以仁王とは?以仁王の挙兵をわかりやすく紹介!【平清盛との関係など】

今回は、源平合戦のきっかけとなった以仁王(もちひとおう)という人物について紹介します。

1180年、以仁王は各地の源氏に呼びかけ、平氏に対して挙兵をしました。以仁王の挙兵自体はすぐに鎮圧されてしまいますが、以仁王の呼びかけに立ち上がった源氏がその後、平氏を滅ぼすことになります。以仁王の挙兵は源平合戦の始まりとなる重大な出来事でした。

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以仁王ってどんな人?

以仁王は、1151年に生まれた後白河上皇の息子です。以仁王は、血筋も高貴で頭も良かった上に歌や笛も上手だったと言われており、非常に優秀な人物でした

次期天皇の有力候補者でもありましたが、後白河上皇と平滋子の間に生まれた高倉天皇にその座を奪われ、平氏の圧力の前に不遇の時代を過ごすことになります。以仁王が天皇になれなかった背景には、我が子を天皇にと望む平滋子の妨害工作があったと言われています。

高倉天皇については以下の記事を参考にどうぞ。

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皇位から遠ざけられたまま月日が経った1177年、鹿ケ谷の陰謀により後白河上皇と平清盛の対立が決定的なものとなり、1179年には後白河上皇が幽閉されるまでに至ります。

鹿ケ谷の陰謀について以下の記事をどうぞ。

今回は、後白河上皇と平清盛の政争の1つとして有名な1177年に起こった鹿ケ谷の陰謀という事件について紹介します。鹿ケ...

後白河上皇の息子であるという理由から以仁王にも政争の被害が及び、以仁王は自らが所領していた土地を平清盛に奪われてしまいます。さらに1180年3月、高倉天皇の息子の安徳天皇の即位が決まったことで、以仁王が天皇家の傍流となることが確実となります。

皇位を望みを奪われ、経済的基盤の所領も奪われ、一方の平清盛は孫の安徳天皇を強引に即位させている。才気溢れる以仁王には、もはやこの屈辱的な状況を耐え忍ぶことはできませんでした。こうして1180年4月、打倒平氏のために挙兵すること決心します。

以仁王の挙兵までの流れ

しかし、以仁王だけでは平清盛に対抗することはできません。なぜなら以仁王自身は軍事力を持っていないからです。

当時、日本各地に平清盛に対して不満を持つ者は多く存在しました。1179年に清盛が後白河上皇を幽閉して以降、平清盛は後白河上皇や貴族の所領を次々と平家一門の所領へと移し変えていったからです。

これにより、各国の現地で所領や人々を管理していた代理人(目代(もくだい)と言います。)も全て親平氏派の人間へと強引に変えられてしまいます。当然、昔からその土地の目代だった人々は強引な平清盛の人事には反対です。しかし、強大な平氏の力の前に苦汁を舐めることしかできませんでした。

このように潜在的には以仁王の軍事力になりうる勢力はたくさん存在したのですが、不満を持つ人々が平氏の厳しい監視をすり抜けて蜂起をするのは至難の技でした。

しかし、以仁王には同じく平氏に不満を持ち、しかも平氏に厚く重用されていた源頼政(よりまさ)という強力な協力者がいました。

源頼政は、以仁王の挙兵においてキーパーソンとも言える人物になります。

影のキーパーソン、源頼政

源頼政について少し紹介しましょう。

平治の乱で源氏の棟梁である源義朝が死に、その息子の源頼朝が伊豆へ流されたことで、実質的に源氏は没落することになります。しかし、源頼政は少し変わっていて平氏の下で着実に出世し、従三位という高い身分にまで成り上がっていました。当時、平氏以外の武士で従三位という高い身分になれたのは源頼政だけであり、源氏でありながら平氏一門からの信頼が厚かったことが伺えます。

ところが平氏からの強い信頼もあった源頼政は突如として平氏を裏切り、以仁王と行動を共にするようになりました。

平氏の動きをよく知る源頼政が協力者になったことで、以仁王の挙兵計画はかなりの現実味を帯びるようになります。

以仁王の令旨

1180年4月9日以仁王は源頼政と協力し、各地の源氏たちに打倒平氏の蜂起を呼びかける令旨を送ります。令旨とは本来、皇太子や皇后などが出す命令のことを言います。以仁王はそのような身分ではありませんでしたが、自らの次期天皇、つまり皇太子に見立てて令旨を出したのです。

以仁王と源頼政には、長年平氏によって抑圧されてきた源氏たちなら以仁王に賛同するだろうという確信がありました。以仁王は、源頼政のツテを利用し秘密裏に令旨を各地へ送り込むことに成功。こうしてこれまで平氏の圧力に屈していた各地の人々が次々と蜂起し、各地で戦乱が起こるようになります。以仁王は、各地の源氏たちと共に自らも挙兵することを考えていたようです。

以仁王の挙兵

しかし、以仁王の令旨は5月上旬に早くも平氏の知るところとなり、平清盛らは以仁王に対して兵を派遣することを決定します。以仁王は、こんなに早く平氏に挙兵がバレるとは思っておらず、以仁王の挙兵計画は早くも瓦解することになります。

平氏の動きに気付いた以仁王は、園城寺というお寺に逃げ込みます。園城寺は天台宗の有力寺院であり、多くの僧兵を抱え込む大寺院。お寺といえばなんだか平和なイメージがありますが、園城寺に逃げ込むというのは堅牢な城の中に逃げ込むのに等しい行為でした。

3大寺院勢力 ー延暦寺・園城寺・興福寺ー

以仁王の挙兵や源平合戦には寺院勢力も大きく関与しています。ここでは、少し話が逸れますが、当時の寺院勢力について話したいと思います。以仁王の挙兵に関しては、延暦寺・園城寺・興福寺の勢力が大きく関与していました。

まず延暦寺と園城寺ですが、どちらも天台宗のお寺です。しかし天台宗と一言に言ってもその教理などの違いにより天台宗の中でも大きく2つの勢力が構成されていました。それが延暦寺と園城寺というわけです。(延暦寺は山門派、園城寺は寺門派という名で呼ばれていました)考え方の違う両者は、本質的に対立しやすい関係にありました。

天台宗は、密教と顕教を融合させた複雑な宗派であり、必然的に内部分裂が起きやすい宗派だったのでは・・・と個人的に思っています。

鹿ケ谷の陰謀という事件により、平氏一門は延暦寺と良好な関係を持つようになります。詳細は以下の記事をどうぞ。

今回は、後白河上皇と平清盛の政争の1つとして有名な1177年に起こった鹿ケ谷の陰謀という事件について紹介します。鹿ケ...

ということは、逆に園城寺と平氏の関係は微妙なものだった・・・ということです。現に園城寺は後白河上皇と親密な関係にあり、1179年の後白河上皇の幽閉に不満を持っていました。このような背景があったので、以仁王は園城寺へ逃げ込んだわけです。

延暦寺・園城寺と並ぶ有力寺院として興福寺があります。興福寺は藤原氏の氏寺ですが、これまた同じく1179年に後白河上皇が幽閉されたとき、同時に摂関藤原氏も幽閉されており、興福寺も平氏の強引なやり方には不満を持っていました。

平氏は延暦寺と良好な関係を保つことで寺院勢力をなんとかコントロールしたいと考えていましたが、1180年2月、高倉天皇が恒例行事の神社参りで最初の参詣先を平氏御用達の厳島神社にしてしまったことで、両者の関係は脆くも崩れてしまいます。
延暦寺は、高倉天皇が厳島神社を参詣先に選んだことを、既存の寺院を軽視した行為と考え、高倉天皇や高倉天皇のバックにつく平氏に強く反発することになります。

つまり、以仁王の挙兵当時、延暦寺・園城寺・興福寺の3大寺院は全て反平氏という姿勢で一致していたということになります。

平氏の裏工作

平氏軍は園城寺に逃げ込んだ以仁王に簡単に手出しはできません。権勢を誇った平氏といえども、強力な僧兵を有し神や仏を持ち出す寺院は相当に厄介な勢力だったのです。寺院勢力の強さはについては以下の記事が参考になるかもしれません。

院政という新スタイルの政治を始め、天皇の父の立場から強大な権力を手中に収めた白河法皇ですが、次のような有名な名言を残しています。 ...

平氏軍は寺院勢力に対してストレートに武力で衝突することはせず、反平氏で一致団結していた延暦寺・園城寺・興福寺の関係を引き裂こうと裏工作をすることにします。もともと園城寺と延暦寺は宗教的に対立関係にあり、おそらくその点を利用したのだと思います。平氏軍は、延暦寺を反平氏から中立の立場へと変えさせることに成功します。延暦寺と平氏は鹿ケ谷の陰謀以後、良好な関係にあったことも幸いしたのでしょう。

反平氏勢力の力を削ぐことに成功した平氏軍は、いよいよ園城寺へ攻め入ることになります。しかし、以仁王は平氏軍の園城寺攻めの情報を事前にキャッチしていました。以仁王は園城寺を脱出し、もう1つの有力寺院である奈良の興福寺へと逃亡することになります。

源頼政の暗躍

この時の平氏軍の園城寺攻め計画には、源頼政の名もありました。源頼政は巧みに平氏を騙しており、この時点でもまだ裏切りに気付かれていなかったことになります。

しかし、事ここに至り源頼政は密かに平氏軍勢から抜け出し以仁王のいる園城寺へと合流。以仁王と共に兵を率いて奈良の興福寺へと向かいます。

平氏軍は、この時ようやく源頼政の裏切りに気付きました。平氏軍を最後まで騙すことに成功し、以仁王の挙兵を支援した源頼政は源平合戦におけるダークホース的な存在と言えるかもしれません。

平等院の戦い

【戦いの様子】

奈良へ向かった以仁王・源頼政の軍勢はおおむね1000騎と言われています。そして、平氏軍も以仁王らを追撃。以仁王・源頼政軍は今で言う宇治市の平等院のところで平氏軍に追いつかれ、両者宇治川を挟んで対峙することになります。

源頼政は宇治川に掛かる橋板を外し、矢を放って平氏軍を襲います。(この時の戦いの様子が上の絵に描かれています。)

源頼政軍は平氏軍がどれぐらいの規模だったかはわかりませんが、平氏軍の攻勢に耐えることができません。次第に平氏軍が宇治川を渡り、源頼政・以仁王軍を襲うようになります。

源頼政軍は、一旦平等院へ引き、平等院を最終防衛線として最終決戦に臨みます。宇治川の戦いでボコボコにされていた源頼政軍にはわずかな軍勢しか残されておらず、源頼政にとっては死を覚悟しての最後の戦いになります。

平等院の戦いにより死を悟った源頼政は自害。その息子らも次々と亡くなってゆきますが、それでも以仁王はなんとか平等院から抜け出すことに成功します。しかし、その以仁王も平氏軍に追いつかれ、興福寺にたどり着くことなく殺されてしまいます。

以仁王挙兵のその後

以仁王の挙兵は失敗しましたが、亡き以仁王の意志は令旨として各地の源氏たちへと伝わりました。令旨を受け取った各地の源氏たちが何を思ったかはわかりません。しかし、平氏軍が令旨を受け取っていそうな源氏たちを討伐しようとしたことで、源氏たちは否が応でも立ち上がらなければいけなくなります。

平氏の強硬な態度が、令旨を受け取った源氏たちを「窮鼠猫を噛む」の状態に追い込んだのです。

以仁王の令旨により、東国では大きく2つの源氏勢力が立ち上がり、平安京へ上京を始めました。その2大勢力が源頼朝と源義仲という人物です。

こうして以仁王の令旨をきっかけ進軍する源氏とそれを阻止しようとする平氏との間で激しい戦いが行われるようになります。そして、これこそがまさに源平合戦の始まりです。以仁王の存在はまさに源平合戦開始の狼煙となるような存在だったのです。

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