今回は、飛鳥時代に大活躍した天智(てんじ)天皇について紹介します。天智天皇の活躍期間は長くて、活躍した期間は645年~672年の約30年に渡りました。
それにも関わらず、在位期間は668年から672年のわずか3~4年。なぜか天智天皇は天皇にすぐ即位しませんでした。理由はわからなくて、大きな謎として知られています。天智天皇はなんていうか、謎に包まれた人間なんです。
さらに、天智天皇は飛鳥時代の様々な場面で活躍しています。サッと挙げるだけで
- 乙巳の変で蘇我氏殺害、天皇主権の時代到来へ
- 天皇主権に向けた政治の大刷新、大化の改新を実施
- 唐・新羅に戦争を仕掛けた白村江の戦い
- 白村江の戦いの敗戦処理(防人の配置とか)
- 大海人皇子との対立(天智天皇死後、壬申の乱へ発展)
教科書に載るような飛鳥時代のビックイベントにはほぼ全て天智天皇が関与していると考えて良いと思います。飛鳥時代のキーパーソンなんですよ天智天皇って。
この記事ではそんな天智天皇についてわかりやすく丁寧に紹介してみます。この記事を読んでいただければ、天智天皇のことはだいたいわかると思いますし、飛鳥時代の全体像みたいなのもわかるかもしれません。この記事が読者の方の参考になれば幸いです。
天智天皇の青年期
天智天皇は、舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた子。626年に生まれ、即位前は中大兄皇子と呼ばれていました。(この記事では一貫して全て天智天皇と表記します。668年までの話で登場する天智天皇は「中大兄皇子」に読み替えてください。使い分けたらそれはそれでわかりにくいかなぁと思いまして。)
飛鳥時代の皇族たちは、次期天皇の座を巡り争う宿命にあり、権力争いの絶えない時代。その例に漏れず、天智天皇も若い頃から否が応でも後継者争いに巻き込まれます。
641年、舒明天皇が無くなるとその奥さんだった皇極天皇が女帝として即位。
しかしこの皇極天皇、圧倒的財力と権力を持つようなった蘇我一族の蘇我蝦夷・入鹿親子の傀儡(かいらい)でした。
皇極天皇が即位すると、蘇我蝦夷・入鹿は早速「次の天皇をどうするか?」の議論に入り、そこで目を付けたのが古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)という人物でした。
当時の後継者候補は3人
- 山背大兄皇子(聖徳太子の息子!)
- 天智天皇
- 古人大兄皇子
次期天皇を古人大兄皇子に絞り込んだ蘇我蝦夷・入鹿にとって、もはや残りの山背大兄皇子・天智天皇は不要な存在。この2人は蘇我氏にマークされ、命の危険に晒されるようになります。
実際に山背大兄皇子は蘇我入鹿によって滅ぼされています。
そして次にマークされたのが天智天皇。蘇我入鹿の皇族軽視、政治の独裁化、そして命を狙われる身になった天智天皇は、同じく蘇我氏に不満を持つ中臣鎌足という人物と共に蘇我氏暗殺計画を立て始めます。645年の出来事であり、天智天皇が20才前後の頃です。
天智天皇と乙巳の変
さて、645年有名な乙巳(いっし)の変が起こります。
乙巳の変は、天智天皇と中臣鎌足の2人が首謀者となり蘇我蝦夷・入鹿を殺害した政治クーデターです。
乙巳の変により蘇我蝦夷・入鹿が滅んだことで蘇我氏の政治力は一気に衰え、日本は天皇中心の国を目指し新しい一歩を踏み出します。天智天皇の首謀した乙巳の変は日本の大転換期とも言えます。
乙巳の変については以下の記事で詳しく解説していますので、参考までに。詳細を知るとかなり面白い事件です。
天智天皇と大化の改新
645年の乙巳の変は、蘇我氏を排除したことで天皇中心の新しい政治が行えることを意味しました。つまり、乙巳の変は新しい政治の第一歩だったわけです!
こうして行われた乙巳の変後の一連の政治改革のことを大化の改新と言います。この政治改革の所信表明は、今でも伝わっていて以下のようなことを重要政策として掲げています。これを改新の詔(みことのり)と言います。
- 従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。
- 初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。
- 初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。
- 旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。
上の話はこれだけ読んでもよくわからないと思います(汗。
ここでは触れませんが詳細は、以下の記事で詳しく解説していますので参考までに。
なぜか天皇即位しない天智天皇
乙巳の変の後、蘇我氏の傀儡だった皇極天皇が退位し、後継者問題が浮上します。乙巳の変の首謀者で天皇の力を復活させた天智天皇は後継者の最有力候補だったはずが、なぜか天智天皇は天皇即位を望みません。
結局、乙巳の変の後、天智天皇の叔父に当たる孝徳天皇が即位し、天智天皇はその政治を影から支えることになりました。
この辺の話も複雑で、「実は乙巳の変は孝徳天皇が首謀者で、天智天皇はその手足に過ぎなかった!」とか「天智天皇は女性関係でトラブって即位できなかった!」とかいろんな説が飛び交っています。面白いのですが、ここでは割愛します。何れにしても天智天皇の生涯には謎が多いのです。
邪魔者は潰す天智天皇の政治スタイル
天智天皇の政治スタイルは一貫して「邪魔者は謀略でぶっ潰す」スタイルでした。
自分のライバルになりそうな者や邪魔者が現れるとあらぬ嫌疑を掛けて相手を失脚または処刑に追い込むのが天智天皇の得意スタイル。
天智天皇に消された有力者の中で特に有名なのが有間皇子(ありまのみこ)という皇族。有間皇子は、年代的に次期天皇候補として天智天皇の筆頭ライバルとして挙げられる人物でした。
天智天皇は当然、有間皇子が自分にとって危険な存在であることを知っており、有間皇子をワナに嵌め、あらぬ嫌疑をかけて処刑に追い込みました。
一方の有間皇子も天智天皇の性格を十分に知っていて、天智天皇に目を付けられないよう狂人を装って生活していたと言われています。さらに、「『狂人を装った』じゃなくて、天智天皇に精神的に追い詰められて本当に躁鬱病だったんじゃね?」って説もあったりします。恐ろしすぎだろ天智天皇・・・。
有間皇子の話も以下の記事で紹介しています。飛鳥時代の悲劇の皇子として有名な有間皇子のエピソードはとても面白いのと同時に天智天皇の恐ろしさがわかります。
天智天皇と白村江の戦い
乙巳の変から20年ほどが経過した663年。日本は、友好国だった百済を救うため唐・新羅連合軍に戦争を仕掛けます。白村江の戦いです。
当時の天皇は女帝の斉明天皇。どのような政治判断をしたのかは今でもわかっていませんが、当時の超大国唐に対して日本は無謀な戦争を行います。いろんな思惑があり、百済を見捨てることができなくなったのです。
660年に百済が戦争に敗北。その後すぐに友好国の日本に百済から援軍要請がやってきます。日本は当然、唐が超大国であることを知っていたはずで、「百済を助けて唐にケンカを売るか」「百済を見捨てて唐に歩み寄るか」の究極の選択に迫られますが、斉明天皇は唐と戦うことを決断。
661年に九州に兵を集め、いざ朝鮮へ!!という間際に斉明天皇が倒れ逝去。戦争の真っ最中で後継者の話などできるはずもないので、天智天皇が称制(しょうせい)という天皇代理の特殊なポジションに立ち、軍事指揮をとります。かなり慌ただしいです。
白村江の戦いの詳しい経過は、以下の記事が詳しいです。
661年から随時軍を派遣していた日本ですが、強国の唐には太刀打ちできず、663年の白村江による海上戦で壊滅的な敗北を喫し、朝鮮から撤退。日本は敗戦国となり、その後の外交政策に大きな大きな影響を与えました。
天智天皇の敗戦処理
天智天皇は白村江の戦いの敗北を受け、日本の戦後処理の対応に忙殺されます。
- 軍役を課され、負担を強いられている農民たちの不満抑制
- 唐との和平交渉
- 唐の侵略に備えた防衛拠点・軍の整備
という日本の国運を左右する超重要任務が天智天皇を待ち受けいたのです。
福岡の太宰府市あたりにある水城(みずき)なんかは、この頃の防衛拠点の跡だったりします。防人という兵を九州に派遣したり、庚午年籍(こうごねんじゃく)という戸籍を整備して兵数を管理できるようにしたり、天智天皇は色々と唐が襲ってくる時に備えます。
・・・が、唐は百済を滅亡させた後、そのまま新羅との戦争に突入し日本には襲ってきませんでした。というか、「俺(唐)は新羅を攻めてる最中だから邪魔すんなよ。仲良くしてやっからよ!」って感じでむしろ唐との外交関係も回復。
こうして日本には、束の間の平和が訪れます。そして、白村江の戦後処理がひと段落した668年、遂に天智天皇が即位します。661年から天皇代理をやっていましたが668年にようやく正式に即位したのです。天智天皇が40才ちょっとの時でした。
乙巳の変によるクーデターの決行、その後の政治改革、そして白村江の戦いという戦争と戦後処理をこなした天智天皇。その経歴を見ると凄まじい経験をしている人物であることがわかります。天智天皇は頭脳明晰で、決断力のある、タフな男だったに違いありません。
天智天皇と大海人皇子
天智天皇は即位すると弟の大海人皇子(おおあまのみこ)を次期天皇に定めます。(諸説あり)
大海人皇子は、白村江の戦いの敗戦処理でも天智天皇の右腕として活躍した優秀な男で、周囲の評判も良く、まさに次期天皇にふさわしい人物でした。
・・・ところが、671年になると大海人皇子は突如として朝廷の役職を外され、代わりに天智天皇の息子である大友皇子(おおとものみこ)を次期天皇候補として要職に就くことになりました。
当時、天智天皇の周囲で何が起こったかわかりません。天智天皇の息子の大友皇子は、非常に聡明な人物だったらしく、天智天皇の気持ちが溺愛する息子に心変わりしたとしても不思議ではありません。
ハシゴを外された大海人皇子はこれに納得できるはずがありません。というか、大海人皇子は天智天皇から見れば「大友皇子のライバルになりうる政敵」になってしまったわけで、命を狙われる危険すらありました。
そして672年1月、兄弟同士仲違いしたままの状態で天智天皇が亡くなります。天智天皇が亡くなった後、危険を感じた大海人皇子は出家し吉野へ隠居をしてしまいます。
様々な難題に立ち向かってきた天智天皇ですが、自分の後継者問題に関しては大海人皇子VS大友皇子という爆弾を残して亡くなってしまいます。
天智天皇と壬申の乱
天智天皇が亡くなったのと同じ672年、早速大海人皇子と大友皇子の対立が表面化します。
吉野に隠居していた大海人皇子の下に「大友皇子が兵を用意している」と不穏な報告が入ります。これを自分を討つための兵だと確信した大海人皇子は、「黙ってやられるくらいならこちらから撃って出てやる!」の精神で遂に挙兵を決意。
大友皇子に不満を持つ人々を次々と味方に引き入れ、この2人の対立は古代史最大の内乱と呼ばれた壬申(じんしん)の乱にまで発展しました。
壬申の乱については以下の記事を参考にどうぞ!
壬申の乱で大友皇子は敗北。その後皇位を勝ち取った大海人皇子は天武天皇として即位し、日本は奈良時代に向けて時代が大きく進んでいくわけです。
天智天皇の人物像など
天智天皇は、天皇として活躍した期間が短いためあまり話題になりませんが、飛鳥時代のビックイベントのほとんどに関わっている飛鳥時代の超重要人物です。
天智天皇に関する史料は少なく、人物像に迫るのはなかなか難しいのですが、天智天皇がそんなビックイベント次々とこなしていく様子を知ると、用意周到・頭脳明晰・柔軟性抜群の万能型政治家だったんじゃないかと思います。
また、天智天皇には反抗勢力になりうる者は問題が起きる前に潰すという冷酷な一面も垣間見えます。有間皇子は狂人を装ったにも関わらず処刑されますし、天智天皇は、嫁さんの父も政争で殺しています。
乙巳の変では、天智天皇の天皇主権に対する強い志が見えます。そして白村江の戦いの戦後処理では、多くの人が不満を持つ中、どさくさに紛れて戸籍を作り人民管理の制度を作り上げるなど狡猾な一面も見せています。
これらを全部まとめると、天智天皇は「政治家としての才能はパーフェクト。そして天皇主権という政治目標のためならどんな手段も躊躇わない熱い情熱と冷酷さを持ちわせた人物」という人物像が見えてくるような気がします。豪族連合体から天皇主権国家へ。国政の大転換期に相応しい超優秀な男こそが天智天皇だったのです。
そして、皮肉にも天智天皇の政治理念を受け継ぎ天皇主権国家を完成させたのが、敵対していた大海人皇子でした。通史的には天武天皇の方が有名ですけど、どうか天智天皇の功績も忘れないであげてください!
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