日本が大敗した白村江の戦いをわかりすく【天智天皇と斉明天皇】

前回までは、大化の改新の話でしたが、時代を少し進めます。

今回は、663年に起こった白村江の戦いの話をしていきます。白村江の読みは、「はくそんこう」または「はくすきのえ」です。

白村江の戦いは、朝鮮半島で起こった戦いであり、日本にとってはその後の国のあり方にも影響した大変重要な戦いでした。まず、白村江の戦いに至るまでの時代背景を見ていきましょう。

孝徳天皇、無念の死

孝徳天皇は、乙巳の変の後、中大兄皇子らと共に様々な政治改革を断行していきました。詳しくは以下の記事をどうぞ。

乙巳の変により邪魔者蘇我氏を排除した中臣鎌足と中大兄皇子。孝徳天皇主導の下、聖徳太子の時代から続く唐(聖徳太子時代は...

しかし、孝徳天皇の治世は決して順風満帆だったわけではありません。次第に孝徳天皇と中大兄皇子・元皇極天皇(中大兄皇子の母)との仲が悪くなってしまったのです。理由はよくわかっていませんが、孝徳天皇と中大兄皇子の間で何かがあったようです

嫁に見捨てられた孝徳天皇

そして653年、遂に中大兄皇子は孝徳天皇に別れを告げます。

これ以上お前と一緒にいるの無理だわ。だから、お母さん(皇極天王)と妹(孝徳天皇の嫁)連れて、昔、母が住んでいた飛鳥に戻るわ。さいなら

孝徳天皇は、これに大反対。「お願いだから思い直そうよ?ね?ちゃんと話せばわかるからさ。それに嫁さんまで連れていくなんて酷いよ・・・

そして、翌年の654年、失意の中、孝徳天皇は亡くなります。

大化の改新により大胆な政治改革を断行した孝徳天皇。その天皇の最後は、悲哀に満ちた最後でした。それにしても妃にまで見捨てられるとは少し異常な感じもします。一体、朝廷内で何があったのでしょうか・・・。今となっては真実を知ることはできないのが悲しいところです。

日本史上初の重祚(ちょうそ)

孝徳天皇の死後、元皇極天皇が再び天皇となります。名前を改めて斉明天皇と言います。この時、斉明天皇62歳。高齢天皇の登場です。

重祚(ちょうそ)とは、一度退位した君主が再び君主となることを言います。珍しい即位方法です。斉明(皇極)天皇は、日本史上初の譲位をした人物であり、日本史上初の重祚をした人物でもあり、とてもユニークな天皇なんです。

斉明天皇がまだ皇極天皇だった頃は、まだ蘇我氏が幅を利かせていた時代だったため斉明天皇はとても肩身の狭い思いをしていました。天皇にも関わらずです。でも、今回は邪魔者はいません。斉明天皇は自分のやりたいように政治を行います。

それだけならわかるのですが、斉明天皇、実はかなりど派手な人物ですやることやることすべてが度を越えた規模で実施されていきます。

奇想天外!北海道遠征

孝徳天皇は、巨大な難波宮を建設することで、世の人に天皇の権威を見せつけます。蘇我氏の滅亡により、天皇による国の統治がだんだん現実味を帯びてきました。

その後、即した斉明天皇。飛鳥に巨大な宮を造るのはもちろんですが、それだけでは飽き足らず、なんと蝦夷地(北海道)へ遠征を実施します。658年〜661年の出来事です。

なぜ北海道へ行ったのか

斉明天皇は、周囲の蛮夷(ばんい。野蛮な人々のこと)を服従させる天下の王として君臨しようと考えていました。そしてターゲットにしたのが東北地方や北海道でした。この時、北海道へ遠征に行ったのは阿部比羅夫(ひらふ)という人物。遠征から帰国した際、ヒグマの皮を持ち帰り、飛鳥の人々を大いに驚かせたそうです。

さらに斉明天皇は、「蝦夷を朝貢国として服従させている日本」を唐にも見せつけようとしました。

小帝国日本を見せつけるとき!蝦夷を連れた遣唐使派遣

斉明天皇は、蝦夷を連れて遣唐使を派遣することを決めました。日本が蝦夷の国を従えた小帝国であることを唐に見せるためです。ちなみに蝦夷とは、東北や北海道の原住民を指しています。

唐皇帝は、蝦夷の見た目に大いに興味を持ったようで「蝦夷の体つきや顔は非常に変わっている!とても興味深いぞ!」と感嘆したようです。

このように、斉明天皇は国内だけではなく国外に対しても日本の権威を見せつけようとしていたのです。

北海道まで遠征した天皇は、古代では斉明天皇のみです。古代とは鎌倉幕府成立前のことを言いますから、この遠征後500年以上北海道への遠征は行われなかったことになります。

斉明天皇の発想は非常に奇想天外だったと言わざるを得ません。

古代の朝鮮出兵!白村江の戦い

663年、日本は唐に戦争を仕掛けます。無謀にもほどがあります。日本は負けました。負けるべくして負けました。

なぜ、日本は無謀な戦いに挑んだのでしょうか?

当時の朝鮮事情 ~百済滅亡~

朝鮮半島は昔から、百済・新羅・高句麗の3国の覇権争いが頻繁に行われていました。

そんな中、660年、遂に3国の1つである百済が新羅・唐連合軍によって滅ぼされます。百済は、残党勢力で敵に対抗するとともに、日本へ使者を派遣しました。

「援軍くれ!あと、百済復興のため、日本に住んでいる王子の余豊璋(よほうしょう)を王にしたいから百済に返してくれ!」

というお願いが使者の目的です。余豊璋は、百済での政争に敗れ国外追放されたのち、日本へやってきた王族の一人です。

日本にとって、この百済の救援に応じるか否かは国の存続に関わる重大な決断でした。

百済を助けるということは、大国唐を敵に回すということ。一方、日本の力で百済の救済が成功すれば、百済を属国のように扱うことができるかもしれない。これは、蝦夷を征服し、天下の王たることを目指していた斉明天皇にとっては、喉から手が出るほど魅力的な話でした。

救援に応じることは、ハイリスクハイリターン。応じないことは、ローリスクローリターンだったのです。

奇想天外な人物だった斉明天皇。もちろん前者を選びます。

斉明天皇の後、本格的に朝鮮出兵が行われたのは豊臣秀吉の時代です。豊臣秀吉の時代は、1550年ぐらいですから、白村江の戦いから約900年後となります。

斉明天皇の行う事業は、良くも悪くぶっ飛んでいるのです。

斉明天皇、道半ばの死

斉明天皇は、自ら出陣します。今でいう大阪を船出して、瀬戸内海を通り、兵を集めながら福岡(筑前)へ向かいます。

天皇自らが戦争に赴くというのは、斉明天皇以降ほとんど行われません。ここに斉明天皇の朝鮮出兵にかける熱意が伝わってきます。

しかし、斉明天皇は、661年、筑前までついたところで、息絶えてしまいます。高齢なのに無理をしすぎたのでしょうか。朝鮮出兵は、斉明天皇の息子である中大兄皇子に託されることとなります。

白村江の戦い ~百済・日本連合vs唐・新羅連合~

663年、日本は上図の矢印が集中している辺りで、唐・新羅連合軍の水軍と対決することとなります。

結果は、惨敗。

唐の水軍が強すぎたのもありますが、日本は実戦経験が少ないことや、一族単位で自分勝手に行動するので、統率がうまくとれないことが大きな敗因でした。

多くの人々が倒れ、生き残った者も奴隷にされるなど日本にとって悲惨な敗戦となりました。そして、生き残った人々にも大きな悲しみを残したことでしょう。

日本史上最大レベルの国家存亡の危機

白村江の戦いでの敗北は、日本滅亡の危機を意味していました。唐・新羅軍が報復として日本に攻め行ってしまえば、日本はたちまち占領国となってしまうからです。

白村江での敗北は、第2次世界大戦に次ぐ日本史上最大レベルの国家の危機をもたらしました。運が悪ければ日本は亡くなっていたのかもしれません。中世にモンゴル帝国からやってきた元寇など屁に思えるぐらい当時の日本はやばかったのです。

日本史上、重要な意味をもつ白村江の戦い

日本はこの敗戦を受け、必死の国土防衛を開始します。

敗戦前の日本は、大国である唐を真似て天皇主権の立派な国づくりを目指していましたが、もうそんな悠長なことは言ってられません。

国土防衛には、一元的な人民の統治が必要です。みんな自分勝手に行動されては、戦いにも勝てないし裏切者も現れます。日本は、敗戦後、死に物狂いで天皇主権の国を作り上げていきます。それは急速なスピードでした。

第2次世界大戦での敗戦は日本に尋常でない影響を与えました。そして、日本の古代史においてもこれに匹敵するような大きな戦いがあったというのが白村江の戦いです。皮肉な話ですが、白村江での敗戦がなければ今の日本はなかったことでしょう・・・。

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