

今回は遣唐使について、目的・歴史・船と航路・廃止した人物まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「誰が廃止した?」「なぜ停止されたの?」「白紙に戻すってどういう意味?」という疑問もスッキリ解決するから、最後まで読んでみてね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
「遣唐使は894年に菅原道真が廃止した」——そう覚えている人は多いはずです。
実は、これは正確な表現ではありません。菅原道真が建言したのは「廃止」ではなく「停止」であり、その後、遣唐使が再開されないまま自然に消滅した、というのが歴史学の見方です。「白紙に戻す」という有名な語呂合わせが広まったために、単純化された誤解が生まれてしまったのです。
今回は、遣唐使とは何かという基礎から、目的・歴史・船と航路・渡った人物・廃止の理由まで、丸ごとスッキリ解説していきます。
遣唐使とは?
遣唐使とは、630年から894年まで、日本が唐(中国)へ派遣した公式の使節団のことです。律令制度や仏教、最新の文化・技術を学び取って日本に持ち帰ることが目的でした。
派遣された期間は約260年、回数はおよそ十数回に及びます。任命された回数(19回ほど)と実際に渡海した回数(12〜15回ほど)には差があり、嵐で渡れなかった船や、計画段階で停止になった派遣も含まれているためです。
- ①630〜894年に日本が唐へ派遣した使節団。約260年で十数回
- ②目的は律令制度・仏教・文化・技術の輸入。「国費の海外留学」のような国家事業
- ③894年に菅原道真が「停止」を進言。その後再開されず自然消滅

遣唐使という言葉でセットで思い浮かぶのが遣隋使ですよね。聖徳太子が小野妹子を派遣したあの使節団です。なぜ似た名前の使節団が二つあるのでしょうか。

遣隋使と遣唐使って、名前が似ていてよくわからないんだけど、どう違うの?

シンプルに言うと、相手の中国の王朝が違うんだよ。隋(589〜618年)が滅んで唐(618〜907年)が建国されたから、派遣する国にあわせて遣隋使→遣唐使と呼び方が変わったってわけ。中身は「中国に学びに行く使節」で同じ目的なんだ!
つまり遣唐使は、聖徳太子の時代から続く「日本が中国に学ぶ国家事業」の流れを引き継いだ使節団というわけです。次の章では、その遣唐使がいったい何を学びに行ったのか、目的と成果を見ていきます。
遣唐使の目的と成果
遣唐使はただの「お土産買い付けツアー」ではありません。当時の唐は世界最先端の超大国で、政治・宗教・学問・芸術・医術のすべてが日本より遥かに進んでいました。日本はその唐に追いつくため、国費で人材を送り込んで知識・制度を持ち帰る、いわば国を挙げての海外留学プロジェクトを展開したのです。
派遣の目的は、大きく次の3つにまとめられます。
目的①:律令制度の導入(唐の政治・法律のしくみを取り入れて日本の国家体制を整備)
目的②:仏教・文化の輸入(最新の仏教経典・学問・芸術・医術を日本に持ち帰る)
目的③:外交・国際的地位の確保(唐との友好関係を結び東アジアの秩序に参加する)
とくに大きな成果が目に見える形で表れたのが、701年の大宝律令です。これは唐の律令を日本向けにアレンジして作られた法体系で、遣唐使が持ち帰った知識なくしては成立しませんでした。律令国家としての日本の骨格は、まさに遣唐使が運んできたといえます。
仏教の面でも遣唐使の貢献は大きく、後ほど登場する空海が真言宗、最澄が天台宗を持ち帰り、平安仏教の二大宗派を生み出します。さらに鑑真の来日(753年)によって本格的な戒律制度も整い、日本仏教は急速にレベルアップしていきました。

イメージとしては、今でいう「国費による海外留学」が一番近いかな。海外の有名大学に有望な人物を国費で留学させて、最先端の技術や思想を持って帰ってもらう。それを国家事業として260年も続けたのが遣唐使ってわけ!
このように遣唐使は、律令・仏教・文化のあらゆる面で日本を一気に近代化させる原動力になりました。次の章では、630年に始まったこの大事業が、奈良時代を経て平安時代にどう変化していったのか、歴史の流れを追いかけていきます。
遣唐使の歴史(飛鳥〜平安時代)
遣唐使の歴史は、630年の派遣開始から894年の停止まで、およそ260年に及びます。時代区分でいうと飛鳥・奈良時代・平安時代の3つにまたがる長期プロジェクトです。それぞれの時代で、誰が、どんな目的で派遣されたのかを順番に見ていきましょう。
■飛鳥時代(遣隋使から遣唐使へ)
遣唐使がスタートしたのは630年。第1回の使節として唐に渡ったのは、犬上御田鍬でした。じつは犬上御田鍬は、614年に最後の遣隋使も務めた人物です。彼の経歴は、ちょうど遣隋使から遣唐使への橋渡しを象徴しています。
背景には、618年に隋が滅び、唐が建国されたという中国側の大きな政変があります。新しい王朝・唐との関係を作り直すために、日本側は新たな使節を送る必要に迫られたのです。飛鳥時代の遣唐使は、まずは政治的な「ご挨拶」と情勢探りが中心でした。
その後、白村江の戦い(663年)で日本が唐・新羅連合軍に大敗すると、日本にとって唐は脅威になります。それでも遣唐使は止まらず、むしろ唐の制度を学んで国力を高めようとする方向に切り替わっていきました。
■奈良時代(最盛期・阿倍仲麻呂・吉備真備)

奈良時代に入ると、遣唐使は最盛期を迎えます。代表的なのが717年(養老元年)の派遣で、このとき阿倍仲麻呂と吉備真備という、後に教科書に必ず出てくる二大スターが揃って唐に渡りました。
阿倍仲麻呂は唐の官僚試験に合格し、玄宗皇帝に仕える高官にまで登り詰めます。一方、吉備真備は中国の儀式・暦・兵法を体系的に学んで帰国し、後に右大臣にまで出世しました。奈良時代の国家運営を語るうえで欠かせない人物が、ここから生まれていきます。

唐への航海はまさに命がけでした。嵐に翻弄され、難破し、仲間を失いながらも、わたしは2度も唐に渡りました。一国の未来を変える知識を持ち帰る——それが遣唐使の使命だったのです。
さらに753年には、唐の高僧・鑑真がついに来日を果たします。彼は5回の渡海失敗で失明しながらも、6度目でようやく日本にたどり着いた人物。これも遣唐使がもたらした大きな成果のひとつです。
■平安時代(空海・最澄、そして衰退へ)

平安時代に入ると、遣唐使の派遣回数はぐっと減っていきます。それでも804年の派遣は特別な意味を持ちました。このとき乗船していたのが、後に日本仏教を二分する空海と最澄だったからです。
空海は長安で密教を学び、帰国後に真言宗を開きます。最澄は天台山で天台宗を学び、比叡山延暦寺を拠点にしました。後の鎌倉新仏教の源流まで、すべてこの遣唐使が運んできた成果といえます。

空海と最澄って、同じ船で唐に渡ったの?

同じ「804年の遣唐使」だけど、実は別の船なんだ。当時の遣唐使は4隻で出発するのが基本で、空海は第1船、最澄は第2船に乗ってたんだよ。同じ使節団でも、出発から到着まで個別に動いてたんだ!
しかし、9世紀後半になると、唐そのものが内乱で崩壊寸前の状態になります。875年に始まった黄巣の乱を境に、唐は学ぶ価値のある国ではなくなっていきました。こうして遣唐使は、894年の停止へと向かっていきます。次の章では、この命がけの渡航を支えた遣唐使船と航路の実態に迫ります。
遣唐使の船と航路(危険な渡航の実態)
遣唐使は華やかな国家事業に見えますが、実態は「死を覚悟する旅」でした。船の性能が低く、航海技術も未熟だったため、無事に往復できた船のほうが珍しいくらいだったのです。

遣唐使船は通常4隻一組で派遣され、1隻あたり100〜150人ほどが乗り込みました。ここに大使・副使・留学生・通訳・船員が同乗します。ところが船は平底の構造で外洋航海には向かず、嵐に遭うとあっけなく転覆や難破に至ったとされます。
航路は時代によって3つに変化しました。整理すると次のとおりです。
北路(7世紀):朝鮮半島沿いを北上して山東半島に渡る。比較的安全だが新羅との関係悪化で使えなくなる
南島路(8世紀前半):南西諸島を経由して東シナ海を横断する遠回りルート。距離が長く危険
南路(8世紀後半〜9世紀):五島列島から東シナ海を一気に横断。最短ルートだが嵐の被害が深刻
📌 航路変更の理由:当初は朝鮮半島沿いの北路が使われていたが、白村江の戦い以降に新羅と関係が悪化し、朝鮮半島を回避するルートへ。8世紀以降は東シナ海を直接横断する南路・南島路がメインになった。
この南路がいかに危険だったかを示す象徴的なエピソードが、阿倍仲麻呂の帰国失敗です。彼は753年に帰国の途につきましたが、嵐でベトナム方面まで流され、結局日本に戻れないまま唐で生涯を終えています。
来日した鑑真も同じです。彼は753年にようやく日本に到着しましたが、それまでに5度の渡海が失敗し、その過程で失明したと伝わります。「遣唐使に乗る=命を投げ出す覚悟」だった、というのは決して大げさな話ではないのです。

現代の飛行機なら東京〜上海は3時間ほど。それを当時は、平底の木造船で何日もかけて東シナ海を渡ったんだから、本当にすごい話だよね。後の章で出てくる「廃止の理由」の背景にも、この危険性がしっかり関わってくるよ!
命がけの渡航を実際にくぐり抜けた人物たちは、帰国後にどんな足跡を残したのでしょうか。次の章では、遣唐使として渡った主な人物を整理し、それぞれの活躍ぶりを見ていきます。
遣唐使として渡った人物たち
遣唐使には、後の日本史に大きな足跡を残す人物が次々と参加しました。とくに教科書で頻出する4名を整理しておくと、テスト対策にも論述にも使いやすくなります。
阿倍仲麻呂:唐で高官として活躍し、日本に帰れぬまま唐で没した悲劇の遣唐使
吉備真備:2度の渡唐で唐の学問・制度を体系的に持ち帰り、帰国後に右大臣まで出世
空海・最澄:804年に渡唐。空海は密教(真言宗)、最澄は天台宗を持ち帰り平安仏教を確立
阿倍仲麻呂は717年に19歳前後で唐に渡り、玄宗皇帝のもとで官僚として頭角を現した人物です。漢詩人としても評価が高く、李白や王維とも交流したと伝わります。753年に帰国を試みますが、船が暴風雨で南方へ流され、ついに日本の地を踏むことなく唐で没しました。
📌 李白が詠んだ「誤報」の哀悼詩:753年、阿倍仲麻呂の帰国船が嵐で漂流したとき、唐の友人たちは彼が死んだと信じました。詩人・李白は「明月帰らず碧山に沈む」と詠んだ哀悼詩「晁卿衡を哭す」を著しましたが、実は仲麻呂は生きていました。悼む詩が「誤報」になってしまったこのエピソードは、仲麻呂と李白の深い友情を今に伝えています。
吉備真備は2度も唐に渡り、暦・天文・音楽・兵法・建築など、当時の日本に欠けていた知識を体系的に輸入しました。帰国後は奈良時代の政治の中枢で活躍し、最終的に右大臣にまで昇進。学者出身でここまで出世した人物は奈良時代でも例外的です。
📌 「吉備大臣入唐絵巻」の伝説:平安時代に描かれた絵巻物には、吉備真備が唐で試練に立ち向かう場面が描かれています。唐の官人たちが様々な難問で困らせようとしたのに対し、吉備真備は卓越した知識と機転で次々と切り抜けた——という物語です。史実ではなく伝説ですが、後世の人びとが吉備真備をいかに「天才学者」として敬愛していたかが伝わるエピソードです。
空海と最澄は、すでに紹介したとおり、804年の遣唐使船に同乗した二大僧侶です。彼らが持ち帰った密教と天台宗が、平安時代の宗教文化の二大柱になりました。

空海や最澄も遣唐使だったのね。てっきり個人で渡ったのかと思ってた!

2人とも国費で派遣された「留学僧」だったんだ。当時の仏教は完全に国家事業で、優秀な僧を選抜して国の費用で留学させてたんだよ。今でいう国費留学生って感じだね!
こうして遣唐使は、律令制度・仏教・学問・芸術と、日本のあらゆる分野をアップデートし続けてきました。ところが9世紀末、その大事業に終止符を打つ建言が、ある一人の貴族から提出されます。次の章では、いよいよ遣唐使廃止の理由と、894年に進言した人物——菅原道真——の話に入っていきます。
遣唐使廃止の理由と「白紙に戻す894年」——菅原道真が進言したのは何だったのか?
結論から言うと、894年に遣唐使廃止を進言した人物は菅原道真です。当時、菅原道真は遣唐大使に任命されていましたが、唐の衰退と渡航の危険性を理由に、宇多天皇に派遣の停止を上奏しました。
ただし、ここで一つ大事な注意点があります。教科書では「廃止」と書かれることも多いのですが、菅原道真が進言したのは正確には「廃止」ではなく「停止」でした。「次の派遣を一旦やめる」という決定であり、その後再開されることなく自然消滅していった——というのが歴史学の通説です。
菅原道真は学者出身の官僚で、当時の文人政治を代表する人物でした。894年、宇多天皇によって遣唐大使に任命されますが、自ら大使を務めるはずの遣唐使を「今は派遣すべきではない」と進言したのです。当事者がストップをかけた、というのがこの出来事の特徴です。

私が進言したのは「廃止」ではなく「停止」です。唐の内乱はひどく、命を懸けてまで渡海する意義があるとは思えませんでした。今は一度立ち止まり、改めて判断すべき時だ——そう申し上げたのです。
では、なぜこの時期に菅原道真は派遣の停止を進言したのでしょうか。理由は大きく分けて3つあります。
理由①:唐の衰退(黄巣の乱など内乱が続き、唐から学べるものが減ってしまった)
理由②:渡航の危険性(嵐や難破のリスクが高く、命を落とす遣唐使が後を絶たなかった)
理由③:日本の文化的自立(日本独自の文化・制度が成熟し、もはや唐の模倣に頼らずとも国を運営できるようになった)
9世紀後半の唐は、875年に始まった黄巣の乱などの大規模な内乱で国力を大きく落としていました。最先端の文化や制度を学ぼうにも、唐自身がガタガタの状態だったのです。さらに東シナ海を渡る航海は依然として命がけ。多大な犠牲を払って学ぶ意義が、もはや見出しにくくなっていました。
一方、日本側はこの間に律令制度を消化し、独自の貴族文化(のちの国風文化)が芽吹き始めていました。「もう無理して唐に行かなくても、日本でやっていけるのでは?」——そう判断する素地ができていたのです。
🎵 語呂合わせ「白紙に戻す遣唐使」:8(は)9(く)4(し)=白紙。894年に遣唐使が停止されたことを覚える定番の語呂合わせ。「白紙に戻す」とは「派遣計画を一旦白紙にする=停止する」という意味で覚えるのがコツ。テストでは「894年・菅原道真」のセットで頻出!

結局、なんで遣唐使を廃止したの?お金がもったいなかったから?

お金もあるけど、一番大きいのは「①唐がボロボロ・②命がけ・③日本も独り立ちできた」の3つだよ!この3つはテストでもめちゃくちゃよく聞かれるから、セットで覚えちゃおう!
📌 「停止」と「廃止」の違い:教科書によっては「廃止」と書かれていますが、正確には「停止=次回派遣の見送り」でした。一度白紙に戻されたあと、結局再開されないまま唐自身が907年に滅亡し、自然消滅へ。この「停止→自然消滅」の流れがそのまま国風文化の誕生へとつながっていきます。
遣唐使廃止後の日本(国風文化の誕生)
遣唐使が停止された9世紀末以降、日本では中国文化を消化・吸収した上で、日本独自の「国風文化」が大きく花開いていきます。
遣唐使がストップしたことで、日本は唐から最新の文化を取り入れる窓口を失いました。しかし見方を変えれば、「もう外国を真似する必要がない」という自信の表れでもあります。これまで260年余りにわたって吸収してきた唐文化を土台に、日本らしい感性で組み替え直す——そんな成熟期に入ったのです。

この時代に生まれた代表的な文化が、仮名文字(平仮名・片仮名)です。それまで漢字でしか書けなかった日本語を、より柔らかく自在に表現できるようになりました。仮名文字の登場により、日本人は自分たちの感情や物語を母語で書き残せるようになったのです。
📌 国風文化の代表例
・平仮名・片仮名の成立
・『源氏物語』(紫式部)
・『枕草子』(清少納言)
・『古今和歌集』(最初の勅撰和歌集)
・寝殿造・大和絵

今もぼくたちが使っている「ひらがな」「カタカナ」は、実は国風文化の産物なんだよ!遣唐使がなくなってから一気に育った文字なんだ。「もし遣唐使がずっと続いていたら、日本人は今も漢文ばかり書いてたかも?」って想像すると、歴史って面白いよね!
つまり遣唐使の停止は、単なる「外交の終わり」ではありませんでした。日本が中国の弟分を卒業し、独立した文化国家として歩みだす転換点でもあったのです。「白紙に戻す」という言葉には、こうした文化的な独立宣言の意味も込められているといえるでしょう。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「630年スタート→894年ストップ」のセットで覚える。停止した人物=菅原道真(後に大宰府に左遷される人物と同一人物!)。さらに「停止後→国風文化」の流れを押さえると、論述問題で大きく点数を稼げます。「廃止」と書く教科書もあるので、答案では教科書の表記に合わせるのが安全。

「廃止」と「停止」って、テストではどっちで書けば正解になるの?

教科書に「廃止」とあれば「廃止」で、「停止」とあれば「停止」でOK!基本はどっちで答えても減点されないよ。ただし論述問題では「正確には停止であり、その後再開されないまま自然消滅した」と書くと、グッと評価が上がるよ!
遣唐使の理解を深めるおすすめ本

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よくある質問(FAQ)
A. 遣唐使とは、630年から894年まで日本が唐(現在の中国)へ派遣した使節団のことです。律令制度・仏教・学問・文化・技術などを学ぶことが目的で、約260年間にわたり十数回派遣されました。
A. 894年、遣唐大使に任命された菅原道真が宇多天皇に派遣の停止を進言しました。正確には「廃止」ではなく「停止」であり、その後再開されることなく自然消滅しました。
A. 主な理由は3つです。①唐の衰退(黄巣の乱など内乱で学ぶ価値が低下)、②渡航の危険性(嵐・難破で多くの犠牲)、③日本の文化的自立(独自の文化・制度が成熟)。これらの理由から菅原道真が派遣の停止を進言しました。
A. 派遣先の中国王朝が違います。遣隋使は7世紀初め(607年〜)に隋へ派遣された使節(小野妹子が代表)。遣唐使は630年から894年まで唐へ派遣された使節です。隋が滅んで唐が建国されたため、自然と遣隋使から遣唐使へと引き継がれました。
A. 「白紙に戻す遣唐使」が定番です。8(は)・9(く)・4(し)=「白紙」と読み、894年に菅原道真の進言で遣唐使が停止されたことを覚えるための語呂合わせです。「白紙=計画を一旦リセットする」というイメージで覚えると、停止の意味も同時に理解できます。
まとめ

以上、遣唐使のまとめでした!「誰が廃止した?」「いつ?」「なぜ?」がスッキリ整理できたかな?下の記事で菅原道真や吉備真備、空海・最澄の生涯もあわせて読んでみてください!
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607年遣隋使派遣(小野妹子)
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630年第1回遣唐使派遣(犬上御田鍬)
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717年阿倍仲麻呂・吉備真備ら渡唐
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753年鑑真が来日(6度目の渡航で成功)
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804年空海・最澄が遣唐使に参加(別船で渡唐)
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838年最後の遣唐使(円仁が同行)
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875年黄巣の乱勃発(唐の内乱激化)
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894年菅原道真が遣唐使の停止を進言(白紙に戻す)
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907年唐滅亡(五代十国時代へ)
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10世紀以降国風文化の全盛期(源氏物語・枕草子)
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「遣唐使」(2026年5月確認)
コトバンク「遣唐使」「菅原道真」「吉備真備」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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