今回は日本で最初に作られた議会「帝国議会」についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
そもそも議会って何?
帝国議会について話を進める前に、「そもそも議会って何?」ってところを確認しておきます。
今では「国会」と呼ばれていますが、当時は帝国議会と呼ばれていました。
議会には大きく一院制と二院制の2つの種類があります。
そして、帝国議会では後者の二院制が採用されました。つまり、日本には2つの議会が設けられていて、この2つの議会は衆議院と貴族院と呼ばれています。
なぜ帝国議会は設けられたのか?
帝国議会は、1889年に発布された大日本帝国憲法によって設置することが決められ、その翌年(1890年)に日本で初めての帝国議会が開かれました。
・・・さて、なぜ日本は議会を設置したのでしょうか。その理由は
選挙によって民衆から選ばれた議員が政治に参加することで、民衆の国に対する不満や怒りを和らげるため(不満のガス抜きをするため)
でした。
帝国議会が設置されるまで、日本政府には民衆の意見(民意)を政治に反映されるための組織がありませんでした。
これでは重税などで苦しむ民衆の意見が政治に反映されません。民衆は、政治に意見することができないため、その不満を武力行使によって政府にぶつけました。
その最たるものが、1877年に起こった西南戦争です。
しかし、西南戦争が明治政府に鎮圧。西南戦争の結果を見て、「武力行使による訴えは無意味だ」と悟った民衆たちは、大きな方針転換を行います。
武力行使で訴えても、政府に鎮圧されるだけだ。
だからと言って、政府に民衆の意見(民意)を反映させる場所もない。
それならば、まずは『民意を反映させる場(議会)を創設しろ!』という根本的なところから、政府に要求していく必要がある。
この民意を反映できる場(議会)の設置を訴える運動は、自由民権運動と呼ばれ、その中心人物になったのが板垣退助です。
自由民権運動は次第に規模が大きくなり、暴動も頻繁に起こるようになると、これを無視できなくなった政府の中には、議会を設置する案も浮上するようになりました。
もはや、民衆の不満を強引に封じるのは限界か・・・。
多くの列強国が議会を設置しているわけだし、そろそろ日本にも議会を置くべきかもしれないな。
こうして設置されたのが帝国議会です。帝国議会が設置されるまでの詳しい経過は、以下の自由民権運動の記事を合わせて読んでみてくださいね。
帝国議会の仕組み
こうして出来上がった帝国議会。次はその仕組みがどうなっているかを解説していきます。
帝国議会の仕組みは、国の組織を図にしてみるとわかりやすいです。
この記事では上図の組織を詳しく知る必要はありません。注目して欲しいのは矢印の向きだけです。
天皇を頂点に上から下へ向かう矢印(↓)が「国から民衆への様々な命令や行為」で、下から上に向かう矢印(↑)が「民衆から国へ意見を物申す行為」。
ポイントになるのは(↑)の矢印。
帝国議会が設置される前は(↓)しかありませんでしたが、帝国議会設置後は、民衆から衆議院に対して初めて(↑)が登場しました。
民衆たちは国の政治に不満がある時は、選挙によって議員を衆議院に送り込んで、そこで国に対して意見を言うことができるようになりました。(この点が、帝国議会の画期的なところ!)
具体的にどんな意見を言えるようになったのかというと、「法律制定の承認」と「国家予算の承認」です。
国の政策の多くは法律に基づき、予算を確保した上で行われます。帝国議会はその両方に影響を持つことができたので、帝国議会は政治に対して強い影響力を持っているように見えます。
衆議院と貴族院の仕組み
・・・、「見えます」なんて微妙な表現を使ったのは、帝国議会の仕組みはもう少し複雑だからです。
帝国議会設置の中心人物になったのは伊藤博文という男。伊藤博文は、民衆の意見を吸い上げる議会の必要性を感じながらも、吸い上げた意見を実際の政治に反映させることに強いためらいを持っていました。
暴動を起こし、言いたい放題言うだけの民衆に政治の大権を与えることはできない。
それに日本は天皇がトップに立つ国である。その天皇の権力を議会が脅かすことはあってはならない。一方では、民衆の不満をガス抜きするためにも、民衆の希望の光となるような議会の仕組みにしなければならない。
この相反する問題を解決するため、帝国議会は『表向きは民衆の意見を吸い上げているように見えるけど、実はそこまで強い権限はない』というバランスの取れた仕組みにしなければならないな・・・。
当時の伊藤博文のように、「議会が政府(内閣)の政策に大きな影響を与えてはならない。」と、議会の意向を軽んじる考え方のことを超然主義と言います。
議会が設置された当初は、政府要人の多くは超然主義を採っていました。しかし、実際に議会が運営されるにつれ、議会を重んじる人も現れるようになります。
伊藤博文も当時は超然主義でしたが、実際に議会が始まると少しずつ議会を重要視するようになります。
こうした伊藤博文の考えが強く反映されているのが、二院制の仕組みです。
選挙によって議員が選ばれるのは衆議院だけ!
もう1つの貴族院は、衆議院の暴走を止めるストッパーの役割にしよう!
具体的には、大日本帝国憲法に以下のようなルールを設けました。
貴族院で法律が否決されると、衆議院でどんなに頑張っても法律を制定することはできない仕組みです。(両院の可決が必要)
さらに、貴族院の議員になれるのは、皇族や華族といった高い身分の者だけ。
特定の身分の中の互選によって議員が決められました。
皇族や華族は政府との関係が深い人たちが多いため、貴族院には政府の意図を汲んで衆議院を牽制する役割が期待されたわけです。
厳しすぎる選挙権と被選挙権
もう1つ、民意反映を大きく妨げたのは厳しすぎる選挙権と被選挙権です。
選挙権と被選挙権には次のような条件が設けられていました。
選挙権は満25歳以上の男性で15円以上納税している男性に与えられる。
被選挙権は満30歳以上の男性で15円以上納税している男性に与えられる。
以下のサイトを参考にすると、おおむね「当時の1円」=「今の2万円」とされています。
参考URL:明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?
これを参考にすると、当時の15円は今の30万円に相当ってことになります。
今の日本の税制だと、一般的なサラリーマンが30万の納税をするには大雑把に年収500万円以上が必要です。
つまり、当時の選挙権・被選挙権を今風に言い換えると・・・
選挙で投票できるのは満25歳以上で年収500万円以上の男性だけ
選挙に立候補できるのは満30歳以上で年収500万円以上の男性だけ
となります。ちなみに、薄給の私にはもちろん選挙権はありません ・・・(´;ω;`)
当時、選挙権を持っている者は人口の約1%強に過ぎなかったとも言われています。
要するに衆議院の選挙制度は金持ちしか参加できない設計になっていたんです。
お金持ちは自分の財産を守るため保守的な人が多かったので、過激な思想が衆議院に入り込まない仕組みでした。
選挙権が制限されている点は、後に大きな争点となり大正時代になると選挙権が緩和されます。
帝国議会の様子
1890年7月、日本で初めての選挙が行われます。
選挙の枠は300人。結果は以下のようになりました。
この円グラフで重要なのは立憲自由党と立憲改進党の存在。
この2つの党は民衆寄りの政党で、立憲自由党130人+立憲改進党41人=171人います。
立憲自由党や立憲改進党などの民衆よりの政党のことを民党と言います。
以下のルールがあるため、議会が何か決定する際には過半数の賛成が必要となります。
衆議院議員の枠が300人なので、議会で意見を反映させるには150人の賛成が必要です。
立憲自由党+立憲改進党(171人)はこれをクリアしているため、衆議院は民衆の意見が通しやすい状況となりました。
第一回帝国議会
1890年、第一回帝国議会が開かれます。議会で大きな話題になったのは予算の使い道。
当時の内閣トップ(内閣総理大臣)だった山県有朋は、将来起こりうる朝鮮をめぐる清国との戦争に備え、軍事費に多くの予算を充てるべきと主張します。(これは後の日清戦争で現実のものとなります。)
そして、衆議院の過半数以上を占める民党は、重税などで苦しむ民衆たちに休む時間を与えるべきと「民力休養」を主張し、山縣有朋の軍事費UPに反対しました。
議会に反対されたら、政府は法案も予算も決定できない。これでは、何もできないではないか。
議会との関わり方がここまで難しいとはな・・・。
予算案が暗礁に乗り上げてしまうと、政府は賄賂やらなんやらで立憲自由党員に離反工作を仕掛けました。
この離反工作により、予算案への反対が衆議院の過半数を下回り、政府はなんとか軍事費拡大の予算案を成立させることができました。
しかし、議会運営の難しさを痛感した山縣有朋は内閣総理大臣を辞職。後任には松方正義が就任します。
第二回帝国議会
1891年11月、2回目の帝国議会が開かれます。
最初の帝国議会で政府の離反工作を受けた立憲自由党は党の名前を自由党に改め、星亨という人物を中心に党の結束を強化します。
その結果、軍事費に関する政府予算案はことごとく否決。
今回ばかりは離反工作もできず、八方塞がりとなった政府(松方内閣)は、大日本帝国憲法第7条のルールを使って衆議院を解散させてしまいます。
一度、衆議院を解散して、次の選挙で民党の当選者を減らすのが目的です。
流血の選挙【第二回衆議院議員選挙】
2回目の選挙で立憲自由党と立憲改進党を当選させたくない政府は、過激な選挙干渉(妨害)を行います。
選挙妨害を主導したのは内務省トップ(内務大臣)の品川弥二郎。内務省は警視庁を管轄する組織だったので、警察を動員して各地の民党による選挙運動を妨害しました。
特に高知での選挙妨害は凄まじく、大暴動が起こり、選挙のために多くの血が流れました・・・。
各地で負傷者と死者を伴ったにも関わらず、選挙の結果はまたしても民党の優勢。政府は弾圧まがいの選挙妨害をしたにも関わらず、再び民党に敗北してしまったのです。
第三回帝国議会
流血の選挙の後の1892年5月、第三回の帝国議会が開かれます。
議会会場には品川弥二郎の選挙干渉によって負傷し、包帯を巻き松葉杖をつく者の姿も見られました。
政府の予算案はことごとく否決され、議会では露骨な選挙干渉を行った政府への責任追及が行われます。
「衆議院の解散」という必殺技を使っても民党に勝てなかった松方内閣は、政府内でも意見が割れた末に、内閣解散に追い込まれることになります。
第四回帝国議会
松方正義の後任として内閣総理大臣となったのは伊藤博文。伊藤博文の内閣総理大臣就任は二回目なので、これを「第二次伊藤内閣」と言います。
伊藤博文は帝国議会を創設した中心人物。おそらく、日本で最も帝国議会に精通していた人物です。伊藤博文には秘策がありました。
帝国議会の仕組みを考えたのは私だ。
こんなこともあろうかと、大日本帝国憲法には帝国議会を切り抜ける最終手段を用意してあるのだよ。
1892年11月に第4回目の帝国議会が開かれると、例の如く民党は政府の案をことごとく否決していきます。
そこで伊藤博文は天皇からの直接命令である詔勅を書面にした詔書を利用します。証書には超訳するとこんな感じのことが書かれていました。
「私(明治天皇)も頑張って経費削減に努めるよ。そして浮いた資金は軍艦建造費に充ててもらうつもりだよ。だから、議会も政府に協力してほしいんだ」
天皇の命令は基本的に絶対です。こんな詔書を出されては、議会は無力。何もできません。これこそが、伊藤博文の秘策でした。
天皇からの直接命令(詔勅)は、政治が乱れてしまうため濫用することはできません。あくまで最終手段です。
さすがの議会も、天皇の命令には逆らえず、第四回帝国議会では政府の軍事費拡大案が認められることになりました。
この後も議会と政府の対立が続きますが、1894年に日清戦争が起こると、議会と政府は日本の勝利に向けて協力するようになります。
さらに議会が設置されてからちょうど10年後の1900年、超然主義から議会重視に考え方を転換した伊藤博文は自ら立憲政友会という政党を立ち上げ、議会に臨むことになります。
帝国議会の様子を追っていくとまるで生き物のようで、いろんな出来事を経験しながら少しずつ成長・変化していくのがわかると思います
「明治・大正時代の政治史ってわかりにくい・・・」と感じている人は、この変化が原因かもしれません。一言に「帝国議会」と言っても、成立当初の1890年と、10年後の1900年ではその様子は全く違います。
言葉の丸暗記ではなく、帝国議会の成長過程を我が子のように追っていくイメージが重要だと、個人的に思います。
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