汪兆銘工作を簡単にわかりやすく解説するよ!

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もぐたろう
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今回は、日中戦争を終わらせるために行われた和平工作の1つ「汪兆銘おうちょうめい工作」についてわかりやすく丁寧に紹介していくよ!

この記事を読んでわかること
  • 汪兆銘工作ってなに?
  • そもそも汪兆銘って何者?
  • 汪兆銘工作ってなぜ行われたの?
  • 汪兆銘工作の経過は?
  • 汪兆銘工作は日中戦争にどのような影響を与えたの?
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汪兆銘工作とは

汪兆銘工作とは、中国政府(国民政府)のナンバー2だった汪兆銘おうちょうめいという人物を通じて和平工作を行い、日中戦争を終わらせようとした出来事のことを言います。

先に結論を言っておくと、汪兆銘工作は失敗しました。

まず最初に、サラっとだけ日中戦争のおさらいをしておきます。

日中戦争が起きたのは1937年。きっかけは1937年7月に起きた盧溝橋事件でした。

盧溝橋事件が起きた当初、日本は「盧溝橋事件なんか小競り合いだし、中国を力で脅せばすぐに降参するっしょww」と早期解決を予想していました。

・・・が、中国の抵抗が想像以上に強く、中国を脅しても屈する様子がありません。

それどころか、日本が力で脅せば脅すほど、中国もそれに抵抗するので、次第に戦線が拡大してしまいます。

中国では1937年9月に、対立していた共産党と国民政府が、日本と戦うために共闘体制を組んで、徹底抗戦の構えを見せました。(第二次国共合作

戦線が拡大した結果、1937年8月には戦闘が上海にまで拡大。上海での戦いは大規模なものとなり、日本と中国の全面戦争へと突入していきます。(第二次上海事変

全面戦争になると、戦闘を継続しつつも、日本は裏で和平工作を行うようになります。

もぐたろう
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戦争は国に大きな負担を強いるものだから、できれば平和的な方法で争いを解決したかったんだね。

ただ、日本には「華北地方の支配権を中国から奪いたい!」という華北分離工作の野望があったから、日本は自らの野望を実現した上での平和的解決を目指したんだ。

最初に行われた和平工作は、オスカー・トラウトマンという中国駐在のドイツ大使が間に入って行われました。(トラウトマン和平工作

和平に向けた動きは1937年11月から始まりましたが、1938年1月、日本と中国の意見の食い違いにより和平工作は失敗。

トラウトマン和平工作が失敗すると、当時首相だった近衛文麿このえふみまろは中国と徹底的に戦う声明を発表します(第一次近衛声明)。

近衛文麿

トラウトマン和平工作の失敗により工作和平工作は不可能と思われました・・・が、実はトラウトマン和平工作とは全く違った方法の新しい和平工作案が浮上します。

その新しい和平工作案こそが、今回紹介する汪兆銘工作というわけです。

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国民政府のNO2.汪兆銘

政府内では、和平に向けてさまざまな意見が錯綜さくそうしましたが、結果的に次のような結論に至ります。

うーん、第一次近衛声明で『中国(国民政府)ぶっ潰す!』て宣言しちゃったから、国民政府と歩み寄るのは簡単じゃないよなぁ・・・。

かと言って、近衛声明を撤回するのも陸海軍への根回しが必要で簡単なことじゃない。

どうすればいいのだろうか・・・

そこで日本政府はひらめきます。

そうだ!

中国に国民政府に代わる新しい政府を立ち上げさせて、その新政府と和平を結べば、近衛声明を撤回することなく平和的に戦争を終わらせられるのでは!?

一件すると突拍子もない意見に思えますが、実は当時、国民政府は日本への対応をめぐって意見対立が起きていました。

日本政府は、この意見対立を利用して国民政府を分裂させてやろう・・・!と企んだわけです。

この意見対立は簡単にいうと、「日本と徹底的に戦うべき!」という意見と、「いやいや日本と戦争しても犠牲者が増えるだけだからなんとしても和平に持ち込むべき!」という意見の対立でした。

国民政府トップ蒋介石しょうかいせきは、前者の徹底抗戦派。

蒋介石

一方、国民政府ナンバー2だった汪兆銘は、後者の和平派でした。

汪兆銘
もぐたろう
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要するに、国民政府のトップとナンバー2の意見が割れて対立が起きていたってことです。

汪兆銘は、蒋介石との意見の食い違いから、次第に政府内で独自の行動をるようになります。

1938年7月には同じ和平派の高宗武こうそうぶという人物が来日。和平派と日本の間で本格的な和平交渉が始まりました。

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汪兆銘工作の経過

主に1938年の夏にかけて和平交渉が進められ、秋に入ると交渉内容が少しずつ具体化していきます。

念のため補足しておくと、ここでいう『和平交渉』っていうのは、

日本から見れば「どの程度中国の支配権を得て停戦に持ち込むか」中国から見れば「日本の支配をどれだけ防いで停戦に持ち込むか」の妥協点をさぐる駆け引きのことを言います。

1938年10月になると、汪兆銘が日本との和平の可能性について公の場で言及。さらに11月には、日本政府と汪兆銘の間で、具体的な交渉案が決まります。

内容はザックリと次のようなものでした。

日本政府・汪兆銘の和平交渉の案
  • 中国は満州国の存在を公式に認めること
  • ソ連に対抗するため中国の一部地域に日本軍が駐屯することを認めること
  • 日本は中国に対して、戦争の損害賠償を求めない。(ただし、在中日本人への被害を除く)
  • 対ソ連のため以外の日本兵は、中国の治安が落ち着いたら2年以内に中国から撤兵する。 など

さらに、和平交渉を成立させるため、次のようなシナリオを用意しました。

和平に向けた想定シナリオ
  • STEP1
    汪兆銘が重慶じゅうけいを脱出

    重慶は、当時の中国の首都、かつ、国民政府の本拠地であり、蒋介石の監視下にありました。汪兆銘が日本と和平交渉を結ぶには、汪兆銘が自由に動けるよう、まずは重慶を抜け出す必要があったのです。

  • STEP2
    日本が和平の条件を公表
  • STEP3
    汪兆銘が新政府を樹立し、日本の和平条件に応じて和平を結ぶ。

    汪兆銘が和平派のリーダーとして、国民政府に代わる新政府を樹立。そして政府の代表として日本と和平を結ぶ・・・ってことです。

  • STEP4
    日中戦争が終わって平和が戻る!
対立深まる蒋介石と汪兆銘

1938年11月13日、国民政府は、長沙という都市を放火し、多くの中国国民が命を落としました。

なんで、自分の国の都市を放火するわけ?

もぐたろう
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もし日本に長沙が占領された時に、逆に日本に利用されないよう、いっそのこと焦土にしてしまおーぜ!っていう発想だね。

この自国民を命を軽んじる蒋介石の戦い方に、汪兆銘は我慢しきれず、日本への和平に乗り出す決断をした・・・と言われています。

汪兆銘と日本政府は、このシナリオを成功させるため、各々行動を開始します。

まず日本では、1938年11月に近衛首相が東亜新秩序声明とうあしんちつじょせいめいなる声明を発表しました。(第二次近衛声明)

東亜新秩序声明っていうのは、「日本・満州国・中国が協力して、東アジアに新しい平和秩序(東亜新秩序)を作り上げようぜ!」という声明のことを言います。

この声明の中で、近衛首相は「東亜新秩序を作るためなら国民政府と歩み寄ることを否定しない」と和平の可能性に言及しました。

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第一次近衛声明で「中国絶対ぶっ潰す!」って宣言しちゃってたから、今後の汪兆銘工作をスムーズに進めるため、日本にも和平交渉の意思があることを対外的にアピールする狙いがあったんだ。

一方の汪兆銘は、12月18日に重慶脱出に成功。総勢44名が重慶から脱出し、20日にはハノイ(ベトナムの首都)に到着します。これでまずは、想定シナリオSTEP①クリアです!

さらに12月22日、日本では近衛首相が中国との和平条件について声明を発表します。(第3次近衛声明

この声明で近衛は、これまでまとめた和平条件を善隣友好ぜんりんゆうこう共同防共きょうどうぼうきょう経済提携けいざいれんけいの3つのスローガンにまとめて宣言しました。これで想定シナリオのSTEP②もクリア!

あとは、汪兆銘が新政権を樹立して、日本の和平条件に応じれば、ミッションクリアです。

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汪兆銘の誤算・・・

STEP①・②までは順調に進みましたが、STEP③(新政府の樹立)で汪兆銘は大きくつまずくことになります。

1つ目の大きな障壁は、第三次近衛声明の内容です。というのも、声明の内容には11月に決めたはずの『日本軍は2年以内に中国から撤兵する』という超重要な条件が外されていたからです。

汪兆銘サイドは、「実は日本は撤兵するつもりはなくて、俺たちはハメられているのでは?」と疑心暗鬼となりますが、重慶を脱して引くに引けない汪兆銘は、やむなく日本の条件を受け入れました。

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汪兆銘サイド(和平派)の中には、日本への不信感から汪兆銘工作に反対する声も挙がるようになりました。

もう1つの障壁は、想定以上に汪兆銘への賛同者が少なかったことです。

もともと汪兆銘は、国民政府から和平派を離反させることで蒋介石に対抗しうる新政府を樹立しようと考えていました。

ところが、いざ汪兆銘が立ち上がると、汪兆銘に従う者はほとんどおらず、新政府樹立が物理的に困難状況におちいってしまいました。

汪兆銘の行為は「国のために戦っている国民政府を邪魔する裏切り行為」と見なされ、日中戦争によって高まる反日感情に火に油を注ぐ形になってしまったのです。

その結果、汪兆銘は国民政府から永久追放され、中国国民の間でも汪兆銘は裏切り者というレッテルを貼られて、強い批判を浴びることなりました。

日本への不信感、そして想定以上の汪兆銘への批判から、汪兆銘は新政権樹立を断念。こうして汪兆銘工作は、一度白紙に戻ることになりました。

1939年1月、和平に失敗して終戦への道筋を失ってしまった近衛首相は、逃げるように内閣を総辞職。汪兆銘の動きは日本の政治にも大きな影響を与えました。

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汪兆銘工作、失敗に終わる

1939年3月、離反した汪兆銘を危険視した蒋介石は、ハノイに刺客を放ち、汪兆銘の暗殺を企てます。

この暗殺計画は失敗に終わりましたが、命の危険を感じた汪兆銘は、新政府の樹立を再び決意。5月になると、新政府を樹立する意向を日本に伝えました。

白紙になった新政権樹立の話が、再び動き始めたわけです。

その後、新政府樹立に向けて汪兆銘と日本政府との交渉が行われ、1939年11月、日本は樹立する新政府に対して次のような要求を行います。

日本政府が汪兆銘に要求したこと
  • 中国内に日本軍艦を常時置くことを認めること
  • 日本が軍隊を駐屯させるので、中国の軍隊の配置は最小限にすること
  • 新政府には日本人の顧問を置いて意見を聞くこと
  • 関税自主権は新政府になく、日本が定めること など

な、なんか中国に対する条件めっちゃ厳しくなってない!?

・・・そうなんです。軍事権は日本が持ち、しかも政治的な判断も日本人顧問の意見を聞かないと決められないってことになると、これから作る新政府は100%日本の言いなり国家(傀儡国家)ってことになります。

なんだこの無茶苦茶な条件は!!受け入れられるわけねーだろ!!』汪兆銘サイドは、日本の提案に激しく動揺しました。

しかし、汪兆銘はすでに引くに引けない立場にあります。蒋介石から命を狙われる身になった以上、国民政府にはもう戻れないし、この和平交渉を拒否すれば自らの居場所を失うことになります。

結局、汪兆銘は日本の要求を受け入れざるを得ず、1940年3月、日本の占領下にあった南京なんきんに日本の言いなりの新政府を樹立しました。

さて、こうして想定シナリオSTEP③も完了し、一見するとあとは停戦するだけ・・・という風に見えますが、実際にはそうはなりませんでした。

なぜかというと、STEP③が不完全に終わってしまったからです。

何が不完全かというと、樹立した新政府の影響力の強さです。

当初の案では、汪兆銘の呼びかけに応じて和平派が一気に国民政府を離脱することで、国民政府を弱体化させ、かつ、強い影響力を持つ新政府を樹立する予定でした。

そして、弱体化した国民政府に代わって新政府が中国の国政を主導し、その上で日本と和平を結んでしまえば、抗戦派の蒋介石は手も足も出ない・・・という計画だったのです。

ところが、創設された南京の新政府には、そんな影響力はありません。

汪兆銘への賛同者が少なかったので国民政府が弱体化することはなかったし、国民の支持を得られていない日本の言いなり政府が登場したところで、蒋介石の抗戦の意思が変わるはずもありません。

・・・つまり、汪兆銘工作は新政府の樹立によって一応は完成したものの、肝心の日中戦争の停戦というところ(STEP④)にまでは至らなかったのです。

もぐたろう
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何が言いたいかというと、汪兆銘工作は失敗に終わったってことです。

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汪兆銘のその後

影響力を失った汪兆銘が新政権を樹立したところで、日中戦争が終わるわけもなく、日中戦争は泥沼の長期戦から抜け出すことができません。

その後も戦争は続き、太平洋戦争で日本が敗戦した翌年の1946年、南京の新政府は解散することになります。

汪兆銘本人は1944年に病死していますが、汪兆銘は今でも中国・台湾では「日本に寝返った最悪の裏切り者」とのレッテルを貼られていて、汪兆銘の関係者も過酷な処分を受けることになりました。

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1940年3月30日、汪兆銘は国父である孫文の遺影の前で新政府樹立を宣言し、日本の新聞各社は汪兆銘が泣いている姿を「感激の涙」と報じました。

汪兆銘の涙には、きっと複雑な感情が込められていたに違いありません・・・。

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