遣唐使廃止の理由とは?【菅原道真のすべてを解説!】2/3

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学問の神様こと菅原道真がなぜ、左遷され怨霊として祟りを起こしたか?というのをわかりやすく解説するというのが当初の目的でしたが、菅原道真といえば遣唐使の廃止の話は外せません!

ということで、少し本題から外れますが、遣唐使の廃止について見ていきます。

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実は遣唐使を廃止したちゃんとした理由はわかっていない

いきなり結論!実は遣唐使が廃止されたはっきりした理由はよくわかっていません。

というか、学校で習う「白紙(894年)にしよう遣唐使廃止」というのも、厳密には違う可能性があります。

894年、日本では遣唐使の派遣を計画しており、確かにその計画は中止されました。その時の大使が菅原道真であり、中止を提案したのも菅原道真です。

しかし、中止後も菅原道真の大使としての任は解かれませんでした。ということは、中止は一時的なものであり、遣唐使自体は廃止されていない可能性があるのです。

さらに、大使であった菅原道真は901年に藤原時平との政争に敗れ、大宰府へ左遷されてしまいますが、同時に遣唐使の大使という任も自然消滅してしまいます。

そして、その後大使として任命される人物も登場せず、遣唐使の派遣計画も自然消滅してしまいます。

という感じで、「遣唐使は廃止する!」と誰かがきっぱりと決めたわけではなく、自然と派遣計画が消滅していったので、なぜ廃止したのか、いつ廃止されたのか、明確な部分がわかっていないのです。

しかし、894年に遣唐使派遣を中止した後、「もう一回派遣しようぜ!」という話が出てこなかったあたりを踏まえると、日本としても遣唐使派遣には消極的でわざわざ危険を冒して中国へ行く必要性はないと考えていたのは確かなように思います。

なぜ遣唐使の派遣を中止したのか?

遣唐使自体を廃止した理由はわからないとしても、894年に計画された遣唐使派遣をなぜ中止したのか?という点については、わかっています。

菅原道真は次の2点を理由として挙げました。

  1. 唐では内乱が続いており、情勢が不安定であり危険である。
  2. 過去の派遣を見ると、航海中に命を落とす可能性がとても高い。派遣で優秀な人材を失うわけにはいかない。

特に2点目の理由に注目です。奈良時代には、頻繁に派遣していた遣唐使ですが、平安時代になると派遣回数が激減。894年の派遣計画は実に半世紀ぶりの計画なので、派遣事情についても昔の情報を調べなければならなかったのです。奈良時代なら、頻繁に唐へ行っていたので遭難が頻繁に起こり、命がけの航海となることは周知の事実でした。

さらに、一番重要なのは奈良時代には危険を冒してでも唐に行く価値があったのですが、平安時代になると「そこまでして唐に行く意味なくね?」という風潮が強かったという点です。

というわけで、平安時代以前の遣唐使派遣の背景について、少しおさらいしましょう!日本で唐への派遣が不必要になっていく過程がわかると思います。

日本の遣唐使派遣事情まとめ

日本と中国との交易は、古墳時代や卑弥呼の時代にまで遡りますが、今回は、聖徳太子がいた頃(600年ぐらい)まで遡って説明します。

聖徳太子の時代【飛鳥時代】

この頃(600年ぐらい)は隋という国だったので遣隋使と言います。

聖徳太子の時代の遣隋使は、実に100年以上ぶりに決定された派遣で平安時代までの遣唐(隋)使の始まりと言えます。という意味でも聖徳太子はやはり有名人物なのです。

この時代の派遣目的は、「隋の近くにはこんなすげぇ国があるんだぞ!なめんなよ!」と日本という国を隋にアピールすることにありました。

詳細は、

当時の日本は、隋や朝鮮半島にある新羅、百済、高句麗と密接な関係を持っており、日本が優位に立つため、他国になめられないよう日本という国が強いということをアピールする必要があったのです。

ある意味、冷戦といえる状況でした。自国防衛のためにも遣隋使は絶対に派遣しなければなりませんでした。

斉明天皇の時代【飛鳥時代】

663年、日本は唐・新羅連合軍に戦争を仕掛けます。白村江の戦いと言われるものです。

【詳しくは、第2次世界大戦に次ぐ日本史上の大敗、白村江の戦いをどうぞ】

この戦いで日本は大敗。これが原因で700年ごろまで日本と唐は国交断絶状態になります。

奈良時代初期

白村江の戦いでの大敗から30年程度が経った700年ごろ、再び遣唐使派遣が再開されます。(再開理由ははっきりとわかっていません)

この再開により、日本は長安の都を目の当たりにし、日本でも長安を真似て平城京の建設が開始され、また、多くの法律や仏教に関する文書が日本に伝わりました。

詳細は、素朴な疑問。なぜ日本人は平城京へ遷都した?-遣唐使派遣-【その1】をどうぞ

日本は白村江の戦いの敗戦国です。それが理由なのかは不明ですが、唐と日本は「日本が20年に一回、唐へ朝貢(貢物を持って服従の意を示すこと。)する」ということを約束しています。

服従の意を示すと言っても、朝貢というのはそれほど厳しい内容ではありません。当時の複雑な国際事情を踏まえ、日本と唐で合意に至ったのです。(詳しくは~)

奈良時代後期~平安時代

奈良時代後期や平安時代になると、遣唐使は唐の文化を日本に持ち込むという意味合いが強くなり、政治的な意味合いが薄くなっていきます。

唐との関係は良好であり、朝鮮半島とは鎖国状態となり、遣唐使を派遣する絶対的な理由は既になくなっていたのです。

日本に持ち込まれた唐の文化で代表的なものが仏教です。

あの鑑真が日本に来日し、戒律を伝えたのもちょうどこのとき。

(詳しくは誰でもわかる鑑真来日の感動物語【なぜ日本に戒律を伝えたのか】をどうぞ)

そして天台宗の祖である最澄と真言宗の祖である空海が中国からこれらの宗教を持ち込んだのもこのときです。

平安時代中期 -必要なくなる遣唐使、ついに廃止へ-

遣唐使派遣の政治的必要性がなくなった後も、唐の文化を日本に取り込むために遣唐使派遣を続けますが、平安時代になると、それまで唐から持ち込んだ文化と昔からの日本の文化が融合した日本独自の文化が芽生えてきます。(教科書的に言えば、これが国風文化!)

そうすると、政治的な必要性もなければ唐から文化を取り込む必要性すらなくなってきます。

こうして遂に830年頃を最後に遣唐使の派遣はされなくなってしまいます。

そして、久しぶりに計画されたのが894年の遣唐使派遣計画でしたが、菅原道真の提案により、危険だという理由で計画は中止となり、その後、菅原道真が政争に敗れ政治世界から追放されたことで、遣唐使の派遣は自然消滅し、その後二度と派遣されることはなくなってしまったのです。

以上、古代日本の遣唐使派遣事情でした。同じ遣唐使でも時代によってまるで役割や意味合いが違っているのです。学校の授業じゃあまり教わらないところですね!

次回は、菅原道真が日本3大怨霊となった理由

日本の3大怨霊と言えば、菅原道真、平将門、崇徳天皇。

次回は、菅原道真が怨霊となるまでの経緯を説明します。

次:菅原道真の左遷と学問の神様になった理由【昌泰の変】3/3

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