崇仏争論とは?蘇我稲目と物部尾輿の対立をわかりやすく【欽明天皇の時代】

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前回は、仏教が日本に伝来した話をしました。

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日本に伝来した仏教ですが、実はすんなりと受け入れられることはありませんでした。仏教推進派と仏教反対派の2つの派閥が出来上がり、激しい対立が始まったからです。これが宗教だけの話なら大きな話にはならなかったのですが、この宗教対立に政治的対立や皇位継承問題も重なり、最終的には丁未(ていび)の乱と言う戦いにまで発展するほどの問題になってしまいます。

 

今回はそんな仏教をめぐる対立について紹介します。

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八百万の神と仏教伝来

日本には、古来から自然を神と崇める八百万の神への信仰がありました。日本は多神教だったのです。そこに仏教による多数の仏さま(釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来などなど)が日本に持ち込まれました。

※仏の種類については以下の記事をどうぞ

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仏様は神様ではないので、考え方によっては日本古来の多神教と仏教はうまく融合しうるものです。現に日本の歴史では長い間、日本古来の神への信仰(神道)と仏教は共存しているし、現代でもそれが維持されています。お正月に初詣に行って、夏にお盆でお墓参りをする姿はまさに神道と仏教の共存を示しています。

 

しかし、当時の日本人は仏教における仏のことを神と捉えていました。そのため、「すでに古来より信仰している神々がいるのに、そこに異国の神を持ち込むとは何事か!!!」と宗教対立が始まりました。

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物部尾輿と蘇我稲目 ー崇仏論争ー

こうして、朝廷内は仏教推進派と仏教反対派に分かれることになります。そして、仏教推進派の代表者が蘇我稲目(そがのいなめ)、仏教反対派の代表者が物部尾輿(もののべのおこし)という人物でした。

臣(おみ)と連(むらじ)

蘇我氏は臣と言う身分の一族であり、さらに臣の中でも代表的な一族だったので、大臣(おおおみ)と言うポジションを得ていた。一方の物部氏は連と言う身分の一族であり、連の中でも代表的な一族だったので大連(おおむらじ)と言うポジションだった。

 

つまり蘇我稲目と物部尾輿の対立は、大臣と大連の対立でもあった・・・と言えます。ところ、臣と連とは何でしょう?

 

あまりピンと来ないかもしれませんが、臣は畿内周辺の有力豪族であり、傍系ではあるが遠く皇族の血を引く一族の中から有力な豪族が選ばれました。一方の連は、地方の有力豪族であり、皇族とは別系統ながら神々の血を引く一族です。

 

臣は傍系であれ皇族の血が流れているのに対して、連は皇族の血は引いていません。よって、連が天皇との結びつきを強めるには、実務で天皇のために貢献するしかありません。そんな事情もあって、連の一族は代々、特定の分野に特化して天皇に近侍することが多く見受けられます。実際に、大連の物部尾輿の一族は代々、軍事や警備を司る一族でした。

 

さらに、皇族との血の引かない神々の系譜を持つ連は、同じく皇族の血を引かない神々であり、ライバルになりうる異国の神を快く受け入れることは不可能でした。

 

このような事情もあって、物部尾輿は仏教反対派に立ちます。

革新派!渡来人を束ねる蘇我稲目

 

蘇我氏は、渡来人系の人々を束ねていた有力豪族であったと言われています。
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渡来人と深く関わっていた蘇我氏は仏教を比較的容易に受け入れていきます。そもそも、本格的に日本に仏教が伝来する以前から渡来人は私的に仏教を信仰していたとも言われています。

 

蘇我一族は、渡来人から伝来する最新の技術や文化を掌握することで朝廷に強い影響力を持っていました。

 

物部氏が保守派なら、蘇我氏は革新派でした。そして両者の対立は、宗教対立であると同時に政治的対立でもあったのです。

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崇仏論争の行方 ー欽明天皇と蘇我稲目ー

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【蘇我氏と天皇の簡単な系図】

 

物部尾輿と蘇我稲目の対立ですが、当初は圧倒的に蘇我稲目有利の展開でした。当時の天皇は欽明天皇(きんめいてんのう。540年~571年)であり、蘇我稲目は欽明天皇とかなり親密な関係にありました。これは上の系図を見ても明らかです。娘を2人も嫁がせている上に、将来的にその息子らが天皇になっています。

 

欽明天皇は、蘇我氏の持つ大陸の最新文化・技術を利用して政治を円滑に行うため、蘇我氏と結びついたのだと思います。

崇仏論争、蘇我稲目の勝利

崇仏論争は、欽明天皇の後ろ盾を得た蘇我稲目の勝利に終わります。

 

欽明天皇「さて、仏教の件だがどのように扱うべきだろうか。大臣・大連の意見を聞きたい。」

蘇我稲目「朝鮮半島やアジアでも広く信仰されている宗教です。日本も最先端の宗教を受け入れるべきです。」

物部尾輿「日本にはすでに八百万の神がおります。異国の神を受け入れるとなれば、八百万の神の怒りに触れるかもしれません。私は仏教受け入れには反対です。

欽明天皇「ふむふむ。(蘇我稲目との関係を大事にしたいから)仏教は受け入れるぞ!」

 

こんな感じでひとまず、仏教は日本に受け入れられるようになりました。

 

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 日本史上初の廃仏運動 ー物部尾輿の逆襲ー

 

しかし、事はそうすんなりとは進みません。蘇我稲目が仏像制作などの仏教信仰に励んでいると、疫病が流行し始め多くの人々が苦しむことになってしまったのです。

 

物部尾輿はこのチャンスを逃しません。物部尾輿は欽明天皇に直訴します。

 

物部尾輿「疫病の流行は、異国の神を信仰したことによる八百万の神の怒りによって発生したものです。今すぐに信仰をやめ、仏像などは破壊してしまうべきです!!」

 

多くの民が苦しむ中、蘇我稲目をフォローしきれなくなった欽明天皇は、物部尾輿の意見を採用し排仏運動を行うことを認めます。こうして、多くの仏像や仏塔が破壊され、日本初の排仏運動が行われました。

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世代交代 ー敏達天皇・蘇我馬子・物部守屋ー

こうして仏教信仰は一旦ストップした状態で、崇仏論争に関わった人々は次々と亡くなっていきます。570年には蘇我稲目、571年には欽明天皇が亡くなります。物部尾輿の亡くなった日は不明ですが、570年ごろを境に主役人物の世代交代が行われます。

 

蘇我稲目を引き継いだのは息子の蘇我馬子、物部尾輿を引き継いだのは息子の物部守屋でした。

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まとめ

550年ごろに伝来した仏教ですが、その受容を巡って物部尾輿と蘇我稲目の間で対立がありました。しかしながら、両者の対立はまだ小競り合い程度であり、本格的な対立には至っていません。

 

ところが、その息子の世代になると両者の対立は政治的対立に皇位継承問題も絡み合い、遂に丁未の乱と呼ばれる本格的な戦いにまで発展してしまいます。

【次回】

丁未の乱とは?蘇我馬子と物部守屋の対立をわかりやすく【崇仏論争の結末】
蘇我稲目と物部尾輿の間で起こった仏教や政治をめぐる対立は、次世代に引き継がれ、次はそれぞれの息子だった蘇我馬子と物部守屋が対立することになり...

【前回】

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この記事を書いた人
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