幕藩体制の成立
家康による幕府開幕から武家諸法度・鎖国体制の確立まで。大坂の陣・島原の乱を経て幕藩体制が整えられた48年間。
1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きます。1605年には早くも三男・秀忠に将軍職を譲り、将軍職が徳川家の世襲であることを天下に示しました。豊臣家はなお大坂城に健在でしたが、徳川支配の基盤はこの時点で固まりつつありました。
1614年の冬の陣で豊臣方を和睦に持ち込んだ家康は、翌1615年の夏の陣で大坂城を落とし、豊臣秀頼・淀殿を自害に追い込みます。天下の大名を束ねる唯一の存在となった徳川幕府は、同年「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」を発布し、支配の法的基盤を整えました。
武家諸法度は大名が守るべき規則を定めた法令で、無断で城を修築したり大名同士が幕府の許可なく婚姻・同盟を結ぶことを禁じました。禁中並公家諸法度は天皇・公家の行動を規制し、朝廷が幕府に優越する政治的権威を持てないよう制度的に封じました。
3代将軍家光の時代、武家諸法度の改定(寛永令)により参勤交代が義務化されます。大名は1年おきに江戸と領国を往復し、妻子は江戸に常住させられました。莫大な旅費・在府費用が大名財政を圧迫し、反乱を起こす余力を削ぐ巧みな統制策でした。
九州・島原・天草地方のキリシタンと農民が、重税と圧政に反発して蜂起した大規模一揆です。天草四郎(益田時貞)を総大将として原城に籠城した反乱軍は12万の幕府軍によって鎮圧されました。この乱を機に幕府のキリスト教弾圧と鎖国政策が加速します。
1639年のポルトガル船来航禁止により、日本の対外関係は長崎出島のオランダ・中国貿易、対馬藩を通じた朝鮮、薩摩藩を通じた琉球、松前藩を通じたアイヌとの交易の4ルートに限定されます。これが一般に「鎖国」と呼ばれる体制の完成とされています。
1641年、平戸にあったオランダ商館が長崎の出島に移されます。これにより外国との貿易・外交は長崎の出島を唯一の窓口とする体制が整い、幕府が貿易を独占管理する鎖国体制が名実ともに完成しました。以後200年以上にわたり、この体制が維持されます。
3代将軍家光の死去直後、軍学者・由比正雪が浪人を率いて幕府転覆を企てた事件です(慶安の変)。計画は事前に発覚して失敗しましたが、この事件を機に幕府は末期養子の禁を緩和し、大名の取り潰しを減らして浪人の増加を抑える政策へと転換します。