寿永二年十月宣旨とは?わかりやすく紹介【源頼朝と後白河法皇の外交戦】

前回は、倶利伽羅峠の戦いについて紹介しました。

今回は、源平合戦で起こった戦の1つである倶利伽羅峠の戦いについて紹介しようと思います。(上の写真は私の気まぐれで乗せただけであり、倶...

倶利伽羅峠の戦いに大勝利した木曽義仲は、念願の平安京入りを果たします。木曽義仲は鎌倉にいた源頼朝にとってはライバル。源頼朝にとって木曽義仲の平安京入りはライバルに先を越されたことを意味します。

不利な状況となった源頼朝が、一戦の戦いもすることなく朝廷との巧みな外交術のみで、一挙にして木曽義仲を窮地に追い込んだ秘策こそが、寿永二年十月宣旨と呼ばれるものです。

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そもそも「寿永二年十月宣旨」って何?

「寿永二年十月宣旨」って言われても何のことかよくわからないかもしれませんが、これは寿永二年(1183年)十月に出された「宣旨」という意味です。

宣旨とは、天皇が下す命令のこと。つまり寿永二年十月宣旨とは「寿永二年十月に下された天皇からの命令」ということになります。(当時は、後白河法皇が権力を握っていたので、その命令の内容は実質的に後白河法皇によるものでした。)

寿永二年十月宣旨が後世歴史に残るほど有名な理由は概ね次の2つにあると思います。

宣旨の中身を読み解いていくと、朝廷と源頼朝の間の高度な駆け引きが見えてくる。

この宣旨により、不利な状況にあった源頼朝の形勢が一気に逆転した。

では、寿永二年十月宣旨が出された当時の時代背景や具体的な内容を紹介していきます。

寿永二年十月宣旨が出されるまでの時代背景

まずは、寿永二年十月宣旨が出された当時の時代背景を説明します。キーパーソンとなるのは1183年7月に念願の平安京入りを実現した木曽義仲です。

信濃の山暮らしが長い木曽義仲は、平安京入りを果たすまでは良かったものの、朝廷文化に馴染むことができず、すぐに平安京内で孤立するようになります。

木曽義仲「以仁王の息子を天皇即位させろ」

平家一門が安徳天皇を連れて西へと都落ちした後、朝廷内では安徳天皇に代わる新たな天皇即位について議論がなされました。当時の日本には、「皇位継承問題は皇族で決定すべき問題。」と言う一般常識がありました。特に天皇家の家督である治天の君(この時は後白河法皇)の意見が最重要。

ところが、当時の天皇、安徳天皇はその後白河法皇が幽閉されている間に平清盛が半ば強引に即位させた天皇。そのため朝廷貴族たちは、安徳天皇の正当性について懐疑的な目で見ていました。そこで、「胡散臭い安徳天皇は都からいなくなったし、正式に天皇を決めようぜ!」という機運が高まっていたのです。

こうして、後白河法皇は孫の後鳥羽天皇を即位させることを決めます。・・・が、ここで木曽義仲がとある人を仲介して後白河法皇に異を唱えます。「ちょっと待った。即位するのは以仁王の息子で俺と一緒に頑張ってくれた北陸宮でしょ!(北陸宮は、後鳥羽天皇同様、後白河法皇の孫に当たります)だって以仁王の令旨のおかげで、悪しき平家を追い払うことができたんだよ!?その息子が天皇になるのが当然じゃん!!

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これに、貴族たちは興ざめ。「おいおい、皇位継承は治天の君の後白河法皇が決めるんだよ。そこに直接異を唱えるとか何様なの?武士風情が調子乗りすぎだろ・・・」と多くの人が思いました。このような時、朝廷では表面的には平穏を装い、見えないところで裏工作を行うのが普通でしたが、朝廷文化を知らない木曽義仲のストレートな方法に、貴族たちが強い不快感を示したわけです。

当然、木曽義仲の意見が採用されることはなく、後鳥羽天皇が即位します。後鳥羽天皇即位の話は、かなり混沌としていて面白いのですがここでは割愛させていただきます・・・。

この皇位継承問題によって、平安京入りしたばかりの木曽義仲と後白河法皇の関係は早くも微妙なものになってしまいます。

木曽義仲「平安京の治安維持?・・・無理っすwww」

平家が西へと都落ちしたことで、朝廷では平家に代わる新たな武力を求めていました。治安維持や強訴対策、所領紛争解決のために、平家は不要でも武士の存在はもはや政治において必要不可欠な存在。そこで、朝廷から強く期待されていたのが木曽義仲。木曽義仲も朝廷の権威を後ろ盾に、権力を得ようと考えていたので両者はwin-winになれる関係を模索していました。

そんな中、後白河法皇が木曽義仲にまず期待したのが「飢饉や戦乱による食糧難と平家都落ちで無法地帯と化しつつあった平安京の治安回復」でした。当時の平安京の状況はかなり悲惨だったようで、「子どもが道端に捨てられ、死体がその辺に横たわっていた」とか「死人の肉を食っている者がいる」とか凄惨な様子が貴族たちの日記には残されています。

ところが、木曽義仲はこの期待に全く答えることができません。木曽義仲は、自らが引き連れてきた大軍の兵を統率することができず、兵たちが平安京で狼藉を働いてしまったのです。

兵の傲慢な態度は、平安京の人々の心象を一気に悪くしました。ただでさえ食糧難の平安京に大軍で押し寄せ、狼藉を働くのですから当然です。しかも、当の木曽義仲は「平家を追い出してやったんだから、細かいこと言うなよー。兵が食料や馬の餌を求めるのは当然だろ!」と反省の色が全くありません。

1183年9月、後白河法皇に叱られ、ヤバイ空気を察した木曽義仲は、名誉を挽回せんと西国への平家追討を願い出ます。木曽義仲を良く思わず、早く平安京から消えて欲しいと思っている朝廷は、もちろんこれを了承。木曽義仲は、まるで追い出されるかのように平家討伐へと向かってゆきます。

朝廷から見れば、木曽義仲はまさに期待ハズレ。この朝廷と木曽義仲の軋轢を狙ったかのように、水面下では源頼朝が虎視眈眈と挽回のチャンスを狙っていました。

寿永二年十月宣旨の内容

木曽義仲に愛想を尽かした後白河法皇は、実は裏で源頼朝との交渉を進めていました。後白河法皇と源頼朝、それぞれの当時の悩み事を考えてみると具体的な交渉内容が見えてきます。

後白河法皇の悩みは、繰り返しですが「平安京の治安維持と食料の確保」です。一方の源頼朝の悩みは「木曽義仲に平安京入りを先に越され、多くの人が木曽義仲になびきかけていること」と「未だに平治の乱の罪人の身分であり、朝廷に物申せる身分ではないこと」でした。

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そこで、源頼朝は朝廷に提案します。「戦乱により無法地帯と化した東海・東山・北陸の人々にちゃんと税を納めるよう命令を出してください。でも、これだけだとみんな言う事を聞かないと思うので、私の名前を出してください。『命令に逆らったら源頼朝がくるぞ』とね。

当時は以仁王の挙兵以降の各地の反乱により、米などの納税が滞っていました。税収減と飢饉のダブルショックにより平安京は危機に瀕しており、貴族たちの頭を悩ませていたのです。それを源頼朝は「俺に権限を与えてくれたら、食料問題をなんとかしてやるよ」と言ってるわけです。おまけに、北陸は木曽義仲の拠点の地。朝廷の力を利用して、北陸にプレッシャーをかければ、木曽義仲への牽制にもなります。

朝廷は、喫緊の課題を解決してくれると言う源頼朝の提案を喜びました。木曽義仲が最悪だっただけに、源頼朝の評判はかなり良かったようです。

この源頼朝の提案が採用され、実際に下された命令こそが、寿永二年十月宣旨です。その中身はこんな感じでした。

「東海・東山の人々はちゃんと税金を納めなさい。国司ら地方役人たちは、もし人々が従わぬようなら、源頼朝に手伝ってもらって命令を実行せよ!

源頼朝の提案と大きく違う点は、地域の名前の中から「北陸」が消えていることです。平家討伐のため西国に向かったとはいえ、平安京に一番近い軍隊は木曽義仲軍です。あまりにも露骨な木曽義仲外しをしてしまうと、木曽義仲の矛先が朝廷に向きかねません。源頼朝は「おいおい!そこ大事なんだから外すなよ!」と不快感をあらわにしますが、朝廷としては自らの身の安全のため木曽義仲を刺激するようなことは極力避けた形です。

また、寿永二年十月宣旨により源頼朝の罪人の身分も解かれることになりました。「源頼朝に頼れ!」って言ってるのに当の本人が罪人というのもおかしな話ですからね。

寿永二年十月宣旨により、朝廷は平安京の食料問題に解決の目処をつけることができ、源頼朝は罪人の身分から解放されると同時に広範な地域に影響力を持つことができるようになりました。

そして、源頼朝は税を平安京へ納めるという名目で、異母弟の源義経と源範頼を鎌倉から京に派遣します。木曽義仲に遅れを取っていた源頼朝は、寿永二年十月宣旨により一気に優勢に立つことができるようになったわけですね。

四面楚歌の木曽義仲

これに面食らったのが木曽義仲です。「俺という存在がありながら、俺と仲の悪い源頼朝と組むとは何事だ!!後白河法皇も俺と頼朝が犬猿の仲なのは知っているはず。どこまで俺のことを振り回せば気が済むんだ・・・。」と衝撃を受けたはずです。

当時、木曽義仲は平家討伐のため西国へ赴いていました。倶利伽羅峠の戦いからの連戦連勝で油断していた木曽義仲は、平家との戦いで敗北(水島の戦い)。その後、寿永二年十月宣旨を始めとした自らを貶めようとする平安京の不穏な動きを知り、木曽義仲は急遽、平安京へ戻ります。

木曽義仲は気づいてみると窮地に追い込まれていました。東には鎌倉から派遣された源義経らが、西には木曽義仲に勝って勢いづいた平家が構えています。さらに、平安京内では後白河法皇や源行家という木曽義仲の叔父が暗躍し、自らを失脚させんと裏で動き回っている始末。おまけに平安京は相変わらず食糧難で地獄絵図の様相。

寿永二年十月宣旨が出されたことで、源頼朝と木曽義仲の立場は一気に逆転してしまったのです。

寿永二年十月宣旨のまとめ

木曽義仲はとにかく、戦で勝ちまくって武力で平安京入りを果たしました。一方の源頼朝は、木曽義仲と後白河法皇の不仲を見事に利用し、自らは鎌倉から動かないままに、一戦も交えることなく木曽義仲を追い込むことに成功します。

木曽義仲は後白河法皇と源頼朝にまんまと嵌められたのです。山育ちの木曽義仲では、魔窟とまで呼ばれた朝廷の権謀術数を如何ともすることができなかったわけです。

寿永二年十月宣旨のことを知ると、「武勇の木曽義仲と策略の源頼朝」という2人の対照的な一面を知ることができます。その後、追い詰められた木曽義仲の矛先は後白河法皇へと向かい、法住寺合戦と呼ばれる武士が法皇を襲うという前代未聞の大事件へと繋がってゆきます。

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