今回は、1931年に起きた2つのクーデター未遂事件、三月事件と十月事件についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!
三月事件・十月事件とは?
三月事件・十月事件とは、1931年に陸軍が起こしたクーデター未遂事件です。
政府の政策に不満を持つ陸軍の青年将校たちが、要人を殺害することで政府転覆を狙いました。
クーデター計画は2回企てられ、1931年3月に起きた事件を三月事件、10月に起きた事件を十月事件と呼びます。
2回のクーデター計画はいずれも未遂に終わったものの、この失敗を糧に、翌年(1932年)には血盟団事件や五・十五事件といったテロ事件が続けて起こったという点で、軍国主義へ傾く日本の未来を暗示した重要な事件となりました。
三月事件と十月事件は、それぞれが独立した事件ではなく、2つの事件は密接な関わりを持っています。
というわけで、まずは三月事件の解説から始めていきます!
三月時件・十月事件の時代背景
三月事件も十月事件も、そもそもは陸軍の青年将校たちが政府へ不満を持っていたことが原因です。
では、陸軍の青年将校たちは政府の何に不満を持ったのか。
理由はいろいろありますが、一番大きかったのが政府の外交方針でした。
事件当時(1931年)の日本の首相は、4月までは立憲改進党の浜口雄幸、4月以降は若槻禮次郎でした。
若槻内閣は、ワシントン会議で定められた平和秩序(ワシントン体制)に沿って、平和的な外交(幣原外交)を進めていました。
当時、日本で関心の高かった外交問題は、「満州をいかに守り抜くか?」という問題です。
満州は、日本が鉄道などの様々な権益を持っていた地域。
満州は、ソ連との戦争に備えた最重要拠点であると同時に、国土の狭い日本にとっては国力増強ためにもとても大切な場所でした。
・・・が、もともと満州は中華民国の支配地域です。1920年代に入ると、中華民国では満州権益の返還を求める声が高まり、満州の情勢が不安定となります。
※当時の満州の情勢のことを「満蒙の危機」と呼んでいます。詳しくはこちらの記事を合わせてご覧くださいね。
日本政府は、この問題を外交で解決しようとしますが、陸軍はこの方針に強い不満を持っていたのです。
陸軍は、「話し合いでは満州の権益を守りきることはできず、軍事によって満州の権益を守り抜くべきだ!」と考えていたからです。
では、陸軍はどうやって政府の政策を変えさせようとしたのか?
その方法こそが、クーデターです。
三月時件
1930年9月、陸軍の橋本欣五郎という人物が桜会と呼ばれる組織を結成します。
桜会の目的は、クーデターで現政権を転覆させて軍事政権を築き上げることです
1931年2月、桜会は右翼活動家の大川周明などの協力を得て、次のようなクーデター作戦を立案します。
- STEP13月20日頃、大川周明らが政党政治に反対する1万人規模のデモを実行して議会を包囲
- STEP2混乱に乗じて立憲政友会や立憲改進党の本部、首相官邸を爆撃
- STEP3議会保護を名目に軍隊を派遣し、議事堂を包囲。戒厳令を敷く
- STEP4軍隊を議会へ突入させ、浜口内閣の解散へ追い込む
- STEP5現陸軍大臣である宇垣一成を、次期首相とした新政権を発足させる
- STEP6クーデター大成功!!
しかし、このクーデター計画はあまりにも杜撰なものでした。
まずは、デモに1万人を集結させることが不可能であることがわかり、さらに、陸軍の中からも協力を拒否する声が増えていきます。
陸軍の中には、いくつのか派閥があったから一致団結するのは難しかったんだ。
宇垣一成陸軍大臣を中心とした宇垣派閥があったんだけど、宇垣派閥のことをよく思わない勢力は、そもそもこのクーデターには反対だったんだ。
さらに3月20日、作戦のキーマンであった宇垣一成も、突然心変わりし、クーデターへの参加を否定します。
こうして、計画は雲散霧消し、グダグダのままクーデターは失敗に終わりました。このクーデター未遂事件が三月事件と呼ばれる事件です。
宇垣一成は、橋本たちに勝手に首相に担がれただけで、本人は事件のことを知らなかったという説もあるよ。
もしそうなら、心変わりというよりも、クーデター計画に自分の名があることを知った宇垣がこれを拒絶した・・・ということになります。
いずれの説が正しいにせよ、三月事件の計画は杜撰だったことは間違いありません。
未遂とはいえ、三月事件は政府を転覆させようとしたれっきとしたクーデターです。普通なら、首謀者達に何らかの処分が下るところですが、三月事件に関しては一切お咎めなし。
それどころか、政府は事件を公にせずに隠蔽しました。陸軍の上層部にも関係者がいたので、事件が明るみになれば、「部下が勝手にやった」とトカゲの尻尾切りもできず、大問題になるかもしれないからです。
ただ、お咎めなし&事件隠蔽というガバガバな政府の対応は、三月事件の首謀者たちにリベンジ戦を行うチャンスを与えてしまうことになります。
そして、三月事件のリベンジ戦として企てられたのが十月事件でした。
十月事件
事件が起こる1ヶ月前の1931年9月、満州で満州事変が起こります。
政府の外交政策に不満を持っていた関東軍が、満州全土を軍事行動で制圧しようと動いたのです。
もちろん、当時首相だった若槻禮次郎は、平和的な外交を望んでおり、軍事による満州制圧には否定的な態度を示します。
関東軍め、勝手なことをしてくれる・・・。
起こってしまったことは仕方ないが、これ以上の戦線拡大は認めぬぞ!
若槻内閣は、関東軍が満州全土を制圧は認めず、事件が大きくなる前に中華民国との外交によって事態の解決を目指しました。
・・・が、日本国内、特に陸軍の中にはこの政府の方針に不満を持つ者が多くいました。
国土の狭い日本がこの先も生き残るには、満州に盤石な基盤を築いて、イギリス・ロシアさらにはアメリカと戦争をするしかないんだ!
政府がこれに反対するというのなら、こっちにだって考えがある・・・!
この不満分子によって計画されたクーデターこそが、十月事件です。
首謀者の顔ぶれは三月時件と似ています。桜会の橋本欣五郎に大川周明、そして右翼団体や海軍の一部もこれに協力しました。
三月事件と違ったのは、情報漏洩を恐れ、陸軍の上層部には計画が秘密にされていたという点です。
※三月事件での宇垣一成の対応のせいで、陸軍上層部への信頼が失われていたのです。
クーデタ決行予定日は10月24日。その計画内容は次のようなものでした。
- STEP1決行前夜の10月23日、関東軍が日本からの独立する旨を政府に連絡。これに呼応する形で、国内のクーデターを実行する
- STEP2桜会が率いる軍隊で首相官邸・警視庁・陸軍省参謀本部を襲撃。首相ほか邪魔な要人たちを惨殺・捕縛する。
- STEP3大臣たちを消した後、東郷平八郎を動かして、昭和天皇へ新政権樹立を奏上
※奏上:天皇へ意見などを言うこと。
- STEP4これを認めた昭和天皇が、大命降下する。
※大命降下:天皇が内閣の結成を命じること
- STEP5新政府樹立。クーデター成功!
三月事件では、「デモの混乱に乗じて・・・」といったクーデターをごまかそうとする動きがありましたが、十月事件にはそれがありません。
「いきなり軍を送り込んで邪魔者を全て消す」という真っ向勝負のクーデター計画です。
しかし、10月16日、クーデターに反対していた桜会のメンバーが、陸軍の上層部にこれを密告します。
17日には、橋本たち首謀者13人が捕らえられ、クーデターは未遂に終わりました。
そして、首謀者たちの処分は議論の末、軽い処分のみとなりました・・・。
三月事件・十月事件の影響
政権交代(若槻内閣の解散)
十月事件のクーデター未遂事件をきっかけに、若槻内閣の内部からも政治改革を目指す動きが活発になりました。
内務大臣だった安達謙蔵という人物が、「もはや政争をしている場合ではないから、国難を乗り越えるため立憲政友会と協力して連立政権を築くべき」的なことを主張し、若槻禮次郎に反旗を翻しました。
この出来事がきっかけに、政権運営に自信を失った若槻禮次郎は、1931年12月、内閣を解散。
新たに立憲政友会の犬養毅が首相となりました。
※犬養内閣は立憲政友会で構成された内閣であり、安達の目指した連立政権の目論見は失敗に終わりました。
陸軍の派閥に変化が・・・
三月事件・十月事件の渦中にいた陸軍内でも大きな動きがあります。
まず1つに、陸軍に一大派閥を築いていた宇垣一成が三月事件の対応によって人望を失ったことで、宇垣派閥が崩壊してしまいました。
そして、宇垣の没落に合わせて頭角を現したのが、これまで宇垣派閥と争っていた反対勢力です。
反宇垣勢力の筆頭だった荒木貞夫という人物が、1931年12月の若槻内閣解散の後、陸軍大臣に抜擢。
荒木貞夫は新たに皇道派という派閥を結成。皇道派は、桜会や宇垣派閥に代わる急進的な勢力となり、北一輝の思想を引き継ぎました。
荒木貞夫は、若手の軍人たちからとても親しまれていて、もし十月事件で新政権が樹立していたら、首相に選ばれる予定だった人物なんだ。(当然、本人には知らされていないし、真相を知った際はこれを否定しますが・・・)
皇道派が結成された後、この派閥に反対する勢力として統制派という派閥が生まれて、陸軍内で熾烈な勢力争いを繰り広げることになります。
血盟団の暗躍
三月事件と十月事件、この2つのクーデター計画は、もともと民間の右翼団体などの協力も得ながら計画されたものです。
陸軍主導の2つの計画がどちらも失敗に終わると、次は右翼団体の動きが活発になりました。「陸軍主導のクーデターが失敗したなら、右翼団体が行動を起こせば良くね?」というわけです。
事件の翌年の1932年2月〜3月にかけて、次は右翼的思想を持つ血盟団という団体組織が行動をおこします。
血盟団はテロ計画を企て、井上準之助・團琢磨といった要人を実際に殺害しました。(血盟団事件)
※血盟団は、三月事件・十月事件にも参加しており、これが三度目の正直となりました。
さらに1932年5月15日、次は海軍の青年将校が犬養毅首相を暗殺する事件も起きました。(五・一五事件)
三月事件・十月事件以降、「軍部に逆らうやつは消せばOK!」という雰囲気が漂いはじめました。五・一五事件による犬養毅の死によって、憲政の常道と呼ばれていた政党政治は終わりを告げると、日本の政治に軍部の意見が色濃く反映されるようになります。
すると、橋本欣五郎たちのような「日本が生き残るには侵略戦争しかない!」という思想が政治にも反映されるようになって、日本は軍国主義へと突き進むことになります。
三月事件・十月事件は、日本が軍国主義へ足を踏み込む最初の一歩となったのです。
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