今回は、764年に起きた恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
恵美押勝の乱とは
恵美押勝の乱とは、朝廷権力をめぐって藤原仲麻呂と孝謙上皇が争った内乱のことを言います。
唐の文化が大好きだった藤原仲麻呂は、自らの名前を唐風の恵美押勝に改名していたので、内乱のことを恵美押勝の乱と呼びます。(藤原仲麻呂の乱と呼ばれることもあります)
恵美押勝の乱の勝者になったのは、孝謙上皇。
当時、朝廷で権勢を誇っていた藤原仲麻呂は討ち取られ、朝廷権力は孝謙上皇、そして上皇から寵愛を受けていた道鏡の手に渡ることになります。
恵美押勝の乱が起きた時代背景
恵美押勝の乱が起きた当時、朝廷で権力を握っていたのは藤原仲麻呂でした。
藤原仲麻呂は、皇后の藤原光明子(聖武天皇の正妻)の支援を得て、朝廷での影響力を強めていました。
757年、藤原仲麻呂は、橘奈良麻呂の変を利用して政敵を一掃すると、758年には裏で暗躍して、淳仁天皇を即位させます。
淳仁天皇は藤原仲麻呂の傀儡であり、藤原仲麻呂は裏で淳仁天皇を操って、天皇にも匹敵しうる絶大な権力を手に入れることになります。
※傀儡:操り人形のこと
もはや俺に敵はいない。朝廷は全て俺の思うがままだぜ!!
ところが、760年に入ると藤原仲麻呂の天下にも翳りが見えてきます。
というのも、藤原仲麻呂の権勢を支えていた藤原光明子が亡くなってしまったのです。
しかも、話はそれだけでは終わりません。
671年、藤原仲麻呂に強力なライバルが出現することになります。
異端の僧侶、道鏡
そのライバルの名は道鏡。
道鏡は僧侶の身でありながら俗世権力を求めて、異端の実力者として台頭してきました。
きっかけは671年、病に伏した孝謙上皇を治療するため、道鏡がその看病にあたったことでした。
なんでお医者さんじゃなくて、僧侶なの?
当時は今みたいに薬学や医学が発展していなかったから、『仏法の力があれば病な治る!』と考えられていました。
なので、僧侶が今で言うお医者さんみたいな感覚だったのです。
上皇の看病役に抜擢されるほどだから、道鏡はなかなか優秀な僧侶だったんだろうね!
孝謙上皇は看病をしてくれた道鏡にどっぷり惚れ込んでしまい、なんと道鏡は孝謙天上皇と付き合うことになりました!
当時、孝謙上皇は40代、道鏡は60歳前後。熟年カップルの誕生です。
道鏡は、上皇を口説き落とした男として歴史に名を刻むことになり、後にさまざまなゴシップネタが語り継がれることになります。
道鏡って60歳前後とは思えないほど、鍛え抜かれた立派な体だったらしいわよ。
道鏡って、◯◯◯がすごい大きくて孝謙上皇を虜にしたらしいわよ!
道鏡の◯◯◯の大きさは後世に語り継がれるようになり、後に巨根伝説と呼ばれるようになります。(嘘か本当かはわかりません・・・!)
ちなみに、道鏡の一族の出身地である弓削神社には◯◯◯の形をした木像が置いてあって、結婚・子授け、浮気防止などのご利益スポットになっています。
孝謙上皇が道鏡にメロメロになってしまうと、上皇といつも一緒にいる道鏡は政界にも影響力を持つようになり、その影響力は藤原仲麻呂が警戒するほどまでになっていました。
女帝は、パートナーがいると皇位継承をめぐって100%揉めるので、基本的に即位した後は独身を貫かなければなりませんでした。
天涯孤独が確定している孝謙上皇にとって、権力から距離を置いている僧侶の道鏡は、心を許せる存在だったのだと思います。
恵美押勝の乱が起きたきっかけ
762年、藤原仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇にこう伝えさせます。
淳仁天皇「道鏡への異常なまでの寵愛ぶりは目に余ります。もう少し接度をわきまえてください」
お前に私と道鏡の何がわかる!!藤原仲麻呂の言いなりのくせに生意気なことを言うな!
もう良い。お前みたいなやつに政治は任せられない。これからは大事は私(と道鏡)が行う。お前は小事だけに専念してれば良い。
こうして、
孝謙上皇&道鏡
VS
淳仁天皇&藤原仲麻呂
の激しい争いが始まることになります。
※天皇と上皇の2人の権力者が両立すると、朝廷の指揮系統は混乱することになりました。天皇・上皇の権力が両立するには、平安時代後期の院政の登場を待たなければなりません。
当初、争いは朝廷の人事をめぐる形で行われていました。
しかし、軍事の全権を握っていた淳仁天皇&藤原仲麻呂は、764年、クーデターを起こし、一挙にして孝謙上皇&道鏡の勢力を排除してしまおう・・・と考えます。
藤原仲麻呂は、淳仁天皇に自らを畿内周辺で兵を統率する総指揮官に任命させて、『兵の訓練のために1国から20名を徴兵する』との名目で、兵を集めます。
一国20名と言ったが、あれは嘘だ。
部下たちよ!一国600人の徴兵を各国に伝えるのだ・・・!!
・・・ところが、部下の1人が身の危険を感じ、藤原仲麻呂の行動を孝謙上皇にリークしてしまいます。
上皇様、藤原仲麻呂が大量の兵を集めていて、災いが起こる予感がいたします。どうすれば良いのでしょうか・・・・
藤原仲麻呂め、一気にケリをつけにきたわね。
良いでしょう。私(と道鏡)が受けてたちましょう。
藤原仲麻呂の乱の経過
正規の軍隊の指揮権は藤原仲麻呂が握っていたものの、一応、孝謙上皇にも授刀衛と呼ばれる護衛部隊がいました。
孝謙上皇は、この授刀衛を即時に動かして、淳仁天皇の元へに向かわせます。
目的は、淳仁天皇・・・でもなければ藤原仲麻呂でもありません。授刀衛の目的は、淳仁天皇が持っている御璽と駅鈴でした。
真正面から戦っても兵力差で藤原仲麻呂には敵わない・・・と踏んだ孝謙上皇は、一挙にして敵の懐に飛び込む賭けにでたわけです。
・・・そして激戦の末、孝謙上皇の賭けは成功しました。
孝謙上皇は奪った御璽を使って次のような命令を出します。
このたびの平城京での争いは、すべて藤原仲麻呂の謀反によるものである!藤原仲麻呂を討ち取るのだ!
こうして形成は一気に逆転します。
朝廷の敵(朝敵)となった藤原仲麻呂は畿内で兵力を集めることができません。
苦境に立たされた藤原仲麻呂は、体制を立て直すため、畿内から脱出して東国へ向かうとします。
しかし、藤原仲麻呂の行動は全て、孝謙上皇側に読まれていました。
東国へ向かうための関所は、すでに封鎖されていたのです・・・!
こちらには優秀な策士がいるのよ。お前の行動なんか筒抜けだわ!!
閉じ込められた藤原仲麻呂は、体制を立て直せないまま孝謙上皇軍に討ち取られ、恵美押勝の乱は終戦しました。
恵美押勝の乱が始まった当初は、藤原仲麻呂が圧倒的な軍事力を持っていたにもかかわらず、孝謙上皇側の策略と果敢な行動によって、乱はわずか一週間で終戦し、孝謙上皇の大逆転勝利となったのです。
恵美押勝の乱の後
朝廷で絶大な権力を誇っていた藤原仲麻呂の討死は、政界にも大きな影響をもたらします。
孝謙上皇、再び天皇になる
淳仁天皇、藤原仲麻呂に加担したお前は天皇クビよ。
これからは、私が再び天皇になるわ。
こうして、孝謙上皇は称徳天皇という名前で再び天皇即位し、道鏡とともに本格的に政治を行うようになりました。
※上皇が再び天皇になることを重祚と言います。
道鏡、政界のトップに立つ
称徳天皇は、道鏡のために、朝廷の最高官位「太政大臣」と同等の権限を持つ太政大臣禅師という役職を作って、道鏡に朝廷の実権を握らせました。
さらに恵美押勝の乱の翌年(765年)、道鏡は法王の称号まで獲得します。
法王は、仏教界において最高ランクの称号です。
俗世での最高権力者は私。
でも、仏教界で一番偉いのは道鏡よ。
これからは二人三脚で、世を治めていくの!
こうして、朝廷では仏教色の強い独特の政治が行われるようになりました・・・が、769年、法王だけでは飽きたらない道鏡が自ら天皇になることを目論むと、さすがの称徳天皇も道鏡とは距離を置くようになり、宇佐八幡宮神託事件によって道鏡は失脚することになります。
藤原仲麻呂も道鏡も、栄華は一瞬で、あっという間にその身を滅ぼしていったんだ。
これは、奈良時代の政治というのが、権力者が目まぐるしく変わってしまうほど不安定だったことを示している・・・とも言えるよ。
確認問題
答: ①淳仁天皇
答: ④称徳天皇
2度天皇になることを重祚と言います。日本では次の2例しかありません。
飛鳥時代の皇極天皇→斉明天皇
奈良時代の孝謙天皇→称徳天皇
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