

今回は江戸幕府8代将軍・徳川吉宗について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!享保の改革の中身から「米将軍」の由来、ドラマとは違う本当の吉宗の姿まで、バッチリ学んでいこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
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徳川吉宗とは?
「暴れん坊将軍」といえば、白馬に乗って悪人を斬り倒す豪快なヒーローのイメージがありますよね。でも実は、徳川吉宗は刀を振り回す剣豪とは真逆の人物でした。大奥をリストラし、自ら麦飯を食べ続けた超倹約家——史実の吉宗は、江戸時代最高の「緊縮財政マン」と呼んでもいいかもしれません。
- 江戸幕府8代将軍(在職1716〜1745年)。紀州徳川家出身で、「享保の改革」を主導した
- 倹約・財政再建・法整備(公事方御定書)・目安箱設置など幅広い政策を実施
- 「米将軍」とも呼ばれる。テレビドラマ「暴れん坊将軍」の主人公のモデルとして有名
徳川吉宗は、1684年(貞享元年)に紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれました。1716年(享保元年)には江戸幕府8代将軍に就任し、「享保の改革」と呼ばれる大規模な幕政改革を推し進めました。
在職期間は1716年から1745年の約29年間。これは歴代将軍の中でも長い部類に入ります。財政再建・法整備・農業振興・蘭学奨励など、後の江戸時代に大きな影響を与えた数々の施策を実施したことから、「中興の英主」とも称されています。次の章では、テレビドラマのイメージと史実の吉宗の差について深掘りします。
「暴れん坊将軍」のイメージと史実の差
1978年から2002年にかけてテレビ朝日で放映されたドラマ「暴れん坊将軍」。松平健さんが演じる主人公「徳田新之助」は、庶民の中に溶け込みながら悪人を懲らしめる勧善懲悪の将軍として日本中で大人気を博しました。このドラマのモデルが徳川吉宗だということは広く知られています。
しかし史実の吉宗は、自ら刀を抜いて悪人を成敗するような「アクションヒーロー」ではまったくありませんでした。史実の吉宗は財政数字を徹底的に管理し、経費を削減し、制度を整えた「行政のプロ」だったのです。

テレビの「暴れん坊将軍」ってかなりフィクションが入ってたんですね。史実の吉宗はどんな人物だったんですか?

史実の吉宗は「数字が大好きな財政オタク」って感じなんだよ!派手なアクションは一切なし。毎日麦飯を食べて自ら倹約の見本を示したり、年貢の計算をしたりしてた。
ドラマと史実の主な違いをまとめると、次のようになります。
ドラマの吉宗:町人「徳田新之助」に変装して悪を直接成敗。剣豪・勧善懲悪のヒーロー
史実の吉宗:超倹約家・財政改革の実務家。麦飯生活・大奥リストラ・年貢増収策を断行
もちろんドラマはドラマとして楽しめばよいのですが、史実の吉宗の「地味だけど本当にすごい」功績を知ることで、この人物への見方がガラリと変わるはずです。次の章では、そんな吉宗がいかにして将軍の座にたどり着いたのか、その生い立ちを見ていきましょう。
吉宗の生い立ち——紀州藩の四男坊から将軍へ

吉宗は1684年(貞享元年)、紀伊国(現在の和歌山県)の紀州藩主・徳川光貞の四男として誕生しました。徳川家の分家にあたる紀州徳川家に生まれたものの、四男という立場では家督を継ぐ可能性はほとんどありませんでした。
ところが、吉宗が成人するにつれ、兄たちが次々と亡くなるという悲劇が続きます。長兄・綱教は1705年に死去、次兄・頼職も同年に相次いで亡くなりました。わずか1年足らずのうちに2人の兄を失った吉宗は、22歳にして紀州藩5代藩主に就任することになったのです。

四男坊の自分が藩主になるとは、思いもよらなかった。しかし藩主となった以上、このまま放置できぬ財政の惨状がある。まずは紀州藩を立て直すことが、わしの務めじゃ。
藩主に就任した吉宗が直面したのは、深刻な財政危機でした。紀州藩は先代からの放漫財政で多額の借金を抱えていたのです。しかし吉宗は、ここで卓越した行動力を見せます。倹約令を発令し、藩士の給与を削減。自らも質素な生活を送りながら藩の支出を徹底的に削減していきました。
この紀州藩での財政再建の実績が、後の将軍就任への布石となります。1713年に7代将軍・家継が就任しましたが、わずか4歳での就任だったため体は弱く、1716年に8歳でこの世を去りました。家継には後継者がなく、江戸幕府の徳川宗家は断絶の危機に直面します。
こうした状況のなか、幕府首脳は御三家のひとつである紀州徳川家から後継将軍を選ぶことを決定。紀州藩での財政再建を見事に成し遂げた吉宗に白羽の矢が立ち、1716年(享保元年)、33歳にして江戸幕府8代将軍の座に就いたのです。次の章では、吉宗が将軍として直面した幕府財政の惨状を見ていきます。
8代将軍就任——幕府財政の危機を引き継ぐ
1716年(享保元年)、吉宗が幕府を引き継いだとき、その財政状況は目を覆いたくなるほど悲惨なものでした。5代将軍・徳川綱吉の時代から続く放漫財政、生類憐れみの令による出費増加、そして元禄文化に代表される豪華絢爛な文化を支えるための莫大な支出——これらが積み重なり、幕府の財政は深刻な赤字体質に陥っていたのです。
幕府の年間収入は約70〜80万両(石高換算)程度だったのに対し、支出はそれを大幅に上回っていました。貯蓄を取り崩し続けた結果、就任時の幕府の財政は実質的に破綻寸前の状態。吉宗は「このままでは幕府が立ちゆかなくなる」という強い危機感を抱いていました。


吉宗が将軍になったのって、何年のことだっけ?テストに出そう…

1716年(享保元年)だよ!「享保の改革」の「享保」はこの年号からきているんだ。元号と改革名がセットで覚えると記憶に残りやすいね!ちなみに徳川吉宗→8代将軍→1716年→享保、この4点セットは頻出だよ!
吉宗は就任直後から財政再建に向けて動き始めました。幕府の財政危機の構造を「収入を増やすか、支出を減らすか」の2軸でとらえ、両面から同時に手を打つという方針を立てます。支出削減の中心が「倹約令」であり、収入増加の中心が「年貢増収策」でした。
また吉宗は、紀州藩時代の経験を活かし、幕府機構そのものの改革にも着手します。優秀な人材を適切なポストに登用し、制度の整備を進めることで、長期的に安定した幕府運営を目指しました。こうした取り組みの全体が「享保の改革」と呼ばれます。次の章では、改革の第一弾として実施された「倹約令」と大奥リストラの実態を見ていきましょう。
享保の改革①——「倹約令」と大奥リストラ
将軍に就任した吉宗がまず着手したのは「倹約」です。これは単なる「ケチ」ではなく、財政再建に向けた戦略的な支出削減でした。幕府・旗本・御家人に広く倹約令を発令し、衣類や食事の質、儀式の規模など、あらゆる出費を削減しました。
倹約策①:将軍自ら麦飯を食べる「倹約のシンボル化」
とりわけ象徴的だったのが、吉宗自身が毎日「麦飯(麦と米を混ぜた粗食)」を食べ続けたことです。将軍という最高権力者が自ら質素な生活を送ることで、「上に立つ者が率先して倹約を示す」というメッセージを幕府全体に発信しました。これを現代風に言えば、トップがコスト削減の「見本」を自ら体現した、ということです。

大奥の経費を半分にせよ。まず上に立つ者が範を示さねば、下の者は動かぬ。わしが麦飯を食べれば、誰も文句は言えまい。
倹約令が最も大きな効果を発揮したのが「大奥」の経費削減です。大奥とは将軍の後宮であり、当時は数百人から千人を超える女性が働いていました。その維持費は莫大なもので、幕府財政の大きな負担となっていました。
吉宗は大奥の人員を大幅に削減し、衣装・食事・儀式などの経費を徹底的に切り詰めました。これは単なる経費削減ではなく、権力の象徴でもあった大奥に手をつけることで「改革への本気度」を示す政治的なメッセージでもありました。
このとき、大奥には幕府重鎮や有力大名の後ろ盾を持つ女中も多く、リストラには激しい抵抗が巻き起こったと伝えられています。それでも吉宗は毅然として「上に立つ者が範を示さなければ下は動かない」という姿勢を崩しませんでした。就任後、吉宗は将軍の食事を白米からあえて麦飯に変え、衣服が破れても新調せず補修して着続けたという逸話が残っています。最高権力者が自ら「質素」を体現することで、改革への本気度を組織全体に示したのです。
倹約策②:足高の制——優秀な人材を低コストで登用する仕組み
財政節約と人材登用を同時に実現した画期的な制度が「足高の制(1723年)」です。
江戸時代は「家格」制度があり、高い役職に就くためには一定以上の禄高(給与に相当)が必要でした。しかし優秀な人材が必ずしも高い禄高の家の出身とは限りません。そこで吉宗が考案したのが足高の制です。
📌 足高の制とは? 役職に必要な禄高(給与)に満たない人物を登用する際、在任中だけ不足分を補填し(足す=足高)、退任後は元の禄高に戻す制度。優秀な人材を低コストで登用できる「期間限定昇給制度」のようなもの。
この制度により、吉宗は家柄にとらわれずに優秀な人材を幕府の重要ポストに登用できるようになりました。足高の制が活かされた代表的な人物が、後述する大岡忠相です。倹約令と足高の制というこの2つの施策は、吉宗の改革の「土台作り」として極めて重要な意味を持ちます。次の章では、庶民の声を政策に直結させた「目安箱」について見ていきます。
享保の改革②——目安箱・小石川養生所・公事方御定書
吉宗の改革のなかで、後世に最も大きなインパクトを残した施策の一つが「目安箱(1721年)」の設置です。目安箱とは、武士も町人も農民も、身分を問わず誰でも幕府への意見・訴えを直接投書できる箱のことです。江戸城評定所前などに設置されました。

庶民の声を直接聞きたい。武士も町人も農民も、誰でも投書できる箱を設けよ。上に届かぬ訴えが、この箱を通じて政に活かされれば、国は変わる。
目安箱に投書された意見の中から実際に政策として実現した事例として有名なのが「小石川養生所」の設立です。1721年(享保6年)12月、町医者の小川笙船が「江戸の貧民には医者にかかるお金がなく、病気になっても治療を受けられない人が大勢いる」という内容の投書を目安箱に入れました。

目安箱って、投書されたことが本当に政策に反映されたんですか?

実際に反映されたんだよ!小川笙船っていう町医者が「貧民が医療を受けられない」って投書したら、吉宗はそれを読んで本当に養生所を作ったんだ。まさに「民の声が政策になった」実例だね。
吉宗はこの投書を受け、同年1722年(享保7年)12月に小石川養生所を設立しました。小石川養生所は幕府が運営する無料の医療施設で、江戸の貧しい病人たちが薬や治療を受けられる場所となりました。これは現代で言えば「公的医療機関」の先駆けとも言える画期的な施設です。
そしてもうひとつ、吉宗時代の大きな法的業績が「公事方御定書」(1742年完成)です。これは江戸時代の基本法典とも言うべきもので、全国の幕府支配地域における刑事・民事の判例や法規を集大成したものです。
それまで幕府の法令は統一されておらず、奉行所ごとに判断が異なるという問題がありました。公事方御定書はこれを整理し、全国で統一した法運用を可能にしました。大岡忠相が中心となって編纂したこの法典は、その後100年以上にわたって幕府の法の基準として機能し続けました。
目安箱・小石川養生所・公事方御定書という3つの施策は、いずれも「庶民の声を聞き、社会を安定させる」という吉宗の一貫した姿勢を示しています。次の章では、農業政策と「五公五民」という農民への重い負担について見ていきます。
享保の改革③——農業改革と「五公五民」の重さ
吉宗の財政再建において、収入増加の主軸となったのが農業改革です。江戸時代の幕府収入の大半は年貢(農民から徴収する税)でした。収入を増やすためには、年貢の徴収量を増やすか、農業生産量そのものを増やすか——吉宗はその両方に取り組みました。
「五公五民」とは? 収穫の5割を年貢として納める仕組み。現代の所得税で言えば税率50%!農民は収穫した米の半分を幕府に取られる計算になる
吉宗が1722年(享保7年)に導入した「定免法」は、年貢の徴収方式を抜本的に変えるものでした。それまでの「検見法」(毎年の収穫量に応じて年貢額を決める方法)に代えて、過去数年の平均収穫量を基準に一定額を徴収する方式を採用しました。

「定免法」ってどういう意味?「検見法」と何が違うの?

いい質問!「検見法」は毎年役人が田んぼに来て収穫量を見て年貢を決める方法。「定免法」はその反対で、豊作でも不作でも関係なく毎年同じ金額を払う「定額制契約」みたいなもの。幕府にとっては収入が安定するけど、農民にとっては凶作の年でも払わないといけないから辛いんだよね…。
幕府側にとって定免法は「収入の安定化」というメリットがありました。しかし農民にとっては、凶作の年でも決まった年貢を払わなければならないという厳しい制度です。これが五公五民という高い税率と組み合わさることで、農民の生活を圧迫しました。
さらに吉宗は1722年(享保7年)に「上米の制」も実施しています。これは参勤交代の江戸滞在期間を半年に短縮する代わりに、各大名が1万石につき100石の米を幕府に上納するという制度です。大名の負担を減らすと見せかけて実は幕府の収入を増やすという、巧みな政策でした。
📌 「米将軍」の由来:吉宗は年貢増収のために米の増産・流通管理・米価安定にとことんこだわった。「米で政治をする将軍」という意味で「米将軍」と呼ばれるようになった。ただし米価が上がりすぎて庶民が困るという皮肉な側面もあった。
農業生産量を増やすための取り組みとして、吉宗は新田開発も積極的に推進しました。関東各地の低湿地を開墾し、農地面積を拡大。また青木昆陽(昆陽)にサツマイモの研究・普及を命じ、飢饉への備えとして新たな食料確保にも取り組みました。
こうした農業改革の結果、幕府の年貢収入は吉宗就任前と比べて約15〜20%増加したと言われています。財政再建という目標は一定程度達成されました。しかしその陰で農民たちは重い年貢に苦しめられ、後に発生する享保の大飢饉の際には悲惨な状況が生まれます。農業改革は「幕府の成功・農民の苦難」という光と影を持つ施策だったのです。次の章では、こうした改革を実務面で支えた大岡忠相との関係を見ていきます。
大岡忠相との二人三脚
吉宗の改革が「絵に描いた餅」で終わらなかった最大の理由のひとつが、優秀な実務家を側に置いたことです。その筆頭が大岡忠相(大岡越前守)です。1717年(享保2年)、吉宗は大岡忠相を江戸南町奉行に任命しました。これは家格を超えた抜擢人事として知られており、後に制定された足高の制(1723年)の精神を先取りした人材登用の象徴的な例です。

大岡越前って、テレビドラマにもなってますね。実際の大岡忠相はどんな人物だったんですか?

テレビの「大岡越前」はかなりフィクションが入ってるんだけど、史実の忠相も相当すごい人なんだよ!南町奉行として約20年(1717〜1736年)幕府の実務を支え続けた。目安箱の運営から、小石川養生所の設立実務、公事方御定書の編纂まで、吉宗の政策の「実行部隊」として欠かせない存在だったんだ。
大岡忠相が南町奉行に就いたのは、吉宗が紀州藩主時代に忠相の仕事ぶりを評価していたからだと言われています。忠相は江戸の行政・司法・治安を一手に担い、吉宗の政策をひとつひとつ地道に実行していきました。
特に目安箱の運用においては、忠相が投書の審査・政策立案のとりまとめ役を担いました。先述した小川笙船の投書から小石川養生所が設立されるまでの過程でも、忠相の働きは不可欠でした。吉宗が「方針を示す人」であり、忠相が「それを実行する人」という、理想的な上司と部下の関係がそこにありました。
📌 大岡忠相の主な業績:江戸南町奉行(1717〜1736年在任)・目安箱の実務運営・小石川養生所設立の主導・公事方御定書の編纂・江戸の消防制度(町火消し)の整備。町火消し「いろは47組」を組織したのも忠相の功績として知られる。
吉宗と忠相の連携を象徴するエピソードとして語り継がれるのが「町火消いろは47組」の組織化です。1718年(享保3年)、忠相は当時深刻だった江戸の火災問題に対処するため、従来の武家による消防体制を改め、町人による自治的な消防組織を整備しました。「い組・ろ組・は組……」と名づけられたいろは47組は、江戸の各地区を分担して警戒する仕組みで、江戸の防火体制を根本から変えました。「火事と喧嘩は江戸の花」と言われた江戸の火災を大幅に減らすことに成功した、忠相の最大の功績のひとつです。
吉宗と忠相の協力関係は、江戸時代の政治史における最もうまくいった「リーダーと実務者のコンビ」のひとつとして評価されています。優れたビジョンを持つリーダーが、それを実行できる優秀な人材と組んだとき、政策は現実に動く——吉宗の改革はまさにその好例です。
蘭学解禁と実学奨励——未来への種まき

吉宗は財政改革と並行して、日本の将来を見据えた「知的改革」にも着手しました。それが1720年(享保5年)の「漢訳洋書の輸入解禁」です。
それまで江戸幕府は、キリスト教の布教につながるという理由から西洋の書物の輸入を厳しく制限していました。吉宗はこの方針を転換し、キリスト教と直接関係のない実学書——天文学・地理学・本草学・医学などの専門書——については輸入を認めました。

吉宗の蘭学解禁は、すぐに目に見える効果が出るものじゃなかったんだよ。でも、この決断から約50年後——1774年(安永3年)に杉田玄白たちが『解体新書』を出版する。西洋医学を本格的に日本に導入したあの本も、吉宗の種まきがあったからこそ生まれたんだ。「今すぐの成果」より「未来への投資」を選べるのが、吉宗の先見性なんだよね!
また吉宗は、直接的な実学の奨励も行いました。青木昆陽(昆陽)に命じてサツマイモ(甘藷)の栽培研究を行わせたのもその一例です。サツマイモは凶作・飢饉への備えとして将来的な食料安全保障に役立てることが目的でした。
📌 蘭学解禁の連鎖:1720年 漢訳洋書解禁(吉宗)→ 1774年 『解体新書』出版(杉田玄白)→ 1800年代 蘭学の全盛期へ。吉宗の政策判断が50〜80年後の知的革命の土台となった。
吉宗の「実学奨励」という姿勢は、単に西洋の知識を取り入れるだけでなく、農業・医学・天文・暦など、社会に実際に役立つ知識を重視するという考え方に基づいていました。この実用主義的な知の方針は、吉宗時代以降の江戸文化を「実学の時代」へと向かわせる原動力となりました。
享保の大飢饉——改革の「限界」と吉宗の苦悩
吉宗の改革が順調に進んでいた1732年(享保17年)、突然の大災害が改革の「限界」を露わにしました。「享保の大飢饉」です。
この年、西日本を中心にウンカ(稲の害虫)が大量発生し、稲作に壊滅的な被害をもたらしました。被害は九州・中国・四国地方を中心に広がり、翌年にかけて幕府の公式記録では餓死者約1万2千人・飢えに苦しんだ人は約250万人に達しました(後世の幕府史書『徳川実紀』ではより多い数字も記されているが、現在では過大と見なされています)。

米価を上げることも下げることも、どちらも難しい……。幕府の財政のために米価を高く保ちたい。だが今、米が高すぎて民が飢えている。何を優先すべきか。
この飢饉で、吉宗の改革が抱えていた矛盾が一気に表面化しました。吉宗は財政再建のために「米価を適正に維持・引き上げる」政策を取ってきました。幕府の収入の大部分は米による年貢であり、米価が下がりすぎると財政が苦しくなるからです。
しかし飢饉によって米の供給が激減すると、米価は逆に高騰しました。農民と都市の庶民は米を買えず、打ちこわし(一揆の都市版)が江戸でも100件を超えて発生しました。幕府はあわてて「米価安定策」に取り組みましたが、構造的な問題は解決できませんでした。

定免法って、凶作の年でも同じ年貢を払うんだよね?飢饉のときは本当に辛かったんじゃないかな…

まさにそこが「改革の矛盾」なんだよね。定免法は幕府に安定収入をもたらす一方で、凶作の年でも容赦なく年貢を取り立てる制度。享保の大飢饉では、この制度が農民の苦境をさらに深刻にした。吉宗は救済措置も取ったけど、根本的な問題は解決できなかった。これがいわゆる「改革の限界」なんだ。
吉宗は飢饉への対応として、米の輸送・備蓄・価格統制などの緊急措置を講じました。また青木昆陽に命じたサツマイモ研究も、こうした飢饉対策の一環でした。しかし享保の大飢饉の犠牲者の多さは、吉宗の農業政策——とりわけ五公五民の高率年貢と定免法——が農民を追い詰めていたことの証左でもありました。
「米将軍」という呼称には、米の増産と安定供給に執心したという意味と同時に、米価問題で苦悩した将軍という皮肉な意味も込められています。財政の安定を追い求めた吉宗の改革は、確かに幕府を救いましたが、その重みは農民に転嫁されていたのです。
徳川吉宗の評価——「中興の英主」か「農民の敵」か
享保の改革が完結した後、吉宗は1745年(延享2年)に9代将軍・家重に将軍職を譲り、大御所となります。1751年(宝暦元年)、67歳でこの世を去りました。
後世の歴史評価において、徳川吉宗は一般に「中興の英主」と称えられます。財政危機に瀕した幕府を立て直し、目安箱・公事方御定書・蘭学解禁など後世に残る制度・政策を実現したその業績は、江戸時代の将軍の中でも傑出しています。
「中興の英主」と称えられる主な根拠:幕府財政を黒字に転換・目安箱(民主的施策)・公事方御定書(法整備)・蘭学解禁(知的発展の基盤)・足高の制(人材登用改革)
「農民の敵」とも呼ばれる批判的評価の根拠:五公五民の高率年貢・定免法による凶作時の容赦ない徴税・享保の大飢饉での犠牲者多数・農村の疲弊
一方で、近年の歴史研究では吉宗批判の視点も重視されています。五公五民という重い税率と定免法の組み合わせは、農村社会に慢性的な貧困と疲弊をもたらしました。享保の大飢饉では農民・庶民が最大の犠牲を払いましたが、その背景には吉宗の農業政策が農民の「余力」を奪っていたという問題があります。

「中興の英主」も「農民の敵」も、どちらも本当のことなんだよね。吉宗が幕府を救ったのは事実。でもその負担を誰が払ったかといえば、農民や都市の庶民だった。歴史の評価って、「誰の目線から見るか」でまったく変わってくる。それを理解することが、歴史を「読む力」に繋がるんだよね。
吉宗の後継者たちは、吉宗が作った「享保の体制」をそのまま引き継ぎます。次代の田沼意次の政治も、吉宗が作った財政・制度の枠組みの中で展開しました。「享保の改革」は江戸中期以降の政治の「基準点」となり、後に松平定信の「寛政の改革」や水野忠邦の「天保の改革」も、吉宗の改革を参照しながら行われました。
テストに出るポイント
定期テスト・共通テスト・大学受験(国公立二次)で頻出の徳川吉宗・享保の改革のポイントをまとめます。試験直前の確認に使ってください。
📌 論述対策:「享保の改革はなぜ必要だったか」→幕府財政の悪化(綱吉時代からの放漫財政)が背景。「享保の改革の限界は何か」→農民への過重な年貢負担・定免法の欠点・享保の大飢饉での大量餓死。三大改革の比較論述でも頻出(享保=財政再建重視 / 寛政=農村復帰重視 / 天保=緊縮重視)。

享保の改革って政策がいっぱいあって混乱する…。テストで一番問われやすいのってどこ?

一番よく出るのは「目安箱・定免法・上米の制・足高の制・公事方御定書」のセット! 特に「目安箱→小石川養生所」の因果関係、「定免法と検見法の違い」、「公事方御定書が完成した年(1742年)」はそれぞれ単独でも出るから、バラバラに覚えるより「享保の改革パッケージ」として一気に押さえちゃおう!
徳川吉宗についてもっと詳しく知りたい人へ

記事で紹介した内容をもっと深く学びたい人のために、おすすめの本を3冊紹介するよ!目的に合わせて選んでみてね。
①テスト前に速攻で概要をつかみたいなら
歴史小説の名手・童門冬二による徳川吉宗の物語。財政再建・倹約・目安箱の設置など改革の核心を、小説仕立てで読みやすく描いています。吉宗の人物像を「速く・楽しく」つかみたい人に最適です。
②人物の生涯を読み物として楽しみたいなら
吉川弘文館「人物叢書」の1冊。学術的根拠に基づきながら、紀州藩主時代から将軍就任・享保の改革の全体像まで丁寧に追っています。中高生から大学生・社会人まで読める標準的な吉宗評伝です。
③享保の改革を学術的に深掘りしたいなら
享保の改革の第一人者・大石慎三郎による解説書。財政再建の仕組み・米価政策・農業政策を経済史の視点から分析しており、改革の「光と影」を深く理解したい人に最適です。
よくある質問(FAQ)
江戸幕府8代将軍(在職1716〜1745年)で、「享保の改革」を主導した人物です。財政再建・倹約・法整備・農業改革など多方面の改革を断行し、破綻寸前だった幕府財政を立て直しました。目安箱の設置や公事方御定書の編纂など、庶民生活に直結する施策も多く残しています。テレビドラマ「暴れん坊将軍」の主人公のモデルとしても知られます。
吉宗が米価の安定・年貢増収(定免法・五公五民)・米の増産など、米に関する政策に執心したことから「米将軍」と呼ばれました。当時の幕府財政は米の年貢が主要収入だったため、米価が上がりすぎても下がりすぎても問題が生じる難しい状況でした。享保の大飢饉(1732年)では米価高騰に苦悩した側面もあり、「米価で一喜一憂した将軍」という皮肉な意味も込められています。
享保の改革(1716〜1745年、徳川吉宗)は財政再建・農業振興・法整備を三本柱とし、倹約と年貢増収で幕府財政を立て直したことが特徴です。寛政の改革(1787〜1793年、松平定信)は、天明の大飢饉後に疲弊した農村を復興させることを重視し、農民の出稼ぎ制限・旧里帰農令など「農村への人口と農業力の回帰」を主目的とした点で性格が異なります。どちらも財政立て直しを目標とした点は共通していますが、手段と重点が違います。
1732年(享保17年)に西日本を中心に発生した大飢饉です。ウンカ(稲の害虫)が大量発生して稲作が壊滅し、幕府の公式記録では餓死者約1万2千人・飢えに苦しんだ人は約250万人に達しました。米価が急騰し、江戸でも打ちこわしが100件を超えました。吉宗の改革の限界を示す出来事として知られており、定免法(凶作でも一定年貢を徴収)との組み合わせが農民の苦境を深刻にしました。
大岡忠相(おおおかただすけ)は、吉宗の腹心として1717年(享保2年)から江戸南町奉行を約20年務めた人物です。家格を超えた大抜擢として知られ、目安箱の実務運営・小石川養生所設立・公事方御定書の編纂・江戸の町火消し(いろは47組)の整備など、享保の改革の実務を一手に担いました。テレビドラマ「大岡越前」の主人公のモデルですが、史実の忠相もドラマに負けない実績を持ちます。
「成功」と「限界」の両面があります。幕府財政の立て直しという主要目標は達成され、年貢収入は就任前比で約15〜20%増加しました。法整備(公事方御定書)・人材登用改革(足高の制)・民主的施策(目安箱)など後世に残る成果も多数あります。一方で、農民への過重な年貢負担・享保の大飢饉での大量餓死・農村の疲弊といった「改革の負の側面」も否定できません。「幕府財政の成功は農民の犠牲の上に成り立っていた」という評価も歴史研究では重要視されています。
1721年(享保6年)に吉宗が設置した投書制度です。武士・町人・農民を問わず身分に関係なく、誰でも幕府への意見や訴えを直接投書できる箱を江戸城評定所前などに設けました。投書された意見の中から実際に政策に反映された例として「小石川養生所」の設立が有名です(町医者・小川笙船が貧民医療の必要性を訴えた投書がきっかけ)。庶民の声を政策に直結させた点で、当時としては画期的な民主的施策でした。
まとめ

以上、徳川吉宗のまとめでした!享保の改革の詳細は下の「享保の改革」の記事でも詳しく解説しているよ。江戸時代の三大改革や田沼意次の政治に興味がある人は、あわせて読んでみてね!
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1684年紀州藩2代藩主・光貞の四男として誕生
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1705年兄たちの急死により紀州藩5代藩主に就任。財政再建に取り組む
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1716年7代将軍家継の死去により、江戸幕府8代将軍に就任。享保の改革を開始
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1717年大岡忠相を江戸南町奉行に任命。享保の改革の実務担当として活躍
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1720年漢訳洋書の輸入解禁(蘭学奨励・実学の基盤づくり)
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1721年目安箱を設置。小川笙船の投書が小石川養生所設立のきっかけに
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1722年定免法・上米の制を実施。年貢増収策の本格化
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1723年足高の制を実施。家柄を問わない人材登用が可能に
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1732年享保の大飢饉。ウンカ被害で西日本が大凶作・打ちこわし多発
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1742年公事方御定書が完成。江戸時代の基本法典として100年以上機能
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1745年9代将軍・家重に将軍職を譲り、大御所となる
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1751年死去(享年67歳)。「中興の英主」として後世に高く評価される
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後世「中興の英主」と評価。三大改革の起点となり、田沼・松平定信・水野忠邦に影響を与えた
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📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「徳川吉宗」「享保の大飢饉」「小石川養生所」(2026年5月確認)
コトバンク「徳川吉宗」「大岡忠相」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
Historist(山川オンライン辞典)「徳川吉宗」「享保の飢饉」(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
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