幕藩体制の成立(1603〜1651)|江戸時代 STEP①

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家康
STEP 1 / 1603〜1651年

幕藩体制の成立

家康による幕府開幕から武家諸法度・鎖国体制の確立まで。大坂の陣・島原の乱を経て幕藩体制が整えられた48年間。

1603
幕府開幕
1615
大坂夏の陣
1651
慶安の変
1603
幕府開幕
1615
大坂夏の陣
1635
参勤交代
1637
島原の乱
1639
鎖国完成
1651
慶安の変
Phase I — 江戸幕府の成立
1603〜1615年
1603
幕府開幕
徳川家康、征夷大将軍就任 — 江戸幕府の開幕

1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きます。1605年には早くも三男・秀忠に将軍職を譲り、将軍職が徳川家の世襲であることを天下に示しました。豊臣家はなお大坂城に健在でしたが、徳川支配の基盤はこの時点で固まりつつありました。

徳川家康準備中 将軍宣下準備中
1615.5
豊臣滅亡
大坂夏の陣・豊臣家滅亡 — 武家政権最大の障壁を除く

1614年の冬の陣で豊臣方を和睦に持ち込んだ家康は、翌1615年の夏の陣で大坂城を落とし、豊臣秀頼・淀殿を自害に追い込みます。天下の大名を束ねる唯一の存在となった徳川幕府は、同年「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」を発布し、支配の法的基盤を整えました。

大坂の陣準備中 淀殿準備中
Phase II — 支配体制の確立
1615〜1639年
1615
法制整備
武家諸法度・禁中並公家諸法度 — 大名と朝廷を法で縛る

武家諸法度は大名が守るべき規則を定めた法令で、無断で城を修築したり大名同士が幕府の許可なく婚姻・同盟を結ぶことを禁じました。禁中並公家諸法度は天皇・公家の行動を規制し、朝廷が幕府に優越する政治的権威を持てないよう制度的に封じました。

▶ 深く読む
武家諸法度とは?
大名を縛った幕府の基本法。各将軍による改定と参勤交代の明文化まで詳しく解説。
武家諸法度 禁中並公家諸法度準備中
1635
制度化
参勤交代の制度化 — 大名を江戸と国元に交互在府させる

3代将軍家光の時代、武家諸法度の改定(寛永令)により参勤交代が義務化されます。大名は1年おきに江戸と領国を往復し、妻子は江戸に常住させられました。莫大な旅費・在府費用が大名財政を圧迫し、反乱を起こす余力を削ぐ巧みな統制策でした。

参勤交代準備中 武家諸法度改定準備中
1637〜38
反乱鎮圧
島原の乱 — キリシタン農民の大規模蜂起

九州・島原・天草地方のキリシタンと農民が、重税と圧政に反発して蜂起した大規模一揆です。天草四郎(益田時貞)を総大将として原城に籠城した反乱軍は12万の幕府軍によって鎮圧されました。この乱を機に幕府のキリスト教弾圧と鎖国政策が加速します。

▶ 深く読む
島原の乱とは?
天草四郎と原城籠城の真相。鎖国完成への引き金となった江戸最大の反乱。
1639
鎖国
鎖国の完成 — ポルトガル船来航禁止

1639年のポルトガル船来航禁止により、日本の対外関係は長崎出島のオランダ・中国貿易、対馬藩を通じた朝鮮、薩摩藩を通じた琉球、松前藩を通じたアイヌとの交易の4ルートに限定されます。これが一般に「鎖国」と呼ばれる体制の完成とされています。

▶ 深く読む
鎖国とは?
「完全な孤立」ではなかった。4つの窓口と海禁体制の実態をわかりやすく解説。
鎖国とは 出島準備中
Phase III — 鎖国の定着と変乱
1641〜1651年
1641
体制定着
オランダ商館を出島に移す — 鎖国体制の完成形

1641年、平戸にあったオランダ商館が長崎の出島に移されます。これにより外国との貿易・外交は長崎の出島を唯一の窓口とする体制が整い、幕府が貿易を独占管理する鎖国体制が名実ともに完成しました。以後200年以上にわたり、この体制が維持されます。

1651
変乱
慶安の変(由比正雪の乱) — 幕府初の大規模クーデター未遂

3代将軍家光の死去直後、軍学者・由比正雪が浪人を率いて幕府転覆を企てた事件です(慶安の変)。計画は事前に発覚して失敗しましたが、この事件を機に幕府は末期養子の禁を緩和し、大名の取り潰しを減らして浪人の増加を抑える政策へと転換します。

慶安の変準備中 末期養子の禁廃止準備中
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