藤原道長の邸宅、土御門殿の跡地(京都御所内)で1000年の歴史を感じてきた【京都御所の隠れ名スポットの紹介】

今回は、藤原道長の邸宅である土御門殿(つちみかどどの)について話をしてみようと思います。

 

 

上の写真は、平安時代中期に藤原道長の大豪邸、土御門殿が築かれていた跡地です。今は京都御所の敷地内にあり、当時の豪華絢爛な面影は一切ありません。

 

 

「なんだ、ただの公園やんけ!」って思いますが、土御門殿や藤原道長の話を知ると、少し足を止めて思いを馳せたくなる不思議な場所だったりします。

 

 

土御門殿跡地の前で少足を止めてくれる人が少しでも増えることを願って、この記事では土御門殿について自分なりの整理をしてみます。

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そもそも土御門殿ってどんな場所なの?

土御門殿は、藤原道長の豪邸です。0から新築したわけではなく、嫁さんの父から譲り受けた邸宅です。嫁さんの父の名は、源雅信(みなもとのまさざね)。993年に亡くなったとされており、道長が土御門殿を譲り受けたのもこの頃でしょう。

 

藤原道長と言えば、次の一句が有名です。

 

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

 

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前回は、悲劇の天皇、三条天皇のお話をしました。 今回は、三条天皇の次の天皇である後一条天皇の時代の話をしようと思うのですが、正直、後一条天皇ってとっても地味なんです・・・。 ということで、今回は藤原道長が詠んだ有名な一句「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」について解説しようと...

 

自らの栄華を「この世は私のためのものであり、満月のように欠けることもないほどだ」と歌った有名な一句ですが、土御門殿を譲ってもらった当時の藤原道長は、そんな栄華とは程遠い場所にいました。

 

 

というのも、当時は、道長の兄である藤原道隆が権力を握っていて、弟の道長の出る幕はなかったからです。

中関白藤原道隆・伊周の没落と七日関白の藤原道兼をわかりやすく解説する
前回の記事(寛和の変とは?花山天皇の出家と一条天皇即位【藤原兼家の大勝負】)では、藤原道長の父である藤原兼家が寛和の変(かんなのへん)により強引な手法で花山天皇を追放。そして、兼家から見て甥っ子に当たる一条天皇を即位させ、念願の天皇の外戚の地位を獲得した!という話をしました。 一条天皇の即位により、藤原兼家は天皇の外戚として権力...

 

 

しかし、その後、道長の兄たちやライバルは病気や事件で次々と消えて行き、道長は躍進を続け、1018年、遂に道長は有名な望月の歌を歌うことになるのです。

 

 

ちなみに、望月の歌は、道長邸宅の酒宴で披露されたものなので、土御門殿で歌われたということになります。今でこそ何もない公園の一部ですが、約1000年前、確かにこの辺りに藤原道長は存在し、お酒を飲みながら一句を詠んでいたのです。

土御門殿と里内裏(さとだいり)

土御門殿は、藤原道長の私邸であると同時に後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の三人の天皇らの邸宅にもなっています。

 

 

本来なら、平安宮の中に内裏(だいり)という天皇の住まいがしっかりとあるのですが、平安宮の内裏は火災が頻発し、その都度再建しなければなりませんでした。

 

 

火災が頻発した主な理由は、灯りにロウソクが使われていたからです。(平安京では盗賊が横行していたので、火事場泥棒による放火っぽいケースもあったらしい)

 

 

内裏は、焼けては再建され焼けてはされを繰り返してきましたが、1000年ごろ(一条天皇在位の頃)になると財政難などの問題から、次第に内裏の再建がされなくなってしまいます。

 

 

そこで、平安宮内裏の代わりに天皇が住処とした場所のことを里内裏(さとだいり)と言います。そして、土御門殿は後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の里内裏でした。

 

 

里内裏は、天皇の母(皇太后)の実家が選ばれることが多くて、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇も母の実家が土御門殿でした。

(天皇)(母)
後一条天皇藤原彰子(藤原道長の娘)
後朱雀天皇同上
後冷泉天皇藤原嬉子(藤原道長の娘)

 

土御門殿は藤原道長が栄華の道を極め、望月の歌を詠んだ場所というだけでなく、道長亡き後も、娘らに邸宅は受け継がれ、天皇の住む里内裏としても重要な役割を果たします。

 

 

藤原道長が贅沢を極め、道長亡き後は里内裏として天皇の住まいとなった土御門殿は、まさに道長一族の栄華の集大成。勝ち組の象徴とも言える建物だったのです。

土御門殿の場所はどの辺だった?

土御門殿は、平安時代の住所で言うと左京1条4坊15〜16町にありました。地図で見ると大雑把にこんな感じ。

 

 

土御門殿の東隣には、藤原道長が建立したことで有名な法成寺(ほうじょうじ)が建てられていました。法成寺もかなり荘厳なお寺だったようですが、今では見る面影もなく石碑がポツンと跡地に立っているだけです。

(出典:wikipedia「法成寺」)

【法成寺跡。荘厳な法成寺も今では道端に石碑が立つのみ】

 

さらに同じく、東隣には紫式部邸の跡地があり、紫式部邸の跡地は今は廬山寺(ろざんじ)というお寺になっています。

【紫式部邸跡にある廬山寺】

 

 

道長は紫式部のパトロンであり源氏物語執筆の支援をしていましたが、両者の関係は超えてはいけぬ一線を超えて愛人関係にあったなんて説があります。真偽のところは不明なわけですが、土御門殿と紫式部邸の近さを想像するに、隠れた営みも比較的簡単にできそうだなぁ・・・とか妄想が捗りますww

 

土御門殿・法成寺・紫式部邸跡の位置関係はこんな感じ。(赤いマークのところ)

 

1000年も前の建物の位置がここまで正確にわかるのって何気に凄いです。

土御門殿の跡地で足を止めてみよう!

以上、簡単にではありましたが土御門殿の紹介でした。

 

 

何も知らなければ、ただの公園の一部でしかない土御門殿。しかし、1000年前の平安京を妄想すれば、

 

イキってる藤原道長はこの場所で超有名な一句を歌っていた・・・

 

時の大権力者は、ここから紫式部邸にお忍びしてたかもしれない

 

この場所に天皇が住んでいて、日本の歴史を動かしていたのか・・・

 

 

とか、いろんなことが妄想できます。ちなみに、私が最初に思ったのは「あんなに大繁栄した道長の邸宅跡なのに、マジで何もなさすぎてワロタ」でしたww。時の流れは非情なり。

 

 

というわけで、土御門殿跡でちょっとだけ足を止めて、歴史に思いを馳せてみるのも案外良いもの。歴史のロマンを感じるのも乙な楽しみ方です。

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