

今回は「なぜ古代日本は遷都を繰り返したのか?」という問いに、歴史の裏側からわかりやすく迫っていくよ!特に孝徳天皇が飛鳥から難波宮へ移った理由と、その後の「悲劇のドラマ」までていねいに解説していくね!
「平城京」「平安京」——学校で習う都の名前はこのくらいかもしれません。でも実は、古代日本の都はもっとずっと多く、遷都は天皇が代わるたびに何度も繰り返されていました。
「なぜそんなに都を変えるのか?」——実はこれ、ただの習慣ではありません。宗教的な理由・政治的な思惑・そして人間関係のもつれという、まったく異なる3つの動機が複雑に絡み合っていたのです。
しかも、孝徳天皇が飛鳥から難波宮へ遷都したあとには、歴史の教科書がほとんど語らない「孤独の悲劇」が待ち受けていました——。
「難波宮」とは?——3行でわかる基礎知識
3行でわかる難波宮まとめ
- 難波宮は、645年に孝徳天皇が現在の大阪(難波)に造営した飛鳥時代の都。
- 大化の改新の直後に建設され、唐の都・長安を意識した本格的な宮殿だったとされる。
- 孝徳天皇の死後は一時廃都となったが、後に聖武天皇の時代に「後期難波宮」として復活した。
難波宮の正式名称は「難波長柄豊碕宮」といいます。場所は、現在の大阪市中央区の法円坂周辺——大阪城のすぐ南に当たるエリアです。1,300年以上前、ここに天皇の宮殿が建っていたなんて、今の街並みからはちょっと想像できないですよね。
難波宮には実は「2つの顔」があります。1つめは645年に孝徳天皇が建てた「前期難波宮」。2つめは、奈良時代になって聖武天皇が副都として整備した「後期難波宮」です。この記事で取り上げるのは、ドラマの起点となった前期難波宮のほうです。

イメージとしては「今でいう東京都庁を、奈良から大阪に丸ごと引っ越した」みたいな感じだよ!しかも国会議事堂とか財務省みたいな国の中枢機能まで一緒にね。当時の日本にとっては、まさに国家プロジェクトだったんだ。

古代日本はなぜ遷都を繰り返したのか?3つの理由
飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本の都は本当に何度も変わりました。難波宮(645年)→飛鳥板蓋宮(655年)→近江大津宮(667年)→飛鳥浄御原宮(672年)→藤原京(694年)→平城京(710年)……ざっと数えただけでも、わずか65年で6回も都が動いています。
でも、歴史の教科書はその理由をほとんど説明してくれません。実は、研究者の間でも「これが決定的な理由」というものは絞り切れていません。ここでは現在広く語られている3つの理由を順番に見ていきましょう。
理由①:「死の穢れ」から逃れる宗教的理由
古代日本には「死の穢れ」という強い信仰がありました。死・病・血といった生命に関わる出来事は「穢れたもの」とされ、その場から離れることが重んじられていたのです。
これは天皇の宮殿にも当てはまりました。天皇が亡くなった場所は「穢れた地」とみなされ、新しい天皇は新しい清浄な土地に宮を構える必要があったといわれています。つまり、代替わり=宮替わりがワンセットだったわけです。
理由②:天皇交代による「聖地移転」の慣習
2つめは、新しい天皇が「自分の聖地」を打ち立てるための政治的アピールとしての遷都です。新しい宮殿を造営することそのものが、新天皇の権威を内外に示す行為でした。
「この土地は私が選び、私が築いた都だ」——そう宣言できる場所を持つことは、古代の支配者にとって自分の正統性を示す大切なステップだったのです。前の天皇の宮にそのまま住むのは、政治的にはむしろ消極的な選択だったともいえます。
理由③:中央集権化・外交のための政治的判断
3つめは、もっと現実的な理由です。飛鳥時代から奈良時代は、日本が律令制という新しい国家の仕組みを取り入れていく時期でした。新しい政治体制には、新しい役所配置・新しい街区計画にふさわしい場所が求められたのです。
さらに、唐や新羅からの外交使節を受け入れる玄関口としてどこが便利か、軍事的に守りやすいのはどこか——そうした地政学的な計算も、遷都先を選ぶ大きな材料になりました。難波宮の選定は、まさにこの「政治・外交パターン」の代表例でもあります。
遷都の理由は、学者の間でも意見が分かれているテーマです。①の「死の穢れ説」は主に民俗学・宗教史の観点から語られる説で、戦後の研究者・井上光貞らも重視していました。一方で、「穢れだけでは説明がつかない」「政治的主導権争いや権力者の縄張り意識のほうが大きい」とする説も有力です。
実際の遷都には、宗教・政治・外交・人間関係といった複数の理由が同時に絡んでいることがほとんどで、「これが正解」と1つに決めることはできません。歴史史料も限られていて、確定的なことはわかっていないのが現状です。この記事でも「〜という説があります」「〜とも言われています」という形で、断定しすぎないように紹介していきます。

なんで都をころころ変えるの?お金も労力もすごくかかりそうだけど……。今の感覚だと、首都を変えるって超大事件じゃない?

そう、めちゃくちゃコストがかかるんだよね。でも当時の天皇にとっては「新しい都を作れること」自体が権威の証だったんだ。今でいうと「大企業がピカピカの新本社ビルを建てる」みたいなイメージかな。「うちはこれだけのことができるんだぞ!」っていう国内外へのアピールだったんだよ。
孝徳天皇が飛鳥から難波宮を選んだ理由
645年、日本の歴史を動かす大事件がおこります——乙巳の変です。中大兄皇子と中臣鎌足が、朝廷で絶大な権力を握っていた蘇我氏(蘇我入鹿)を倒した政変です。
この直後、皇極天皇が退位し、その弟である孝徳天皇が即位します。そして孝徳天皇は大化の改新を進めるとともに、即座に都を飛鳥から難波へ移すことを決断しました。これが難波宮の始まりです。

なぜわざわざ飛鳥(奈良県の南)を捨てて、難波(大阪)を選んだのか?理由は主に3つあったといわれています。
1つめは地政学的な優位性。難波は瀬戸内海の最奥に位置する港町で、当時の最先端国家だった唐や朝鮮半島へのアクセスが圧倒的に有利でした。海路で大陸と直接やりとりできる玄関口だったわけです。
2つめは「蘇我氏の縄張りからの脱出」。長年蘇我氏が支配してきた飛鳥の地は、いわば旧勢力のホームグラウンド。新政権がそこに居続けるかぎり、空気・人脈・しがらみの中で動きにくい状態が続きます。場所を変えることは、新しい政治のリスタートを意味していました。
3つめは唐風の都市計画を試したかったこと。孝徳天皇は唐の律令制を強く意識しており、唐の都・長安をモデルにした本格的な宮殿都市を作りたいと考えていました。古い飛鳥よりも、開発の余地のある難波の方が新しい都市計画を実現しやすかったのです。

難波って今の大阪だよね?飛鳥(奈良)からわざわざ大阪に移ったの、ちょっと遠くない?新幹線もない時代に……。

そう感じるよね!でも当時の感覚だと、難波は「中国・朝鮮への玄関口」に一番近い場所だったんだ。今の感覚だと「東京のオフィスを成田空港の隣に丸ごと移す」みたいな話。海外との取引が増えていた時代だからこそ、海に近い難波がベストだったんだよ!
難波宮はなぜあんなに巨大だったのか?
難波宮の規模は、当時としては桁外れでした。発掘調査によると、前期難波宮の朝堂院(中央の儀式空間)だけでも南北約263m・東西約234m。宮城全体の推定規模は東西・南北ともに600〜700m以上に及んだとみられています。それまでの飛鳥の宮とは比べものにならない巨大さで、中国の礎石建・瓦葺きの技法を取り入れた本格的な都城計画の先駆けとなりました。
正殿(大極殿に相当する建物)に向かう中央の通路は幅が広く取られ、左右には朝廷の儀式を行う「朝堂院」が配置されました。これは、後の藤原京・平城京の宮殿配置の原型ともいえるレイアウトです。

お金も労力もかかる遷都を何度も繰り返して……しかもあんなに大きな宮殿を作ったのはなぜかしら?当時の国家予算からしてもかなりの出費だったのでは?

大きな理由は「対外アピール」だったんだ!唐や朝鮮の使節がやってきたときに「日本にはこんなに立派な都がある」って見せつける必要があった。当時の日本にとって、唐は最先端の超大国。その唐に対して「うちも一人前ですよ」って証明するための舞台装置だったんだよ。
難波宮の本格的な発掘調査は、戦後の1954年から始まりました。考古学者の山根徳太郎が長年にわたって発掘を続け、当初は「本当に難波に都があったのか?」と疑う研究者もいたといいます。それくらい、当時の難波宮は文献ではあまり詳しく書かれていない「幻の都」でした。
しかし、発掘が進むにつれて巨大な建物の柱穴・基壇・回廊跡が次々と見つかり、ついには前期難波宮の全容が明らかになっていきました。現在は跡地が「難波宮跡公園」として整備され、大阪城のすぐ南で見学することができます。

大阪城のすぐ南に1,300年以上前の都が眠っていたなんて……ロマンがあるわね。豊臣秀吉も気づかなかったのかしら?

秀吉が大阪城を作ったときも、おそらく難波宮の存在は知らなかった可能性が高いんだ。発掘で本格的に確認されたのは戦後だからね。1,300年の時を経て、ようやく「ここに孝徳天皇の夢があった」とわかった——めちゃくちゃ歴史ロマンだよね!
孝徳天皇と中大兄皇子——難波宮の悲劇
難波宮の物語でいちばん心に残るのが、ここからのドラマです。孝徳天皇と中大兄皇子は、もともと大化の改新を共に進めた「盟友」でした。叔父(孝徳天皇)と甥(中大兄皇子)の関係でもあり、当初は二人三脚で新しい国づくりに取り組んでいたのです。


難波の地に、隋や唐のような都を作り上げる——これが私の夢だ……!この国を、唐に負けない律令の国家にするのだ。
ところが653年(白雉4年)、二人の関係は決定的に壊れます。中大兄皇子が突然、「私は飛鳥に戻る」と宣言したのです。しかも、ただ自分が戻るだけではありませんでした。皇族・貴族・官僚たちの大半が中大兄皇子に従って、難波宮から続々と飛鳥へ去っていったのです。
残されたのは孝徳天皇ただ一人——いや、正確には数少ない側近たちだけ。「日本書紀」には、このときの孝徳天皇が深い悲嘆の中で和歌を残したとも記されています。そして翌654年(白雉5年)、孝徳天皇は失意のまま難波宮で崩御しました。即位からわずか9年。志半ばの最期でした。
中大兄皇子はなぜ難波を去ったのでしょうか?理由は史料からはっきりとは読み取れず、いくつかの説が並んでいます。①孝徳天皇の路線(急進的な改革・唐風志向)と中大兄皇子の路線(より段階的な改革)が対立した、②飛鳥に残る保守派・伝統的豪族との関係を取り戻すための戦略、③そもそも難波宮はあくまで孝徳天皇個人の都であって、皇族全体の合意があったわけではなかった——などの見方があります。
気をつけたいのは、私たちが知る飛鳥時代の歴史の多くが「日本書紀」を通して伝わってきている点です。日本書紀は天武天皇・持統天皇の時代——つまり中大兄皇子(後の天智天皇)の系統が権力を握ったあと——に編纂された書物です。孝徳天皇の側からの視点はどうしても限られており、「実際の対立はもっと複雑だった」と考える研究者もいます。
孝徳天皇の崩御後、中大兄皇子はその母である皇極天皇を斉明天皇として再び即位させ、自身は皇太子として実権を握り続けます。そして667年には自ら白村江の戦い後の政治を引き継ぐ形で近江大津宮へ遷都し、天智天皇として律令制の基礎を作り上げていきました。

孝徳天皇にとって、難波宮はまさに「夢の都」だったんだよね。でもその夢は志半ばで終わってしまった。歴史の教科書ではあまり語られないけど、実はめちゃくちゃ孤独な最期だったんだ……。難波宮跡を訪れるときには、ぜひこの「孝徳天皇のドラマ」も思い出してみてほしいな!
よくある質問
現在の大阪市中央区(大阪城のすぐ南・法円坂周辺)に位置していました。645年に孝徳天皇が造営した飛鳥時代の都で、正式名称は「難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)」です。1954年以降の発掘調査で遺構の存在が確認され、現在は「難波宮跡公園」として整備されています。
大化の改新(645年)の直後、645年(大化元年)に難波長柄豊碕宮へ遷都しました。乙巳の変で蘇我入鹿が倒された直後の即位であり、新政権のシンボルとしての遷都だったといえます。
主に①天皇崩御後の「死の穢れ」を避ける宗教的慣習②新天皇の権威を示す聖地移転③外交・中央集権化のための政治的判断の3つが挙げられます。ただし学者の間でも諸説あり、どれか1つが決定的な理由とは言い切れません。実際には複数の理由が同時に絡んでいたと考えられています。
叔父(孝徳天皇)と甥(中大兄皇子)の関係であり、大化の改新を共に推進した同志でした。しかし653年、中大兄皇子が突然「難波から飛鳥に戻る」と宣言。多くの皇族・貴族がそれに従って難波宮を去り、孝徳天皇は孤立。翌654年、失意の中で崩御しました。中大兄皇子は後に天智天皇として即位しています。
孝徳天皇の崩御後は一時廃都となりました(前期難波宮)。その後、聖武天皇の時代(8世紀)に再び難波が副都として復活し、後期難波宮が整備されました。現在は遺構が「難波宮跡公園」として大阪市中央区に保存されており、見学することができます。
飛鳥時代(592〜710年ごろ)には数多くの遷都が行われました。代表的なものは、難波長柄豊碕宮(645年)→飛鳥板蓋宮(655年)→近江大津宮(667年)→飛鳥浄御原宮(672年)→藤原京(694年)→平城京(710年)です。天皇の代替わりごとに宮が動いていたことがわかります。
まとめ——難波宮が教えてくれること
「遷都=古代日本の慣習」というイメージは、半分は正解、半分は不正確です。古代日本の遷都の裏側には、宗教(死の穢れ)・政治(聖地移転と権威)・外交(律令制と国際関係)という複合的な動機が絡んでいました。孝徳天皇が飛鳥から難波宮へ移った理由も、まさにこの3つが重なった典型例でした。
そして、難波宮が「孝徳天皇の夢の都」として一代で幕を閉じた事実は、教科書の年号暗記だけでは伝わらない権力者の孤独と、歴史の勝者が物語を書き残すという冷たい現実を私たちに教えてくれます。難波宮跡を訪れるときには、ぜひ孝徳天皇の悲劇と、そこから生まれた律令国家の歩みを思い浮かべてみてください。
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592年豊浦宮(飛鳥):推古天皇が即位
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645年難波長柄豊碕宮(難波):孝徳天皇が大化の改新後に遷都
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655年飛鳥板蓋宮(飛鳥):斉明天皇が都を飛鳥に戻す
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667年近江大津宮(近江):天智天皇(中大兄皇子)が遷都
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672年飛鳥浄御原宮(飛鳥):壬申の乱後、天武天皇が都を飛鳥に戻す
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694年藤原京:持統天皇が造営。飛鳥時代の集大成
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710年平城京(奈良):元明天皇が遷都。奈良時代の始まり

以上、「古代日本の遷都と難波宮」のまとめでした!孝徳天皇の夢と悲劇、そしてそれを乗り越えて律令国家を作り上げた古代日本の歩み——感じてもらえたかな?下の記事で大化の改新や飛鳥時代の全体像もあわせて読んでみてね!
Wikipedia日本語版「難波宮」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「孝徳天皇」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「大化の改新」(2026年6月確認)
コトバンク「難波宮」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「孝徳天皇」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
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