天智天皇、政争に強すぎワロタ【有間皇子と蘇我倉山田石川麻呂の犠牲】

tenti

乙巳の変からずっと活躍し続けてきた天智天皇。活躍した期間は645年~671年の約30年に渡りました。結構長いですよね。

壬申の乱の敗者で有名な天智天皇ですが、この天皇、実はかなり凄いです。何が凄いってその波瀾万丈の人生!乙巳の変、大化の改新、白村江の戦い、そして白村江での敗戦処理まですべて天智天皇(中大兄皇子)が絡んでいるんです。

それぞれの出来事について詳しく知りたい方は次の記事を。
【乙巳の変】
なぜ大化の改新(乙巳の変)は起こったのか。わかりやすく解説するよ~その1
大化の改新(乙巳の変)はなぜ起こったのか。わかりやすく解説するよ~その2
【大化の改新】
大化の改新で世の中の何が変わった!?天皇制の一大改革【第1弾】
大化の改新で世の中の何が変わった!?改新の詔【第2弾】
【白村江の戦い】
第2次世界大戦に次ぐ日本史上の大敗、白村江の戦い

そんな天智天皇、実は陰湿な政治争いがめちゃくちゃ強い人物でした。人を騙して蹴落とすのが得意だったんです。

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 陰謀犠牲者1人目:蘇我倉山田石川麻呂さん

この名前の長い人物、実は中大兄皇子(天智天皇)と一緒に乙巳の変で協力していた人物で結構重要な役割を担ってました。乙巳の変の後も右大臣と言う高い地位についていることからも重要な人物であったことが伺えます。

(石川麻呂については、大化の改新(乙巳の変)はなぜ起こったのか。わかりやすく解説するよ~その2の冒頭でちょっとだけ触れています。)

さらに、乙巳の変の際、協力の証として中大兄皇子は石川麻呂の娘を嫁としていました。つまり中大兄皇子にとって石川麻呂は嫁の父に当たるわけです。

乙巳の変の後、中大兄皇子や新しく天皇になった孝徳天皇にとって、石川麻呂は第2の蘇我蝦夷になりうる危険人物に代わっていきます。石川麻呂も蘇我氏の血を引いてますからね。

しかし、真っ向勝負で石川麻呂を排除するには大義名分がありません。そこで、中大兄皇子お得意の陰謀の出番です。

石川麻呂の弟が中大兄皇子に次のように報告をします。「最近、兄があなたを亡き者にしようと不穏な動きをしています。

中大兄皇子は、これをすぐに信用し、石川麻呂に問います。すると石川麻呂は「正直にすべてを話すから孝徳天皇の前で話をさせてくれ。天皇の前で話せば、おまえも納得するだろ?」ともっともなことを発言します。

しかし、孝徳天皇はこれを退け、「俺んとこ来なくてもいいから、とっとと説明しろ。それ以上駄々をこねると軍隊送るぞ」と使者を派遣します。

このとき、石川麻呂は、中大兄皇子に嵌められたことに気付いたのだろうと思います。孝徳天皇の対応は明らかに違和感のあるものです。

石川麻呂は妻子を連れて都から脱出します。が、間もなく孝徳天皇が派遣した軍隊に討ち取られてしまいます。

こうして、石川麻呂は乙巳の変で一緒に戦った中大兄皇子に裏切られた形になるのです。

陰謀犠牲者2人目:有間王子

これは、孝徳天皇が亡くなった後の、斉明天皇の時代に起こったお話です。

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(出典:wikipedia)※赤枠および「中大兄皇子」は加筆しております。

中大兄皇子と有間皇子は上図のようにいとこの関係がありました。

孝徳天皇の死後、斉明天皇が重祚したことによって、有間皇子の天皇即位の夢は潰えてしまいます。次期天皇候補は、中大兄皇子でした。

それだけではありません。中大兄皇子にとって有間皇子は皇位継承のライバル、つまり排除すべき存在となったのです。

飛鳥時代では、皇位継承のたびに大きな争いなどが頻発する時代です。ライバルである有間皇子を事前に排除したいと中大兄皇子が考えても不思議ではありません。

狂人を装い、中大兄皇子から逃れる

有間皇子としては、前天皇の孝徳天皇の息子として次期天皇に即位したかったはずです。その夢を奪った斉明天皇と中大兄皇子を恨んでいたことでしょう。

しかし、相手は石川麻呂を謀略で排除した中大兄皇子です。不穏な動きをしてしまえば、中大兄皇子の思うつぼです。そこで、有間皇子は表面上、狂人を装うことにしました

狂人を装う必要があるほどに、中大兄皇子は恐れられていたのでしょう。

嵌めらた有間皇子、万葉集に残る悲しき一句

658年11月、有間皇子のところに蘇我赤兄(あかえ)と言う人物がやってきてこう言います。当時、斉明天皇は和歌山の温泉へ行っている途中で、蘇我赤兄は天皇不在中の都の代表者でした。

斉明天皇の政治は酷い有り様だ!民を酷使し、わけのわからない石の宮殿を造ったり、意味のない運河を掘らせたりしている!!民を開放するため、ぜひ孝徳天皇の息子たる有間皇子に立ち上がってもらいたい!

これを聞いた有間皇子は「もう狂人のふりをするのは辞めだ!やってやろうじゃないか!」と派兵を決断します。

蘇我赤兄「(簡単にハマりやがった。計画通り・・・)」

この話のあった2日後、有間皇子は、蘇我赤兄邸で打倒斉明天皇の計画を練ろうとします。が、その時登ろうとしていた梯子が急に折れました。これを見た蘇我赤兄は、「これは不吉だ!危ない話は今日は辞めにしてまだ次回お話ししましょう」と有間皇子に言います。有間皇子もそれに応じ、その日はお開きとなりました。

蘇我赤兄「(また簡単に嵌められやがった。余裕すぎるだろ・・・)」

有間皇子が帰途につき就寝すると、蘇我赤兄は有間皇子邸を兵で囲み、逃げられないようにしながら、斉明天皇へ「有間皇子が謀反を起こそうとしたよー」と通報しようとしたのです。

有間皇子は完璧に嵌められました。さぞかし無念だったでしょう。

その後、有間皇子は、斉明天皇の下へ連行されてゆきます。

そして連行中に有間皇子が歌った悲哀の一句が、万葉集に残されています。

磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還り見ん

(現代語訳)

磐代(今の和歌山県みなべ町)で浜にある松の枝を結び、命の無事を祈りました。もし私が生き残ることができたら、またこの枝を見たいものだ・・・。(´;ω;`)

有間皇子は、浜松の枝を見ることなく、処刑されます。蘇我赤兄と有間皇子が出会って1週間後の話でした。あまりにも、話が出来すぎています。これも中大兄皇子の陰謀だと言われています。中大兄皇子恐るべし・・・。

次はあの有名な壬申の乱の話をします。

次:現代日本の原点となった壬申の乱。なぜ壬申の乱は起こったのか
前:第2次世界大戦に次ぐ日本史上の大敗、白村江の戦い

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