今回は、1924年に起こった第二次護憲運動についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!
第二次護憲運動とは
1924年に誕生した清浦奎吾内閣が、政党の意見を政治に反映させない方針(超然主義)だったため、これに不満を持った憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の3政党が、協力して清浦奎吾内閣を倒そうとした動きのことを、第二次護憲運動と言います。
本題に入る前に、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部について簡単に紹介しておきます。
憲政会
大正政変(1913年)によって総理大臣を辞職に追い込まれた桂太郎が、辞職に追い込んだ張本人である立憲政友会に対抗するために、1913年12月に結成された立憲同志会をルーツとする政党。(1916年に立憲同志会から憲政会に改名)
結成の背景からもわかるように、立憲政友会とはライバル関係であることが多い。
立憲政友会
1900年に伊藤博文が結成した政党。衆議院の与党であることが多く、政治に大きな影響を持つ。第二次護憲運動の直前まで、議席の過半数以上を占める最大与党だった。
革新倶楽部
1898年に隈板内閣が解散した後に、大隈重信が立ち上げた憲政本党(1910年に立憲国民党に改名)をルーツとする政党。1922年に立憲国民党が解党した後、革新倶楽部に生まれ変わる。
1913年の立憲同志会(のちの憲政会)結成時に、多くのメンバーを立憲同志会に引き抜かれたため、議席は少なく、影響力も少なめ。
第二次護憲運動が起こった理由・原因
話は、1918年の原内閣までさかのぼります。
1918年、立憲政友会の総裁だった原敬が、日本で初めての本格的な政党内閣を結成しました。
しかし1921年11月に、その原敬が暗殺されてしまいます。
突然の原敬の死を受けて、急遽、立憲政友会の総裁と内閣総理大臣になったのが高橋是清という男。1921年11月、高橋是清は、各大臣たちを据え置いたまま臨時的に高橋内閣を立ち上げました。
しかし、高橋是清が総裁になると、統率を失った立憲政友会は次の2つの派閥に分かれ内紛を開始。そして1922年6月、内輪揉めで政権運営能力を失った高橋内閣は、解散にまで追い込まれました。
リーダーシップのない高橋是清に見切りをつけて、新しい総裁を選ぼうと考えたアンチ高橋是清派
据え置かれた各大臣を選び直して(内閣を改造して)、高橋是清の下で内閣をまとめあげようと考えた高橋是清支持派
立憲政友会と一言に言っても、政党の中にはさまざまな意見を持つ人がいます。原敬は、持ち前のリーダーシップや交渉術で立憲政友会を上手くまとめていましたが、高橋是清にはそれができず、立憲政友会がグダグダになってしまったわけです。
内閣総理大臣の決定権を持っていた元老の西園寺公望や松方正義は、内輪揉めで自然崩壊した立憲政友会に厳しい評価を下します。
議会と内閣が対立して国政を滞らせないため、確かに政党内閣は必要だ。だが、内輪揉めで大局を見失った立憲政友会に、内閣を任すわけにはいかぬ。
であるから、しばらくの間は政党内閣は認めない。その間に、立憲政友会には頭を冷やし、頼れる政党になっていることを期待する。
こうして元老が次に内閣総理大臣に指名したのは、政党と一定の距離を置く海軍出身の加藤友三郎という人物でしたが、1923年8月に病死。
次に内閣総理大臣になったのは、海軍出身の山本権兵衛という男。加藤に続きまたもや政党とは関係ない人物です。政党を軽視した二度にわたる人選に、立憲政友会のみならず、野党の憲政会からも批判の声が上がります。
立憲政友会は、議席の過半数を占める圧倒的な与党だ。
原敬の時代のように、我々に内閣を任せてくれても良いではないか!
・・・残念だが、政争に終始する議員の中に総理大臣になるべき人はいない
しかし、その山本権兵衛も1924年1月に虎ノ門事件(1923年12月)の責任をとって辞職することになってしまいます。
この次に内閣総理大臣になったのが、枢密院のトップだった清浦奎吾という人物でした。1924年1月7日、清浦内閣が誕生します。
※枢密院:天皇の諮問機関(天皇の求めに応じて、助言や意見を求める機関)
またもや政党軽視の人選です。
この政党軽視(超然内閣)の清浦内閣に対して、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党が協力して対抗しようとした運動が、この記事で紹介する第二次護憲運動でした。
ここまでの政治の動きを一旦整理しておきます。
- 原敬内閣(1918年〜1921年)政党内閣
- 高橋是清内閣(192年〜1923年)政党内閣
- ラベル加藤友三郎内閣(1922年〜1923年)ほぼ超然内閣
- ラベル第二次山本権兵衛内閣(1923年〜1924年)ほぼ超然内閣
- ラベル清浦奎吾内閣(1924年)100%超然内閣
第二次護憲運動の内容
三度も続いた政党軽視の人選に危機感を感じたのが立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党です。
普段は選挙で戦い合う関係でしたが、この時ばかりは協力しあい、清浦内閣を倒して政党内閣を取り戻すことを決めました。
清浦内閣は、軍部大臣以外の大臣すベてが貴族院議員で占められた純度100%の超然内閣だったので、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党は、貴族院議員ばかりの清浦内閣を特権内閣と呼び、これを激しく批判。
※貴族院議員は、華族と言われる高い身分の人しかなれない特権的な身分でした。
さらには、長年の国民の悲願だった普通選挙の実現を訴えることで、民衆からの支持を得ようと運動を開始しました。
第二次護憲運動の目的
政党内閣の復活を目指して、清浦内閣を批判したのは分かったよ。
でも第二次護憲運動にはどんな目的があって、具体的にどんなことが行われたのか、教科書を読んでもよくわからない・・・
第二次護憲運動の目的は、主要3政党である立憲政友会・憲政会・革新倶楽部がスクラムを組むことで、清浦内閣に味方する政党をなくし、清浦内閣を孤立させることでした
内閣が予算を決めたり、政策を行うためには、衆議院の過半数以上の賛成を得る必要があります。(これは大日本帝国憲法に定められています)
逆に言えば、衆議院の過半数の支持が得られない内閣は何も決めることができず、政権を運営することが困難になるってことです。
これまでも、衆議院の支持を得られず政権運営ができなくなって内閣が解散に追い込まれる・・・というのはよくあることでした。(1914年に起きた大正政変が良い例です)
そうならないよう、内閣は衆議院が一致団結して内閣に反対すれば、内閣を解散に追い込むことができる・・・というわけです。
ところが、政党を軽視していたはずの加藤友三郎・山本権兵衛内閣は、それでも政権運営を行うことができていました。
なぜなら、加藤内閣では立憲政友会が、山本内閣では革新倶楽部が内閣を支援していたからです。
※革新倶楽部は464議席中45名程度の小さな政党なので、力は微々たるものでした。しかし、山本内閣は、関東大震災への対応のため議会を経ない緊急勅令で政策を決めたため、与党の支持がなくてもスムーズな政権運営が可能でした。
各政党は、政党を軽視する内閣を倒すのではなく、逆に内閣と協力関係を結ぶことで、他の政党よりも優位に立つことを考えていたのです。
例えば、憲政会が清浦内閣を倒して政党内閣を復活させよう!!と声を上げて、民衆の強い支持を受けるようになっても、ライバルの立憲政友会がこれを邪魔するため、清浦内閣と連携して憲政会と徹底抗戦の構えを見せるかもしれません。
・・・何が言いたいかというと、政党同士が争い続けている限り、政党内閣の復活はあり得ないのです。
しかし、清浦内閣の際は、このような政党間の争いは起こりませんでした。
なぜなら、清浦内閣は大臣に政党員が1人もいない超然内閣だったからです。
これでは、政党に旨みがないので、政党が内閣に協力する理由がありません。
むしろ、超然主義内閣の登場で、政党の存在意義が損なわれる事態となり、政党同士で争っている場合ではなくなりました。
この結果を受け、政党同士が協力関係を結び、清浦内閣を予算や政策を決定できない機能不全に陥らせて、解散へと追い込もうとした・・・というのが第二次護憲運動の目的です。
この時協力関係を結んだ立憲政友会・憲政会・革新倶楽部は、合わせて護憲三派と呼ばれています。この記事でも以後は、護憲三派と呼ぶことにします。
立憲政友会の分裂【政友本党の誕生】
しかし、護憲三派の協力には1つ大きな問題がありました。
立憲政友会のアンチ高橋是清派のリーダー格だった床次竹二郎が、貴族院と近い人物だったので、清浦内閣との協力関係を考えていたのです。
立憲政友会の総裁である高橋是清が第二次護憲運動への参加を決定すると、これを受け入れられない床次竹二郎らアンチ派は立憲政友会を離党。そして新たに政友本党という政党を結成します。
よく言えば「膿を出した」、悪く言えば「裏切り者が現れた」というわけですが、当時約280議席あった立憲政友会のうち、半分以上の148名もの人数が政友本党に分裂してしまいます。
しかも、分裂の結果、清浦内閣を支援する政友本党が、衆議院で最も議席のある与党になってしまいます。
政友本党が与党になったことで、第二次護憲運動は単なる護憲三派の協力だけでは足りず、間近に迫った選挙(1924年5月予定)でも一定の成果を求められる(政友本党から与党を奪還する!)ことになりました。
運命の選挙結果【護憲三派内閣の誕生】
1924年5月10日に選挙が行われ、結果はこうなりました↓↓
政党名 | 選挙後の議席数 | 選挙前の議席数 | 議席の増減 |
---|---|---|---|
憲政党 | 151 | 103 | +48 |
政友本党 | 116 | 149 | −33 |
立憲政友会 | 100 | 129 | −29 |
革新倶楽部 | 30 | 43 | −13 |
※上記4党以外の議席は省略しています。
※議席数は、資料によって若干数字が異なるため、正確な数値を追い切れませんでした・・・。なので、あくまで目安としてご覧ください。(もちろん、受験勉強で議席数を覚える必要はありません)
選挙は、憲政会が最大与党となり政友本党を下し、さらに、護憲三派の議席数が過半数を占めたことで、清浦内閣が機能不全に陥ることが確定。すると清浦奎吾は、1924年6月に内閣を解散しました。
そして、元老が次の内閣総理大臣に選んだのが、与党になった憲政党の党首、加藤高明です。
加藤高明は、内閣の各大臣を共に戦った護憲三派のメンバーから抜擢。こうして護憲三派は、政党内閣を復活させることに成功したのです。(と同時に、元老がようやく政党内閣を受け入れた)
第二次護憲運動の後
第二次護憲運動によって、なんとか政党内閣を取り戻すことには成功した護憲三派でしたが、共通の敵を失ったことで、再び政党同士の争いが起こるようになります。
3党の連携は、加藤内閣が解散した1926年に崩壊。その後は、憲政会(のちに立憲改進党へ)と立憲政友会が交互に政党内閣を担う憲政の常道と呼ばれる状態が続くことになります。
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