前回は雄略天皇の話をしました。雄略天皇は、武力を背景に倭国を統一しつつありました。
時代は進み、500年~600年の話へ移ります。この時代の一大イベントといえば、日本への仏教伝来です。
もし日本へ仏教が伝来しなければ、今の日本はありません。そんな仏教に焦点を当てて、この時代について説明していきたいと思います。
仏教伝来者で百済の王、聖明王(せいめいおう)
仏教は、百済から伝わったと言われています。ただし、混迷の朝鮮半島。百済・新羅・高句麗で掲載しましたが、当時は多くの渡来人が日本へやってきていました。
もちろん次第に定住していく渡来人もいたでしょう。そのような渡来人は、聖明王が仏教を伝える前から、個人的な仏教信仰を行っていたと考えられています。
そのため、仏教が日本にとって全く未知のものではなかったのかもしれません。と余談になりました。
では、なぜ百済は日本に仏教を伝えたのか?当時の様子を見ていきます。
第1段階:百済・新羅連合vs高句麗
475年、意外と知られていない!?古墳時代の偉人。雄略天皇でも説明したとおり、百済は高句麗に首都漢城を奪われます。
ちょうど、雄略天皇が宋に「高句麗倒すために、よい官爵をください~」とお願いしていた時期です。
高句麗が南にある百済・新羅を侵略しようとしていたのです。今回は、百済と新羅は協力し合うこととなりました。
混迷の朝鮮半島。百済・新羅・高句麗でも掲載したように、400年頃の朝鮮半島の動乱期でも、高句麗の南下政策に苦しんでいましたが、その時は、新羅は高句麗との結びつきを強めることで生き残りをかけ、百済は倭国と連携して高句麗に対抗する道を選びました。今回は、その時とはまた違った対応と言えるでしょう。
第2段階:百済vs新羅
え!?なんで?と思うかもしれませんが、500年前後までは、百済と新羅は高句麗対策のため協力をしてきましたが、だんだん不仲になってきます。
百済も新羅も高句麗からの強い圧力を受け、まるで押し出されるかのような形で朝鮮半島南部に残っていた伽耶諸国の制圧を目指し始めました。
すると、百済と新羅で伽耶諸国の奪い合いが発生したのです。伽耶諸国の問題をきっかけに百済と新羅の溝は深まっていきます。
そんな状況の中、545年、高句麗内部で大きな政変が起こります。政変により高句麗が弱った隙を見て、聖明王は賭けにでます。首都漢城の奪還のため、高句麗に逆襲を仕掛けることにしたのです。
賭けは成功。551年漢城の奪還に成功します。
しかし!まるで狙っていたかのように新羅が漢城を攻め、翌年552年に漢城を奪い取ってしまったのです。まさに漁夫の利を得るというやつです。
高句麗とも新羅とも敵対関係となってしまった百済が頼りにできる国は倭国のみとなり、百済は積極的に倭国に人を送ったり物資を贈るようになるのです。
伝来時期には2つの説がある。552年説と538年説
聖明王の在位は523年~554年とされています。とすれば、その間のどこかが仏教伝来時期と言えるのですが、現在、2つの説が有力視されています。
個人的には、百済が窮地に陥った552年に倭国との連携をさらに深めるため、仏教を伝えたのではないかと思っています。
いずれにしても、伝えた側の百済は、高句麗・新羅との争いで緊張が高まっていたため、ただ単に親切心や布教のために仏教を伝えたわけではありません。
倭国と緊密な関係となるための道具として、仏教が日本に伝来してきたと考えるのが妥当だと思います。
倭国にとってなくてはならない存在、金官国
ちょっとおまけ話を。本題ではないので読み飛ばしてもOKです!
朝鮮半島南部の伽耶諸国の1つに金官国という国がありました。朝鮮半島南部の海沿いにある国でした。
倭国にとって金官国は特別な意味をもつ国でした。倭国では、当時の中国が持っていた天子思想が少しずつ芽生えつつあったと言われています。
日本における天子思想は、660年代に発生する白村江の戦や、蝦夷平定の際の大義名分となり、日本史上でも少なからず影響を持っている思想で「外国の国々は、天子(皇帝)の徳治が及んでいない野蛮な国である。そのため、天子の徳治を海外諸国の隅々まで行き渡らせなければならない」という趣旨の思想です。
そして、当時の倭国にとって天子思想に基づき、実効支配できている国が、蝦夷や九州南部、そして金官国だったのです。当時の宋や隋に比べれば、スケール劣りますが、確かに帝国としての意識を持っていたのではないかと考えられています。また、金官国は、ずーっと昔から倭国との国交がある国でもあり、天子思想を抜きにしても倭国にとって重要な国だったともいわれています。
その金官国が、530年頃に高句麗南下の圧力を受けた新羅により滅ぼされてしまいました。
金官国復興のため朝鮮へ
金官国の滅亡は、倭国にとってはまさに青天の霹靂(へきれき)でした。倭国は金官国復興部隊を伽耶諸国に派遣しました。金官国復興部隊は安羅(あら)という別の伽耶諸国に派遣され安羅を拠点として金官国復興に向けて活動を始めます。
しかし、金官国を復興させることはできませんでした。
聖明王の逝去と安羅滅亡
554年、聖明王は新羅との戦により亡くなり、百済と新羅のパワーバランスが崩れてしまいました。この影響は伽耶諸国へも影響を与え、新羅は安羅までをも滅亡させてしまうのです。
この安羅の滅亡により、倭国の金官国復興は頓挫することとなります。
諦めない倭国
倭国はそれでも諦めません。数十年にかけて新羅に対して圧力をかけていきます。
もちろん、新羅も一度征服した国を倭国へ渡すことなど考えるはずもありません。新羅はこんな風に考えました。
「僕が金官国とか安羅とか倭国が返せって言ってる国々の代わりに、貢物をするからそれで許してくれない?この貢物は、倭王の徳治が今でもこの地に及んでいるお礼だからさ。ねっ?いいでしょ?」
倭国は、これに納得し、国の返還の代わりに、定例的に貢物をもって倭国へ朝貢するよう命じ、今後は国を返せとは言わなくなりました。
なぜ、これほどまでに伽耶諸国に固執するのか。諸説ありますが、少なからず倭国に天子思想があったのは確かなようです。
こうして、新羅との朝貢関係が始まり、この関係は894年の遣唐使廃止までの300年もの間、続いていくことになります。
ちなみに新羅は、便宜上貢物をしていただけで、朝貢だとは思っていません。新羅にとっては、平和維持のための外交でしかないのです。倭国が勝手に朝貢と思っているだけです。しかしまぁ、それでひとまず伽耶諸国の問題は解決したのでした。
なぜ、仏教伝来なのにこんな話をしたかというと、この新羅との関係が平安時代に重要になってくるのですが、この頃の流れを知っていないとなかなか理解しにくいからです。
次回は、仏教を受容した倭国の様子と蘇我氏台頭について説明します。
コメント