今回は1882年に朝鮮で起こった壬午軍乱(壬午事変と言うことも)について分かりやすく解説していきます。
最初に教科書風の概要を載せておきます。
この記事では壬午軍乱について以下の点を中心に解説を進めていきます!
朝鮮半島、激動の時代
壬午軍乱当時、朝鮮は開国によって激動の時代へと突入していました。開国を迫られた幕末の日本が内乱で大いに揉めたのと同じことが朝鮮半島でも起こっていたからです。
朝鮮の開国のきっかけは1876年に起こった江華島事件。朝鮮に対して開国を求める日本とそれに反対する朝鮮が揉めた事件です。最終的に日朝修好条規が結ばれ、朝鮮は開国を受け入れましした。
開国をした朝鮮では、人々の意見が「開国派」と「反対派(攘夷派)」に大きく分かれます。これも幕末の日本と同じですね。
そして、この意見の対立はそのまま権力をめぐる政争へと発展していきます。
壬午軍乱当時の朝鮮は、「開国派」「攘夷派」に大きく分かれ、幕末の日本のような激動の時代を迎えていた。
閔妃VS大院君
当時の朝鮮国王は高宗と呼ばれる人物。
そして、高宗の正妻「閔妃」と高宗の父「大院君」の間で権力争いが起こります。閔妃は開国派、大院君は攘夷派の立場をとります。
以下、閔妃VS大院君の様子を時系列で簡単にまとめておきます。
- 1873年大院君、失脚
大院君は国王の父として独裁政治を行っていました。
ところが、自由を奪われた息子の高宗はこれに反発。妃である閔妃も大院君に不満を持つ者と協力し、大院君を失脚に追い込んだ。
政治の実権は高宗・・・ではなくて、その高宗を裏から操る閔妃に移る。
- 1876年
朝鮮開国へ。朝鮮の世論は「開国派」「攘夷派」に分かれる。
閔妃は開国派に立ったが、失脚した大院君は攘夷派の求心力となる。
- 1881年閔妃、最新鋭軍隊「別技軍」を設立
西洋化を進める日本の協力を得て、最新技術を取り入れた軍隊創設を目指す。
そして、この別技軍が壬午軍乱の火種となっていきます。
大院君は失脚したものの、攘夷派と結びつき挽回のチャンスを虎視淡々と狙っていました。そして、その絶好のチャンスこそが壬午軍乱でした。
壬午軍乱が起こった理由
上で紹介した別技軍は、最新鋭軍隊でありいわゆるエリートの集まりでした。閔妃政権はこの別技軍を優遇するあまり、旧来の軍隊を軽視し始めます。
旧軍隊は「別技軍よりも格下」というレッテルを貼られ、与えられる武器もショボい武器ばかり。リストラの話が浮上し、給料は削減。さらに追い討ちをかけるように給料の未払い問題まで発生し、旧軍隊に所属する人たちは強い不満を持つようになります。
当時、兵士へのお給料はお米による現物支給でした。そして1882年7月、なんと約13ヶ月ぶりに未払いとなっていた給料(米)が支給されることになりました。
しかし、支払われたのはわずか一ヶ月分のお米のみ。しかも、支給を担当する役人が不正を行い、支給されたのは腐敗米などが混じった粗悪な米ばかり。
約一年も我慢して支給されたお米はわずか一ヶ月分で粗悪な米ばかり。しかも不正をした役人は裏でお米を着服し微笑んでいる。この事件をきっかけに、兵士たちの怒りはついに限界に達します。兵士たちは役人に暴行を加えて監禁。役人の不正行為を世に訴えます。
・・・ところが朝鮮政府が下した判断は、「不正ダメ絶対!」ではなく「反乱を起こした兵士たちは死刑!」というもの。
すると、各地の兵士たちも立ち上がります。
政府の判断は絶対におかしい!
我慢の限界なのはみんな同じ。俺たちも立ち上がるぞ・・・!
こうして、各地で兵士たちが暴動を起こし、警察や兵士が監禁されている監獄を襲撃。そして、これに閔政権に不満を持つ民衆たちも加わり、大規模な反乱に拡大していきます。
不満の矛先は日本にも向けられ、7月23日には日本公使館も襲撃されることになります。
壬午軍乱と日本の関係
「なんでいきなり日本公使館がターゲットにされるの?」と疑問に思った人もいるかもしれませんが、実はちゃんと理由があります。
この事件に日本が深く関与していたのは、上のお話でいうところの「お給料(お米)が未払い」ってところです。
1876年に朝鮮が開国して日本との貿易が始まると、日本の商人たちが朝鮮で生産されたお米を買い占めてしまったんです。
このような事態を防ぐため、普通は輸出税の引き上げが行われます。こうすれば、朝鮮のお米を日本に輸出するのにコストがかかるため、「日本で米を買った方がよくね?」となって、朝鮮のお米が買われなくなるからです。
ところが、朝鮮はこれをしませんでした。・・・というかできませんでした。なぜなら、1876年に日朝修好条規を結んだ際に朝鮮は関税自主権を奪われていたからです。
つまり、まとめると・・・
米不足がきっかけで朝鮮で暴動が起きたけど、そもそも米不足の原因は日本にあった!
壬午事変の経過
7月19日頃に最初の暴動が起こり、23日には漢城(今のソウル市)にあった日本公使館が襲われました。
朝鮮政府に日本公使館に護衛を当てる余裕などなく、公使館は無防備に晒されました。これに危機を感じた公使の花房義質は夜中に公使館を脱出。
しかし、逃げ先の候補地も暴徒の手に落ちており、逃げ場を失った花房一行は小舟で海へ脱出。そして、漂流しているところをイギリス船に助けられ長崎へと帰国します。
命からがらの脱出劇であり、実際に逃走中に多数の日本人が暴徒に命を奪われています。
さらに同日、朝鮮政府そのものが暴徒の手に落ちました。閔妃は追放され、新たな政権の座にはあの大院君が君臨します。
・・・そうです。この一連の暴動を裏で操っていたのは大院君でした。
「米騒動」=「日本が原因」=「攘夷派」=「大院君」という感じで連想してみると、大院君が裏で暗躍していたのがイメージしやすいかと思います。
危険を感じた閔妃は間一髪のところで死を免れ、清国の公使だった袁世凱に救援要請をします。(袁世凱は後に清国滅亡後の中華民国大統領となります)
壬午軍乱をめぐる対応(日本の場合)
花房義質が長崎に帰国すると、当時外務省のトップだった井上馨にすぐさま事態を報告。
朝鮮に対して、謝罪や賠償を求める外交交渉を行うことを決定します。
また、「朝鮮の暴徒に日本人が殺された」という知らせは「朝鮮憎し!」という世論を生み、日本では義勇兵の申し込みが殺到した・・・とも言われています。
ただし、朝鮮から見れば壬午軍乱の原因を作ったのは日本なわけで、非があるのは日本です。このように壬午軍乱についての認識は日本と朝鮮で大きく食い違っています。
壬午軍乱をめぐる対応(清国の場合)
清国は、日本が朝鮮反乱軍と戦争を始めて朝鮮を実効支配してしまう可能性に強い警戒感を抱きました。
そこで、壬午軍乱を日本ではなく清国主導で解決してしまおうと、交渉役として清国から馬建忠という人物を送り込みます。
私の目的は、朝鮮の内紛鎮圧に清国が深く介入して日本に朝鮮を支配させる余地を与えないこと。
内紛鎮圧や最悪なケース(日本軍との戦争)に備え、軍艦に乗り兵を率いて朝鮮へ向かったのだ。
三つ巴(朝鮮・清国・日本)の思惑
8月16日、日本は花房義質を大使として、朝鮮の大院君に対して謝罪や賠償金などを要求しますが、回答を先延ばしにされてうやむやに。(大院君は攘夷派だったので日本に対しては強硬な姿勢で臨んでいました)
これに対して花房義質は朝鮮との戦争も辞さない構えをとりますが、8月24日に清国の馬建忠との間で会合が開かれると、清国が日朝の間を調停する形で改めて日朝の交渉の場が与えられました。
花房義質と馬建忠の間でどんなことが話されたのかはわかっていません。
清国としては「清国主導で問題を解決して、日本の介入を最低限に抑えたい」という思惑があり、日本としては「清国の干渉があってもいいから交渉を成立させたい・清国との戦争は避けたい」という思惑があったものと思われます。
また、攘夷思想を持つ大院君は日本にとっても清国にとっても邪魔であり、「反乱軍率いる大院君を排除して、再び閔政権を復活させる」という点では日本と清国での意見は一致していました。
8月26日、清国軍が大院君のいる朝鮮王宮に進攻。大院君は捕らえられた後、清国に送られてそこで幽閉されました。
その後、清国軍は反乱軍と戦いこれを鎮圧。朝鮮王宮も清国兵が護衛します。こうして、清国は「清国主導で内紛を解決する」という目標を達成することに成功します。
壬午軍乱の影響
大院君が追放されると再び閔妃が政権に復帰します。しかし、清国に助けられた閔妃に昔のような実権はなく、閔妃の裏では馬建忠が暗躍することになります。
閔政権が復活すると、うやむやのままにされていた日朝の交渉が再開され、日本は謝罪と賠償金、そして諸々の特権を朝鮮から勝ち取ることに成功しました。この交渉には馬建忠が暗躍していた・・・と言われています。ちなみにこの時に日本と朝鮮の間で結ばれた条約のことを済物浦条約と言います。
一方の清国は朝鮮に軍隊を駐在させ、朝鮮の実効支配を強めます。日本も少数の兵を駐在させることを朝鮮に認めさせましたが、清国の軍隊には敵いませんでした・・・。
まとめると
日本は、朝鮮から賠償金を求めることなどに成功した。
しかし、朝鮮を実効支配する・・・という点では清国の迅速な軍隊派遣に遅れを取り、清国が朝鮮の実効支配を強めてしまった。
という結論になります。
壬午軍乱は朝鮮の内紛であると同時に、「内紛を利用して朝鮮を支配しようとする清国と日本の戦い」でもありました。そして、清国と日本の戦いは清国の勝利に終わります。
日本「いずれ、清国とは戦争になるかもしれん」
壬午軍乱の結果、漢城には清国軍と日本軍が駐在するようになり、不穏な空気が漂い始めます。
このまま朝鮮を清国に与えてはならぬ。
日本が破れたのは、清国の軍事力の大きさと機敏な判断によるものである。今後は、清国との戦争も想定し軍備拡大を図ることとする!
こうして、日本は清国との戦争に備え軍備拡大を進めることとなり、朝鮮をめぐって元から微妙だった日清の関係は急速に悪化していくことになります。
壬午軍乱まとめ(年表付き)
- 1873年大院君、失脚。閔妃の時代へ
- 1876年日朝修好条規
日本人による米の買い占めが始まる。
- 1882年7月19日漢城(今のソウル市)で暴動起こる
閔政権は崩壊し、再び大院君が朝鮮に君臨する。
- 1882年7月23日日本公使館襲われる。
公使だった花房義質らはギリギリのところで脱出。犠牲を出しながら、なんとか長崎へ帰国する。
- 1882年8月16日本、朝鮮の大院君に賠償and謝罪要求をするも拒否される
- 1882年8月23日清国の軍隊が大院君を追放。
清国の後ろ盾を背景に閔妃が政権に復帰。
清国は朝鮮に軍隊を常駐させ、朝鮮の実効支配を強める。
- 1884年甲申事変へ・・・
「清国と結ぶよりも、近代化を進める日本と関係を結んで朝鮮も近代化を推し進めるべき」という考えの人たちが、清国に依存する閔政権を打ち倒すクーデターを実行する。(失敗に終わる)
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