文治政治と元禄文化
4代家綱の文治政治から5代綱吉の元禄文化まで。町人文化の誕生と正徳の治——武断政治から文治へ転換した58年間。
3代家光の死後、11歳の家綱が4代将軍に就任します。大老・酒井忠勝らの補佐のもと、武力で大名を押さえ込む「武断政治」から儒学・礼法による「文治政治」へ転換が進みました。末期養子の禁の緩和により取り潰し大名が減り、殉死も禁止されました。
1657年(明暦3年)1月、本郷丸山町の本妙寺から出火した大火は強風にあおられて江戸市中に燃え広がり、江戸城本丸天守閣を含む城の大部分と市街地を焼き尽くしました。死者は数万人とも言われ、江戸最大の火災です。この後、都市整備・防火対策として江戸の町割りが大幅に見直されました。
家綱〜綱吉期にかけて、三井高利が越後屋(現・三越)を江戸に開業するなど、有力な商人資本が成長します。大坂の鴻池善右衛門、住友家の銅山経営なども拡大し、元禄時代の町人文化を経済面から下支えする豪商が各地で誕生しました。
5代将軍綱吉は儒学を奨励し、湯島聖堂を建立するなど文治政治をさらに推し進めました。一方で1687年から段階的に発令された「生類憐みの令」は犬・猫・魚介類など生き物の殺傷を禁じる異例の法令で、特に犬の保護が徹底され「犬公方」と揶揄されました。
1682年に井原西鶴が『好色一代男』を刊行し、町人の現実生活を描く浮世草子(ウキヨゾウシ)が誕生します。松尾芭蕉は俳諧を芸術の域まで高め、『奥の細道』(1689年)を著しました。近松門左衛門は人形浄瑠璃・歌舞伎の脚本家として活躍し、町人の悲劇を舞台に乗せました。
菱川師宣は木版摺絵を確立し、浮世絵の祖として知られています。尾形光琳は『燕子花図屏風』などに代表される大胆な意匠の装飾画「琳派」を完成させました。本阿弥光悦の工芸・書道も含め、元禄美術は江戸前期の豊かな経済力を背景に開花した町人文化の象徴です。
1707年(宝永4年)、富士山が49日間にわたって噴火しました(宝永大噴火)。大量の火山灰が関東一帯に降り注ぎ、農業被害が深刻化します。同年には宝永地震(東海・南海連動型)も発生しており、元禄〜正徳期は天災が重なる時期でもありました。
6代家宣・7代家継の時代、儒学者の新井白石と側用人・間部詮房が幕政を主導しました(正徳の治)。綱吉時代に悪化した幕府財政を立て直すため、金銀の含有量を戻した正徳小判を発行し、長崎貿易を制限する「海舶互市新例」も定めました。