もはや法然の力ではどうすることもできません。
後鳥羽上皇の逆鱗に触れた法然は弟子もろとも処罰され、4名が死刑、法然と7名の弟子が流罪となります。(ちなみにこの事件は法然を嫌う何者かの捏造事件だったという説もあります)
法然は讃岐国へ流され、1211年ころ、流刑を許されて再び京に戻ります。翌年の1212年、法然はこの世を去りました。享年80歳です。法然は民衆から貴族、武士まで広い人々に慕われ、とても包容力のある人物でした。
また、法然と共に流罪となった弟子の中には、後に浄土真宗の開祖となる親鸞の姿がありました。親鸞は、腐敗しやすい浄土の教えを改良するため、法然の教えのさらなる追求にチャレンジすることになります。
法然の名言など
以上、法然の生涯をハイライトで紹介してみました。
法然は大乗仏教の基本理念である「どんな人でも浄土の世界へ行くことができる」という教えを忠実なまでに信じ、考え抜き、血の滲む努力をし、真摯に仏教に向き合い続けてきました。
そんな努力の人である法然はこんな名言を残しています
一丈の堀を越えんと思わん人は、一丈五尺を越えんと励むべし。
【現代語訳】
一丈(約3m)の塀を越えようと思うなら、1.5倍の高さを越えようと目指さなければ成功はありえない
努力の人である法然が言うと妙にリアルです。
これは個人的な意見ですが、法然は仏教版のイチローのような人物だったのだろうと思います。
また、法然は選択本願念仏集という本を残しています。この本は、浄土宗の教えについて書かれた本です。
阿弥陀仏に救ってもらうための他力本願にはいくつかの方法がありますが、「他力本願の数ある方法の中から、念仏だけを選択して実践すべきである」という意味から選択本願念仏集という名前が付けられています。
わかりやすい現代語訳で書かれた本も出版されていますので、内容が気になる人はぜひ選択本願念仏集を読んでみてはいかがでしょうか。
法然の生涯まとめ【年表付】
- 1133年法然、生まれる
- 1141年父の漆間時国が闇討ちされる
法然は、親戚のお寺に預けられることに。
- 1145年法然、比叡山に入る
1147年には出家して、僧侶としての人生を歩み始める。
- 1150年腐敗した比叡山を離れ、叡空の下で修行を続ける
叡空の影響で、法然は浄土の教えに興味を持つようになり、次第に深い信仰を持つようになる
- 1175年法然、浄土宗を開く
長年の厳しい修行と勉学の結果、人々を救う方法は「ひたすらに念仏を唱える」専修念仏にあると考える。
浄土宗は、各地へ爆発的に広がっていく。
旧仏教勢力(延暦寺・興福寺など)は、新興宗派の浄土宗を敵対視する。
- 1206年浄土宗、女性問題で炎上
浄土宗の僧侶が、後鳥羽上皇に仕える女性に手を出して、後鳥羽上皇がぶちぎれる。
- 1207年法然、讃岐国に流罪
この時、法然の一番弟子だった親鸞も北陸の越後国に流されることに・・・。
- 1211年法然、罪を許され帰京
- 1212年法然、死去。享年80歳
コメント
法然上人の著書「選択本願念仏集」の「選択」は「せんちゃく」と読むと思います。
学期末試験の調べものをしてて、こちらに到着しました。
分かりやすい説明でした。ありがとうございます!(^^)!
当ブログをご覧いただきありがとうございます!
ご指摘ありがとうございます。修正いたしました。