なぜ仏教が日本に広がった?蘇我稲目・馬子の壮大な物語

さて、今回の主役の蘇我氏。おそらく一番有名なのは、645年の大化の改新で討ち取られた蘇我蝦夷(えみし)と入鹿(いるか)だと思います。

おそらく蘇我氏は、大化の改新における悪人のイメージが一人歩きしているため、どんな人物なのかわからない人も多いのではないかと思います。

いったい蘇我氏は何をしたか?

以下で見ていきましょう。

仏教をめぐる争い:物部氏vs蘇我氏

仏教が日本に伝来した背景は、なぜ日本に仏教が伝来したのか!?その秘話に迫るで説明しました。朝鮮半島の3国(高句麗・百済・新羅)の三つ巴の戦いの中、窮地に陥った百済が倭国に活路を見出すため、倭国に人や物を送り外交を行ったのが仏教伝来の原因でした。

そして、仏教を受け入れることとなった倭国。しかし、倭国には現在に至るまで信仰されている八百万の神々がいました。

四季があり、山々が連なる日本では、自然そのものが信仰の対象だったのです。これは、現代の人々が自然科学(数学や物理など)を信じている感覚に近いものです。

そんな倭国で、すんなりと仏教が受け入れられるでしょうか?

仏さまは日本にとって異国の神だった

日本人は、縄文時代・弥生時代と長い年月をかけて八百万の神を信仰してきました。そこに仏教による多数の仏さま(釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来などなど)が日本に持ち込まれました。

※仏の種類について気になる方は、京都観光の前に知っておきたい仏像の豆知識をどうぞ。

多神教の日本です。当時の人々から見れば、たくさんいる仏さまも神様に見えてしまったのです。

そこで、異国の神を信仰するとは、何事だ!という仏教受け入れ反対派が現れますなお、異国の神のことを蕃神(ばんしん)と言います。

それが物部(もののべ)氏でした。

では、蘇我氏の立場はどのようなものだったのでしょうか。

渡来人を束ねていた蘇我氏

蘇我氏は、渡来人系の人々を束ねていた有力豪族であったと言われています。
※渡来人がなぜ日本へ来たか?気になる方は混迷の朝鮮半島。百済・新羅・高句麗の記事をご覧ください。400年以降、朝鮮3国の争いの激化により、頻繁に渡来人が日本にやってきました。

実は、蘇我氏は渡来人を束ねているというか、そもそも渡来人だった!?という説もあるようですが、ここでは、あくまで渡来人を束ねていた有力豪族として話を進めます。

百済から仏教を伝えてきた人々も渡来人です。渡来人と深く関わっていた蘇我氏は、仏教を比較的容易に受け入れていきます。

物部氏が保守派なら、蘇我氏は革新派でした。

物部氏と蘇我氏の政治的対立

当時は、雄略天皇時代から続く、権力の集権化の流れにより、豪族たちも淘汰され有力豪族はごくわずかとなっていました。その勝ち残った有力豪族だったのが物部氏と蘇我氏でした。

物部氏は、天皇直属の軍隊として大きな力を持っており、一方の蘇我氏は、渡来人の最新技術を掌握することで大きな力を持っていました。

となれば、最後は物部氏と蘇我氏の一騎打ちです。いつの世も権力争いが耐えることはありません。人間の悲しい性です。

物部氏と蘇我氏は最初から仲が悪かったのですが、仏教をめぐる問題によりさらに対立を深めていくこととなるのです。

次に蘇我氏の動きを見ていきます。

無念の蘇我稲目(いなめ)

sogakeizu

いきなりですが、上に蘇我氏の系図(略)を載せました。人の名前は覚える必要ありません。この系図で、蘇我氏と天皇の結びつきが強いことを見ていただければ大丈夫です。

この系図、1つ気になる点があります。30代天皇がいません30代は蘇我氏との血縁がないため、系図に載っていないのです、ここがちょっとしたポイントになります。

以下、何かあればこの系図を確認してください!

 日本史上初の廃仏運動

時代は欽明天皇の時代(540~571年)。百済から仏教が伝来したのもこの時代でした。

欽明天皇は、群臣たちに仏教を受け入れるべきか否かについて意見を聞きます。このとき、先に述べたように物部氏は反対、蘇我氏は賛成の立場をとり両者は対立を深めることになります。

一方で、稲目から見れば欽明天皇は婿になります。欽明天皇は「稲目が仏教を信仰したいって言うんだったら試しに信仰してみるのも良いだろう」と、稲目に個人的な仏教の信仰を許すことにしました。

しかし、稲目が仏教信仰に励んでいると、疫病が流行し始め多くの人々が苦しむことになってしまいました。これを日本の神を疎かにした天罰であるとして、物部尾興という物部氏サイドの人物が天皇の許可を受け、仏像などをすべて投棄し、稲目が建てた寺院にも火をつけ燃やしてしまいます。

本当に仏教のせいなのか、運が悪かっただけなのか、どちらなのでしょうか・・・。

「元興寺縁起」という書物では、これを稲目死後(569年)の話としています。

稲目の仏教信仰の願いは空しく崩れ去ってしまったのです。稲目の願いは子の蘇我馬子に託されることになりました。

挫折と栄光、蘇我馬子の時代

悲劇の運命。再びの廃仏

蘇我馬子は、稲目以上に仏教の信仰を推し進めました。稲目の頃は、個人的に進行しているのみだったのが、馬子の時代になると、法会や法要を行うなど個人の枠を越えて、仏教信仰に励んでいました。

時代は、ちょっと進んで570~600年頃の話になります。

ところが、再び疫病が流行します。多くの人が亡くなりました。そうです。稲目のときと全く同じです。物部氏側の当時の有力者は物部守屋(もののべのもりや)という人物で、天皇は、欽明天皇の次の敏達天皇へと代が変わっていました。

守屋は「馬子が蕃神を日本へ持ち込んだせいで、皆が苦しんでいる!」と敏達天皇に訴え、その訴えが認められました。ここに2度目の廃仏運動が開始されます。仏像は海へ投げ捨てられ、寺は燃やされました。

敏達天皇は、仏教に対しては否定的だったため、物部守屋の勢いが強くなっていました。ところで、敏達天皇は第30代の天皇です。

上の系図でちょうど、蘇我氏との血縁がなかった天皇ですね。敏達天皇が仏教否定派だったのは、蘇我氏との関係が薄いというのもあったのだろうと思います。

馬子の時代がやってきた!用明天皇の即位

敏達天皇の次の天皇は、馬子が推していた用明天皇でした。当時の天皇は、群臣からの擁立を受けて即位していたので、有力豪族蘇我氏の推薦は絶大な力を持っていたのです。

用明天皇は、上の系図を見てわかる通り蘇我氏との結びつきが強い天皇です。585年~587年という短い間の在位でしたが、用明天皇は公式に仏教の信仰を認めた初めての天皇でした。

ちなみに用明天皇は、あの有名な聖徳太子の父にあたります。

用明天皇は、病気により命を落とすこととなるのですが、病で倒れた際、天皇自身が仏教に帰依することを公式に表明しました。在位期間は短いですが、用明天皇は仏教の発展に大きな影響を与えたのです。

蘇我の稲目・馬子の仏教に対する熱い情熱と用明天皇による仏教の公認により、いよいよ本格的に日本へ仏教が浸透していったのです。

次は、丁未の乱。物部氏vs蘇我氏の最終決戦!!

次:仏教をめぐる日本最古の戦い!蘇我氏と物部氏
前:なぜ日本に仏教が伝来したのか!?その秘話に迫る

楽しく学ぶわかりやすい日本の歴史講座一覧に戻る

スポンサーリンク

こちらの記事もオススメです

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする