今回は、1925年に制定され普通選挙法について、わかりやすく丁寧に解説するよ。
普通選挙法とは
「25歳以上の男子で3円以上の納税をしている者」という選挙権の条件を、納税条件を撤廃して「25歳以上の男子」まで大幅緩和した法律のことを普通選挙法と言います。
普通選挙法の制定で、有権者が全国民の5%から20%へ、一気に4倍も増えることになりました。
有権者が大幅に増えたということは、今まで以上に民意が政治に反映されやすくなるということ。
つまり、普通選挙法は、日本の政治に大きな変化をもたらす可能性を秘めた、とても重要な法律だった・・・ということです。(だから、教科書にも載っているのです。)
それでは、普通選挙法について詳しく見ていくことにするよ。
選挙の歴史
本題に入る前に、普通選挙法が制定されるまでの選挙の歴史を簡単に紹介しておきます。
日本の選挙制度が最初にできたのは1889年。明治時代までさかのぼります。
1889年といえば、大日本帝国憲法が公布された年。選挙制度は、憲法と同時に公布された衆議院議員選挙法という法律によって定められることになりました。
当初の選挙権の条件は、「25歳以上の男子で15円以上の納税をしている者」であり、人口比でわずか1%としか選挙権を持つことができないものでした。
※納税額15円というのは、当時は大金持ちしか不可能な金額だったのです!
金持ちしか選挙に行けないって何だよ!あまりにも不公平すぎる・・・!
こうした国民の声を受け、1900年には、納税額の条件が15円→10円に緩和(人口比1%→2.2%)。
1919年には、条件がさらに緩和され、10円→3円へ(人口比2.2%→5%)。
そして、1925年の普通選挙法の成立によって3円→0円となり、ようやく「金持ちじゃないと選挙に行けない!」という仕組みが解消されることになりました。
普通選挙を求める運動【大正デモクラシー】
なるほど。選挙の歴史はわかったよ。
でも、何か理由があったから、納税条件を付けたんだよね?
そんな簡単に納税条件を緩和していって大丈夫だったの?
そもそも、選挙権に納税条件を付けて金持ちしか投票できないようにしたのは、「貧しい人々は過激な思想・行動に走りやすく、納税条件を無くすと、その過激な思想・行動が政治に反映されてしまうかもしれない・・・」と政府が考えたからです。
政府としては、安易に緩和はしたくなかったのです。
それにも関わらず、納税条件が緩和されていったのは、普通選挙の実現を求める民衆たちの激しい運動があったためでした。
大正デモクラシー
普通選挙を求める運動の中で最も激しい運動だったのが、国民が自由や政治参加を求める大正デモクラシーと呼ばれる運動でした。大正デモクラシーは、1910年代〜1920年代にかけて行われました。
1913年には、議会を軽視する政治を行なった第三次桂内閣に対して、国民たちが激しい反対運動で猛抗議(第一次護憲運動)。
猛烈な批判を浴びた第三次桂内閣は、1913年、解散に追い込まれました(大正政変)。国民たちは、自分たちの声で政治を動かすことに成功したのです。
さらに、1918年には米騒動で全国的な暴動が起こり、次は寺内正毅内閣が辞職に追い込まれます。政治を二度も動かした国民の声を政府がいよいよ無視できなくなると、同じ1918年、国民が強く望んでいた政党内閣が、原敬を首相として誕生しました。
国民から絶大な人気を得た原敬は、1919年、先ほど紹介したように選挙の納税条件を10円→3円へ緩和。
しかし、原内閣が、金持ち優遇の政策を続けて国民の期待を裏切ると、1921年、原敬は暗殺されてしまいます。
納税条件が3円になると、国民の多くが、納税条件の全撤廃を求めます。(民衆にとって、最終目標はあくまで納税条件の撤廃。条件緩和はその過程に過ぎません。)
この国民の声を利用して、一気に政治の主導権を握ろうとしたのが、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3政党でした。(この3政党のことを護憲三派と呼びます。)
1924年1月、議会や政党を軽視する清浦奎吾内閣が登場すると、護憲三派は協力関係を結び、選挙で圧勝した上で、原内閣以来の政党内閣の復活を目指しました。
護憲三派は、選挙権拡大を求める民衆たちと共に、清浦内閣を批判する運動(第二次護憲運動)を開始。この運動は国民から強い支持を受けて、護憲三派は選挙で圧勝します。
議会を完全に敵に回し、機能不全に陥った清浦内閣は総辞職に追い込まれ、次に内閣を任されたのが、護憲三派の1つ憲政会の党首である加藤高明でした。
1924年6月に加藤孝明内閣(別名:護憲三派内閣)が組閣されると、加藤はさっそく選挙権の拡大に向けて検討を開始。
この検討結果を受けて制定されたのが、今回紹介する普通選挙法です。
普通選挙法の内容
1925年5月5日、加藤内閣は選挙権を拡大するため、衆議院議員選挙法を全面的に改正。
※この時改正された衆議院議員選挙法を、世間では普通選挙法と呼びました。
この改正によって、選挙権の納税条件が撤廃され、選挙権の条件は「25歳以上の男子で納税額3円以上の者」からシンプルな「25歳以上の男子」へと大幅緩和されました。
有権者は約1241万人にまで増え、有権者も国民全体の5%から20%まで急増する結果となりました。
やったね!
これで国民の声が、これまで以上に届くようになるね!
・・・と、思うかもしれませんが、話はそんな単純ではありません。
繰り返しになりますが、政府は選挙権の緩和にはとても慎重でした。貧しい人々に選挙権を与えると、過激な思想が政府に入り込む危険があったからです。
当時、政府が最も恐れていたのが、社会主義思想と呼ばれる思想です。
そこで政府は、表向きは「25歳以上の男子」と選挙権の条件としつつも、社会主義思想を抑え込む対策を講じることにしたのです。(この点は次の項目で詳しく説明します)
社会主義思想が政府に入り込むかもしれない普通選挙法を、簡単に認めるわけがないだろう。
本来『普通選挙』というのは、身分・宗教・納税・性別・人種などの制限を設けない選挙制度のことです。
しかし、この時制定された普通選挙法では、女性に参政権は与えられず、これは厳密に言えば普通選挙ではありません。(手元の山川の教科書でも、普通選挙とは言わず、男性普通選挙と表現しています。)
大正デモクラシーでは、納税条件の緩和のみならず、女性への参政権を求める声もたくさんありました。1920年には平塚らいてう・市川房枝などの女性を中心に新婦人協会を結成し、女性の参政権を求めましたが、普通選挙法では実現しませんでした。
その後も女性参政権は実現することなく、女性に参政権が与えられるのは、戦後を待たなければなりません
※新婦人協会の結成時期を1919年とする考え方もありますが、ここでは教科書に合わせて1920年としています。
治安維持法
普通選挙法が制定された背後で、実はもう1つの重要な法律が制定されています。
その法律の名は、治安維持法と言います。
手元の教科書では、治安維持法のことを「国体(天皇制)の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織者と参加者を処罰すると定めた法律」と説明しています。
ん?つまり、どーゆーこと??
当時、『国体(天皇制)の変革や私有財産制度の否認』を目的として活動していたのは、社会主義思想の人々です。
教科書の表現は少し回りくどいですが、要するに治安維持法は、社会主義者たちが組織として結束するのを取り締まることを目的とした法律ということです。
普通選挙法が適用されると、貧しい労働者にも選挙権が与えられることになります。そして、貧しい労働者の中には社会主義思想を持つ者も多く、社会主義者の議員が生まれる可能性もありました。
そこで政府は、普通選挙法を制定する代わりに、社会主義者の組織的な活動を封じて選挙・政治活動を妨害するため、治安維持法を定めることにしたのです。
普通選挙法による初めての選挙が始まる!
1928年2月、普通選挙法が施行されてから初めての選挙が行われました。
当時は、普通選挙法の施行によって、多くの社会主義政党が登場。
労働農民党・社会民衆党・日本農民党など多くの無産政党が乱立していました。
※無産政党:社会主義思想の政党のこと。政府が社会主義者を嫌っていることを考慮して、あえて社会主義政党と呼ばず、無産政党と呼びました。
政府は、無産政党の選挙活動を厳しく監視し、隙あらば選挙干渉を行って社会主義者が議員になるのを防ごうとしました。
こうして、行われた選挙の結果、妨害を受けながらも無産政党から8名が議員議席を獲得。
当時、内閣総理大臣だった田中義一は、8名の無産政党議員が現れたことを重く受け止め、社会主義者への攻撃をさらに強めました。
選挙後すぐの3月15日、違法に活動する日本共産党の活動員ら数千名を、治安維持法の名の下に一斉検挙。(三・十五事件)
さらに、日本共産党と結びついていた労働農民党が解散に追い込まれる事態となりました。
普通選挙法の施行によって、選挙制度は確かに国民に開かれたものになりました。
しかし、選挙制度が国民に開かれた代わりに、政府はそれ以上に厳しい監視や制限、弾圧を行うようになりました。
普通選挙法は、それ単体で見れば国民にとっては喜ぶべき出来事ですが、その代償として、国民の思想の自由が強く制限されるという大きな大きな副作用を残す結果となったのです・・・。
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