前回は、悲劇の天皇、三条天皇のお話をしました。
今回は、三条天皇の次の天皇である後一条天皇の時代の話をしようと思うのですが、正直、後一条天皇ってとっても地味なんです・・・。
ということで、今回は藤原道長が詠んだ有名な一句「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」について解説しようと思います。
この句は、道長自らが「俺はこの世の全てを手に入れた」と自身の権勢を高らかに誇った歌ですが、この一句が読まれたのが後一条天皇の時代でした。
ということで、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を詠んだ時代背景や道長の想いについて紹介します。
藤原道長の出世と引退
1016年、後一条天皇が即位しますが、当時、後一条天皇の年齢は8歳。幼少天皇であるため、道長が摂政を務めることになりました。
藤原道長=摂関政治というイメージがありますが、995年に内覧宣旨を受けてから約20年の間、実は道長は一度も摂政・関白になったことはありません。この時初めて道長は摂関職に就くことになりました。
藤原道長の引退
後一条天皇即位頃から、道長は引退を考えていたようで、自らのキャリアの総仕上げにかかります。
1017年、わずか一年で摂政を息子の藤原頼通に譲り、自らは太政大臣となりました。そして、1018年の2月に早々に太政大臣を辞しています。
道長は、既に朝廷内での最高権力者の地位を確立していたため、今さら摂政になっても、太政大臣になっても道長の状況に変わりはありません。なぜこのようなことをしたのかというと、単に自らのキャリアに箔をつけるためだと考えられています。特に太政大臣は名誉職的な意味合いも強い官職であり、この後、平清盛も道長と似たようなことをしています。
一家三后へ、藤原威子の立后
1018年、道長は官僚を引退したわけですが、政治に対しては頻繁に口を出し、引き続き実質的最高権力者として君臨していました。息子で後継者の藤原頼通も何か事あるごとに道長に相談をしていたようです。
そんな道長ですが、娘の藤原威子を後一条天皇の皇后にしたいと考えるようになります。
この時点で、道長に逆らえる者は存在せず、威子を皇后にすることは容易いことでしたが、威子が皇后になるということは、道長の娘3人が太皇太后・皇太后・皇后を独占するということを意味し、さすがにそこまで図々しことは直接言えなかったのか、藤原彰子から「威子を早く立后させましょう」という提案があったようです。(多分、彰子も道長のために空気を読んであげたんだと思います・・・)
ちなみに一家三后の話は以下の記事でも触れているので参考までにどうぞ。
一家三后の凄さ
一家三后というのは、当時としては凄まじい出来事でした。
平安時代の朝廷というのは常に権力争いが絶えない場です。
969年、安和の変という事件以後、藤原氏以外の一族は最高権力者の座を巡る争いから追放されてしまいます。そのため969年以降、藤原一族同士で最高権力の座を巡る争いが繰り広げられていたわけです。
そして、「最高権力の座」とはつまりは「天皇の外戚」という地位を確立すること。多くの藤原一族がその座を巡り争いました。(このサイトでも道長の話はほとんどが権力闘争の話になっています・・・)
争いと言っても、武力闘争に発展することはありません。イメージ的には、会社で行われる出世のための他人の蹴落とし合いに近いでしょう。
奈良〜平安時代初期の権力争いは、軍隊が動くほどだったので、その点は平和的になったという意味で進歩と言えるかもしれません。
朝廷内では、陰謀にまみれた藤原氏同士の一進一退の権力闘争が続くわけですが、道長の一家三后の実現によって、朝廷内の権力争いにもひとまずの終止符が打たれました。
圧倒的強者として道長が君臨したため、既に戦いにすらならない状況になってしまったからです。
道長の一家三后実現後、摂関職は世襲制になっていき、道長→頼通という一族(御堂流と言います。)が担うものへと変化していきます。(必ず血縁関係が必要という考え方が次第に薄れていったようです。)
以上が、一家三后という事実の凄さと歴史的意義です。
道長が有名な一句を詠んだのはまさに一家三后が実現したその時でした。
威子立后の後の酒宴にて
1018年10月、遂に威子が皇后となりました。そして、立后の儀の後、道長の自宅で酒宴が開かれました。
道長が有名な一句を詠んだのはこの時です。
道長「こ、これ即興で作った歌で、前から考えてたわけじゃないから!」
酒宴は、多くの人が集まりそれはそれは壮大なものでした。
道長は、藤原実資という人物(当時の有能な官僚です。)に歌を詠まないかと提案します。
道長「歌を詠みたいんだけど、実資も一緒に一句詠もうぜ!」
実資「う、うんいいけど(歌あんまり得意じゃないんだよなぁ・・・)」
道長「一応言っておくけど俺がこれから詠む歌は、今考えた歌で事前に用意してたものじゃないからな。か、勘違いしないでよね!」
道長「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(き、きまった!)
実資(テキトーに褒めて、返歌しなくていいようにしたろ)
実資「これほどに優雅な歌に対して、私には返歌などはできませぬ。むしろ、道長の素晴らしい歌を皆で繰り返し詠み、皆でこの傑作の意味を味わおうではありませんか!」
こうして、実資の周りの者も巻き込んで、みんなで道長の歌を詠むことになりました。道長はこれをとても喜び、返歌のことなど忘れてしまったようです。この一句の裏には、そんな無邪気な道長の姿がありました。
「この世をば・・・」の意味
知っている方も多いと思いますが、この道長の一句は次のような意味です。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」という意味)
(出典:wikipedia「藤原道長」)
朝廷内では陰湿な権力闘争が繰り広げられており、あまり自分の気持ちをストレートに表現することは多くありません。そのような意味では道長のこの一句は、少し異質な感じがします。しかし、一家三后を実現し、敵のいなくなった道長にはそのような気兼ねをする必要は既にありませんでした。
そのストレートさ故に、この句は、道長の本心を吐露していると断言しても良さそうです。
豪腕と豪運の藤原道長の生涯
句の意味を知ると、「藤原道長は傲慢で天皇を軽視している!」なんて思うこともありますが、藤原道長がこうして自分の気持ちを表現したくなるのにも理由があって、道長自身、長い間、権力闘争に明け暮れ、それなりに苦労をしていたんですね。(道長の権力闘争の経過は別の記事で紹介してきました)
そんな苦難を豪腕と豪運で乗り越えてきたわけですから、傲慢とか不謹慎とかじゃなくて、単純に心中を公にしたくなる気持ちも私にはよーくわかるような気がします。
藤原道長の出家
全てを手に入れた道長は、この翌年の1019年、出家し、仏教へ信仰を深めていくことになります。壮大なお寺を建てたりもしました。(現存はしていませんが・・・)
世代交代 〜道長から頼通へ〜
さて、次は道長の息子である藤原頼通の話をしたいと思います。
頼通は平等院鳳凰堂を建立した人物として有名ですが、藤原道長が有名すぎるのでどうもマイナーキャラになってしまいがちです。
ですが、通史的には藤原頼通は、良いか悪いかは別として、平安時代に長く続いた摂関政治の流れを断ち切る原因を作ってしまったキーパーソンです。というわけで、人物的にはつまらないかもしれませんが、藤原頼通の話にチャレンジしてみたいと思います。
【次回】
【前回】
コメント
素晴らしい解説です。くわえてぼくは誰に対して詠んだかを考えてみました。権力者となった道長が今更世間に言うはずはないと考えました。
では誰に、御先祖様。藤原不比等だと思います。彼は娘二人を皇后です。自分は三人ですと。
近年の研究では、道長がこの歌を詠んだ頃は道長は糖尿病で体調を崩し目が見えなくなっていたと言う説もあるそうです。
それを採用するなら、物悲しさを感じる歌になりますね。