今回は、学問の神様として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)の生涯を誰でもわかるように、かつ詳しく紹介してみようと思います。
菅原道真を学問の神様として崇めるのなら、菅原道真がどんな人物だったのか、どんな生涯を送ったのか、知っておいて損はないと思います。
菅原道真の家柄
菅原道真は、845年に生まれます。父は菅原是(すがわらのこれよし)と言います。
菅原家は代々学者の家柄。
当時の学問といえば、「儒教」や「漢学」が主でした。菅原家の学者ぶりはとても有名だったようで、菅原家は学者として代々有力者の下で働いていました。身分も決して低くなく、いわゆる「貴族」と呼ばれる高い身分でした。
794年に桓武天皇が平安京に遷都し、平安時代が始まると日本は、遣唐使を頻繁に派遣して唐との交流を深めます。
そんな中、日本では空前の漢学ブームが到来します。
809年に即位した嵯峨天皇は、特に漢文や漢学に傾倒し、書道にも通じた人物であり、唐から最先端の仏教思想である「密教」を持ってきた空海や最澄を支援したのも嵯峨天皇です。
そんな時代の流れの中で、漢学に詳しい優秀な菅原家は引っ張りだこ。
このような家柄、時代背景の中、菅原道真は生まれました。まさにイケイケの時代に生まれたわけです!
青年期
菅原道真は代々から続く学者の家柄にふさわしく、秀才として成長します。
菅原道真は、862年、18歳で文章生(もんじょうしょう)という、漢学を学ぶ学生となり大学寮で学びます。
数いる文章生の中で、特に優れた2名は文章得業生(もんじょうとくごうしょう)と呼ばれ、学者としての官僚の道が開かれます。
頭の良かった菅原道真は、867年に文章得業生に選ばれ、その後も次々と出世。
874年に従五位下(じゅごいのげ)という貴族の身分になり、877年には文章博士という学者としても高い身分をゲットします。ちなみに文章博士は、漢学を活かして貴族や天皇らに様々な助言や補佐をする役職です。
父や祖父など先代の功績や菅原道真自身の才もあって、菅原道真は順調に出世を重ねました。
菅原家は代々、私的な塾を運営しており、880年に父がなくなると菅原道真が塾の運営を継ぎました。
こうして公私共に多忙な日々を送ることになります。
2人の権力者、藤原良房と藤原基経
さて、菅原道真が青年期でバリバリ頑張っている頃、朝廷の中枢において絶大な権力を誇っていたのが皇族以外で初めて摂政の地位を得た藤原良房と、関白相当の地位についた藤原基経でした。
菅原道真は、そんな権力者やその周囲で行われる権謀術数を見ながら朝廷生活を送ることになります。
阿衡(あこう)の紛議
平安京で順調に出世を重ねる菅原道真。886年になると讃岐国の受領に選ばれ、讃岐国へ赴くことになります。
ここで菅原道真は、讃岐国で重税や不正に苦しめられ疲弊する地方の人々に直に触れる機会を得ます。
菅原道真が讃岐に赴任中。朝廷では大きなイベントがいくつか起こりました。
宇多天皇の即位
887年、光孝天皇が崩御。次期天皇として宇多天皇が即位します。宇多天皇の即位は少々複雑です。当時、次期天皇候補として貞保(さだやす)親王という人物がいて、光孝天皇は貞保親王以外の息子の多くを臣籍降下(しんせきこうか。皇族を皇族以外の身分に落とすこと。)させてしまいます。
臣籍降下することで、ライバルを減らし貞保親王の皇位継承を円滑に行うためだと思われます。宇多天皇は、この時に臣籍降下させられた光孝天皇の息子の1人でした。臣籍降下した人物は源という姓を名乗ることが多くて、宇多天皇も源定省(さだみ)という名でした。
ところが、時の権力者、藤原基経は貞保親王が嫌いでした。というか貞保親王の母が嫌いでした。
おそらく、光孝天皇も藤原基経が貞保親王をよく思っていないのを知っていたのでしょう。光孝天皇は、臣籍降下までして貞保親王を後継者に定めたのに、藤原基経に気を使って最後まで後継者について断言することを避け、遺言も残しませんでした。
そして、それを察した藤原基経は光孝天皇が亡くなった後、こんなことを言います。
「亡くなった光孝天皇は、きっと臣籍降下させた源定省の即位を望んでるはずだ!!!」
いやいや、皇位継承の対象者から外すために臣籍降下したんですよね・・・?って言いたいですけど、みんなが公言できないのは関白の地位にあった藤原基経に圧倒的な権力があったから。
こんなグダグダな感じで、藤原基経主導で宇多天皇は即位しました。宇多天皇は、菅原道真の生涯の大きな影響を与えたキーパーソンとなります。
宇多天皇即位の翌年の888年、有名?な阿衡の紛議というトラブルが起こります。
藤原基経「ムカついたから仕事サボるわww」
光孝天皇の時代に関白として絶大な権力を誇った藤原基経は、宇多天皇の治世でも同様の地位を望み、宇多天皇に「引き続きよろしくな!」とお願いをします。
そして宇多天皇は部下の橘広相(たちばなのひろみ)という人物に仕事を依頼します。「藤原基経を関白っぽい役職にしといてくれよな」。
が、蓋を開けて見ると、藤原基経に与えられた役職は「阿衡」という権限を持たない名誉職。
これに藤原基経が激怒。仕事をボイコットしてみんなを困らせ、居た堪れなくなった宇多天皇は、橘広相の誤りを認めざるを得ず、橘広相を左遷。そして、藤原基経の影響力の強さ、天皇の無力さを痛感し、ナーバスになってしまう・・・これが阿衡の紛議と呼ばれる事件です。
詳しい事件の経緯は、以下の記事を読んでみてください!
その内容自体は正直くだらないと思うのですが、藤原基経の権力の強さとそれと反比例した天皇権力の弱体化を物語る象徴的な事件になっています。
菅原道真を支えた宇多天皇
讃岐にいた菅原道真は、朝廷で阿衡の役職について揉めていることを知り、「そんな不毛な議論意味ないから辞めろ!!」と進言するため平安京に戻ります。真面目で日本の政治に真摯に向き合っている菅原道真の様子が目に浮かびます。
阿衡は中国の役職を引用したものであり、漢学に詳しい菅原道真も阿衡についても精通しているわけです。
菅原道真「阿衡は確かに権限のない役職だけどさ、橘広相も良かれと思ったわけだし、改めて藤原基経にちゃんとした権限を与える形にすればよくない?」
的な感じで橘広相を弁護。
宇多天皇は、この時の菅原道真の冷静で公平な対応を高く評価したようで、少し経ってから菅原道真を重用するようになります。
阿衡の紛議事件を通じて、天皇権力の無力さを痛感した宇多天皇は、政治から一定の距離を置くようになります。そして、朝廷内では孝光天皇時代と変わらず、藤原基経が政治の実権を握ります。
一方で、宇多天皇は阿衡の紛議によって昔の桓武天皇や聖武天皇のような天皇主導の政治を志すようにもなります。が、その気持ちは心の奥に秘めたまま。藤原基経との良好な関係維持に努めチャンスをうかがいます。(宇多天皇はおそらく藤原基経のことを嫌っていたんじゃないかと思いますが、両者の対立が表面化することはありませんでした。)
しかし!すぐにチャンスがやってきます。891年、藤原基経が亡くなったのです。藤原基経には優秀な息子がいました。将来、菅原道真のライバルとなる藤原時平(ふじわらのときひら)です。
が、その藤原時平はまだ20才前後。老練だった藤原基経の後を継ぐのはまだ早い。宇多天皇はこの絶好のチャンスを見逃しません。
摂関藤原氏への対策
基経が亡くなると、胸の内に秘めていた天皇親政の野望を実現しようと遂に動き始めます。
藤原良房、基経親子は天皇の外祖父として強大な権力を握っていました。これを防ぐにはどうすれば良いか。答えは・・・
実際に宇多天皇は、皇太子に藤原基経に縁のある者を嫁がせませんでした。当然、若き藤原時平はこれを良く思いませんが、この時点では何もできません。
次に、良房・基経と続いた摂関藤原氏と縁遠い者を朝廷の中枢に置く人事を行います。
この時に宇多天皇に抜擢されたのが菅原道真でした。菅原道真の頭脳と受領として地方統治に携わった実績が評価された形です。
893年、菅原道真は参議(さんぎ)と呼ばれる朝廷の最高幹部のポジションに付き、いよいよ政治の中枢に携わることになります。
遣唐使の廃止
894年、朝廷は約50数年ぶりの遣唐使の派遣を決定します。最高責任者は菅原道真でした。唐について詳しい菅原道真はまさに適任と言ってよいでしょう。
ところが、遣唐使の派遣が決まってからわずか一ヶ月で遣唐使派遣の中止が決まります。派遣の中止を提案したのは、遣唐使の最高責任者だった菅原道真でした。
よく「894年に遣唐使が廃止された」って言われますが、894年に決定されたのは厳密には派遣の「一時中止」です。将来的に派遣を再開する可能性も残されていました。
ところが、その後、遣唐使の最高責任者だった菅原道真が政争に負け左遷。さらに907年に唐が滅んだことで遣唐使派遣の話は自然消滅してしまいます。
菅原道真が遣唐使の派遣を中止した理由は今でもはっきりとわかっていませんが、十分に唐の文化を得た日本にとって、遣唐使の魅力が昔より薄れていたことは間違いありません。菅原道真の意図は別として、結果的に唐との国交を閉じた歴史的瞬間の主役になってしまいました。
遣唐使については以下の記事でも紹介しています。
菅原道真VS藤原時平
ここから先の主役は3人います。宇多天皇・菅原道真・藤原時平の3人です
893年に菅原道真が参議になった当時、
- 宇多天皇:20歳前後
- 菅原道真:50歳前後
- 藤原時平:20歳前後
ぐらいの年齢でした。
宇多天皇の藤原時平封じも890年代後半になると少しずつほころびがでてきました。
宇多天皇の人事で選ばれた高官たちが次々と亡くなったり、職を辞したりしてしまったのです。897年6月になると遂に左大臣・右大臣が不在に。
右大臣の次に高い官位だった大納言が実質的な最高官位となり、しかも!この時の大納言が藤原時平でした。時平にしてみれば、これまでの鬱憤を晴らす大チャンスです。
話はそれだけに止まらず同じ頃(890年代後半)、宇多天皇は「もう俺、退位していいかな・・・」とネガティブモードに入りつつあり、信頼の厚かった菅原道真にも退位の相談をするほどでした。
宇多天皇の後ろ盾があってこそ今の地位に居られる菅原道真は宇多天皇の退位に反対しますが、宇多天皇の決意は固く、897年7月に退位してしまいます。これも6月に時平が最高官位になったのと無関係ではないでしょう。
その後、醍醐天皇が即位。宇多上皇は、菅原道真のバックアップに回り、時平との政争や実際の政治を全て菅原道真に丸投げしてしまいます。
多分、宇多天皇は精神的に撃たれ弱い人だったんだと思います。藤原基経にフルボッコにされたトラウマが藤原時平が権力を握り始めたことで蘇ったのかもしれません。
899年になると藤原時平は左大臣、菅原道真が右大臣となります。
藤原時平は由緒ある家柄なのでわかりますが、学者身分の菅原道真が右大臣になるのはちょっと異常です。当然、これには宇多上皇の見えない圧力がありました。
高い家柄の人たち「学者の身分のくせに右大臣とは偉そうな!」
菅原道真の右大臣就任には批判的な意見も多かったですが、宇多上皇の意思なのでなんともしようがありません。
ところが、899年10月、菅原道真をサポートしてくれるはずだった宇多上皇が突然出家。宇多上皇は、仏教にハマり次第に政治に関心を示さなくなり、この頃から菅原道真は朝廷内で孤立気味になります。
これらを追い風と見た藤原時平は、899年を境に露骨な菅原道真外しの動きを始めます。長年耐え続けてきた時平の逆襲劇がいよいよ始まります。
菅原道真も事情は頭ではわかっていたと思いますが、宇多上皇が退いた以上何もすることができません。
菅原道真の左遷【昌泰の変】
901年、藤原時平は菅原道真外しの最後の一手を講じます。
藤原時平は、醍醐天皇にこう讒言しました。
「なんか菅原道真が、醍醐天皇を譲位させて自分の娘の夫である斉世親王を即位させようと企んでいるらしいよ。斉世親王が天皇になった後、斉世親王と道真の娘との間に男子でも生まれれば、菅原道真は天皇の外祖父に!!いやー、道真もなかなかの悪ですなぁ。しかも裏では宇多上皇も動いているとか。
このままだと醍醐天皇は廃帝されちゃうかもしれないね。事が起こる前に菅原道真を潰さないと醍醐天皇の身も危ないよ?早く対処しないと大変なことになるよ!!!!」
こうして不安を煽られた醍醐天皇は、真偽を確認しないまま菅原道真の太宰府への左遷を決定。こうして、あっけなく菅原道真は失脚してしまうのです。
この讒言が真実かどうかはわかりません。菅原道真の娘と宇多天皇の息子である斉世親王に婚姻関係があったことは事実ですが、おそらく道真に醍醐天皇廃帝の意図まではなかった・・・というのが定説です。
それに醍醐天皇が藤原時平の讒言を本当に信じたかもわかりません。醍醐天皇は、菅原道真を通じて色々と口出してくる宇多上皇を嫌っていた可能性もあるからです。そのため、藤原時平の讒言が菅原道眞の左遷理由ではなく、最初から時平と醍醐天皇は裏で組んでいて時平の密告が嘘だと知りながら意図的に菅原道真を左遷させたという説もあります。(私はこっちの説の方が違和感がないと感じています。)
この噂を知った宇多上皇は、醍醐天皇に直接話を聞こうと伺いますが、藤原時平の計らいによりその門は閉ざされ、宇多上皇は醍醐天皇と会う事ができません。宇多上皇の政治介入は完全に阻止されました。
宇多上皇の後ろ盾を失った菅原道真はこうしてあっけなく、太宰府へ飛ばされてしまうのです。
ちなみに、左遷が決まった時に菅原道真が宇多上皇に送った歌がこれ。
訳すと「太宰府に流れる私は水屑となるとしても、どうかしがらみとなってこの流れをせきとめてください」と宇多上皇に左遷の撤廃を訴える悲痛な内容になっています。宇多上皇は菅原道真の梯子を外した張本人です。おそらく諦め半分でお願いしたのでしょう。
しかしこの時、宇多上皇に政治に対する意欲は既に失われており、醍醐天皇に面会拒否されたことで宇多上皇は菅原道真を見捨ててしまいます。
この一連の事件を昌泰(しょうたい)の変と呼びます。
菅原道真と太宰府
菅原道真は、太宰府において幽閉生活を送ることになります。この幽閉生活は菅原道真にとってかなり辛かったようで、自らの境遇を嘆いた歌も残しています。
そして、あれほど頼りにされていた宇多上皇からもなんの頼りもありません。むしろ、宇多上皇は藤原時平との良好な関係を保つようになり、菅原道真のことは忘れ去れてゆきます。なんかもう菅原道真が不憫すぎて泣けてくる・・・。
903年、菅原道真は太宰府にて亡くなります。最後の最後まで平安京へ戻ることを望んでの無念の死でした。
平安京に帰りたい心境とは裏腹に、太宰府の人々は菅原道真のことを好いていました。京の風習や文化を太宰府に持ち込んでくれたからです。菅原道真が好んだ梅の花が今も太宰府天満宮に溢れているのは、道真が太宰府の人々に愛されていた確固たる証拠でしょう。
日本三大怨霊の一人に選ばれる
菅原道真が左遷先の太宰府で無念の死を遂げた後、菅原道真を悲痛な目に合わせた人たちに次々と不幸な出来事が起こります。
当時の人々は、これらの出来事は全て菅原道真の祟りだと考え、菅原道真の怒りを鎮めようと神社を建て、そこで菅原道真の怨霊を鎮めることにしました。この時建てられた神社が今も京都にある北野天満宮(きたのてんまんぐう)です。
そして、この落雷事件をきっかけに、菅原道真を天神と崇める天神様信仰が起こります。道真を「天神様」と呼ぶのはこのためです。
【菅原道真の怨霊が雷を清涼殿に落としている様子】
菅原道真の怨霊信仰があったということは、当時の人々の多くは「菅原道真は無実だったのに左遷させられたから怨霊になった」と考えていたということになります。そうすると、昌泰の変は限りなく胡散臭い事件だったと言えそうです。
天神様から学問の神様へ
怨霊や天神として恐れられた菅原道真ですが、平安時代が終わると人々の怨霊信仰ブームが冷めてゆきます。
さらに後世の人々に「菅原道真はとても頭の良い、可哀想な人!」というイメージが定着すると、怨霊という怖い部分のイメージが消えて次第に菅原道真は学問の神様として崇められるようになり現代に至っています。(日本人の宗教や神様に対する柔軟な思考をそこに見ることができます。)
まとめ
以上、菅原道真の生涯をまとめてみました。どうでしたか?私は、書いていてなんか悲しくなりました・・・。
政治的には菅原道真って特に何も失態を犯してないんですよね・・・。むしろ、当時も後世からも政治家としての評判はとても高いです。
菅原道真の最大の誤算は、宇多天皇の定見のなさにあったのだろうと思います。
菅原道真の左遷の話も、一見すると「藤原時平は酷い!」と思うかもしれませんが、実はそうではないと思っています。
そもそも、時平と道真が対立することはずーっと前から明らかだったことであり、この政争自体はある意味必然の出来事だったと言えます。だからこそ、宇多天皇は菅原道真を支え続けてきたんです。
それなのに、いざ時平と菅原道真が対立しそうになる頃には宇多天皇は出家し退位。しかも仏教にハマり政治に関心もなくなってしまいます。
こうして着ぐるみをいきなり剥がされたに等しい菅原道真は藤原時平にフルボッコにされ政争に負けてしまいます。つまり、一番悪いのは宇多天皇(上皇)だと思うわけです。
一方の宇多天皇も、藤原氏にコンプレックスを持ち、さらには臣籍降下した身でありながら天皇即位したことに劣等感や周囲からのプレッシャーみたいなものを感じていたかもしれません。そんな宇多天皇の自己肯定感の低さがその定見のなさと関係しているのだとすれば、「全部宇多天皇が悪い!」とも言えなくなってきます。政治の世界は本当に難しいです。
最後に菅原道真についてまとめておきます。
コメント