今回は、「894(白紙)にしよう遣唐使廃止」というフレーズで有名な894年の遣唐使廃止についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
実は遣唐使を廃止したちゃんとした理由はわかっていない
いきなりですが、実は遣唐使が廃止されたはっきりした理由はよくわかっていません。
というか、学校で習う「白紙(894年)にしよう遣唐使廃止」というのも、厳密には違う可能性があります。
894年、日本では遣唐使の派遣を計画していて、確かにその計画は中止されました。そして、その時の代表者が菅原道真であり、中止を提案したのも菅原道真です。
しかし、中止後も菅原道真の大使としての任は解かれませんでした。ということは、中止は一時的なものであり、894年時点では遣唐使自体は廃止にまで至っていなかった可能性があるのです。
大使であった菅原道真は901年に藤原時平との政争に敗れ、大宰府へ左遷されてしまいますが、同時に遣唐使の大使という任も自然消滅してしまいます。そして、その後大使として任命される人物も登場せず、遣唐使の派遣計画も自然消滅してしまったのです。
という感じで、「遣唐使は廃止する!」と誰かがきっぱりと決めたわけではなく、自然と派遣計画が消滅していったので、なぜ廃止したのか、いつ廃止されたのか、明確な部分がわかっていないのです。
しかし、894年に遣唐使派遣を中止した後、「もう一回派遣しようぜ!」という話が出てこなかったあたりを踏まえると、日本としても遣唐使派遣には消極的でわざわざ危険を冒して中国へ行く必要性はないと考えていたのは確かなように思います。
なぜ遣唐使の派遣を中止したのか?
遣唐使自体を廃止した理由はわからないとしても、894年に計画された遣唐使派遣をなぜ中止したのか?という点についてはわかっています。
菅原道真は次の2点を理由として挙げました。
特に2点目の理由に注目です。
奈良時代には、頻繁に派遣していた遣唐使ですが、平安時代になると派遣回数が激減。894年の派遣計画は実に半世紀ぶりの計画なので、派遣事情についても昔の情報を調べなければならなかったのです。奈良時代なら、頻繁に唐へ行っていたので遭難が頻繁に起こり、命がけの航海となることは周知の事実でした。
べなければならなかったのです。奈良時代なら、頻繁に唐へ行っていたので遭難が頻繁に起こり、命がけの航海となることは周知の事実でした。
一番重要なのは奈良時代には危険を冒してでも唐に行く価値があったのですが、平安時代になると「そこまでして唐に行く意味なくね?」という風潮が強かったという点です。
というわけで、平安時代以前の遣唐使派遣の背景について、少しおさらいしましょう!
日本の遣唐使派遣事情まとめ
日本と中国との交易は、古墳時代や卑弥呼の時代にまで遡りますが、今回は、聖徳太子がいた頃(600年ぐらい)まで遡って説明します。
聖徳太子の時代【飛鳥時代】
この頃(600年ぐらい)は隋という国だったので遣隋使と言います。
聖徳太子は600年に約100年ぶりの使節団を派遣します。この遣隋使が894年まで続いた使節団派遣の始まりとなりました。この時代の派遣目的は、「隋の近くにはこんなすげぇ国があるんだぞ!なめんなよ!」と日本という国を隋にアピールすることにありました。
徳太子は、600年・603年と2回の遣隋使を派遣します。それぞれ別の記事で紹介しているので一応載せておきます。
600年の第1回遣隋使派遣
603年の第2回遣隋使派遣
当時の日本は、隋や朝鮮半島にある新羅、百済、高句麗と密接な関係を持っており、日本が優位に立つため、他国になめられないよう日本という国が強いということをアピールする必要があったのです。
618年になると隋は滅び、新たに唐が建国しますが、その後も引き続き使節団の派遣が定期的に行われました。
斉明天皇の時代【飛鳥時代】
663年、日本は唐・新羅連合軍に戦争を仕掛けます。白村江の戦いと言われるものです。
この戦いで日本は大敗。敗戦直後、数回だけ遣唐使の派遣が行われますが、670年〜702年までの約30年の間、遣唐使の派遣は行われなくなりました。
奈良時代初期
白村江の戦いでの大敗から30年程度が経った702年、再び遣唐使派遣が再開されます。
この遣唐使再開により日本は最先端の都だった長安の都を目の当たりにし、長安を真似て平城京の建設が開始されます。このほか、遣唐使によって法律や仏教に関する多くの文書が日本に伝わり、日本の発展に貢献することになります。
この頃の遣唐使派遣は、唐の都や法令などを学び、日本を唐に劣らぬ立派な国にしよう!という朝廷の強い意思がありました。さらに、白村江の戦いでの敗北後、日本は唐と「定期的に唐へ朝貢しに来ること」という約束を交わしていたようで、その約束を果たすための政治的な理由もこの頃の遣唐使派遣の理由の1つでした。
奈良時代後期~平安時代初期
奈良時代後期や平安時代になると、遣唐使は唐の文化を日本に持ち込むという意味合いが強くなり、政治的な意味合いが薄くなっていきます。日本に持ち込まれた唐の文化で代表的なものが仏教です。
あの鑑真が日本に来日し、戒律を伝えたのもちょうどこの頃。
そして天台宗の祖である最澄と真言宗の祖である空海が中国からこれらの宗教を持ち込んだのもこの頃です。
平安時代中期 -必要なくなる遣唐使、ついに廃止へ-
遣唐使派遣の政治的必要性がなくなった後も、唐の文化を日本に取り込むために遣唐使派遣を続けますが、平安時代になると、それまで唐から持ち込んだ文化と昔からの日本の文化が融合した日本独自の文化が芽生えてきます。(教科書的に言えば、これが国風文化!)
そうすると、政治的な必要性もなければ唐から文化を取り込む必要性すらなくなってきます。
こうして遂に830年頃を最後に遣唐使の派遣はされなくなってしまいます。
そして、久しぶりに計画されたのが894年の遣唐使派遣計画でしたが、菅原道真の提案により、危険だという理由で計画は中止となり、その後、菅原道真が政争に敗れ政治世界から追放されたことで、遣唐使の派遣は自然消滅し、その後二度と派遣されることはなくなってしまったのです。
以上、古代日本の遣唐使派遣事情でした。同じ遣唐使でも時代によってまるで役割や意味合いが違っているのです。学校の授業じゃあまり教わらないところですね!
まとめ
遣唐使と一言で言っても、時代によってその趣旨・目的は様々でした。当初は、政治的な目的が中心だった遣唐使は、国際情勢が落ち着くと次第に政治的目的は薄れてゆき、894年をもって遂に派遣自体が中止となっていた・・・というのが遣唐使廃止の流れです。
次回は、菅原道真の左遷と怨霊になるまでの経緯を説明します。
次:菅原道真の左遷と学問の神様になった理由【昌泰の変】3/3
コメント
わかりやすいサイトをありがとうございます。
奈良時代後期の見出しの上の遣隋使は遣唐使の誤りでは?
当サイトをご覧いただきありがとうございます。
指摘いただいた点についても修正しました。ご指摘ありがとうございました!
遣唐使廃止(894)については、最後の遣唐使となった円仁の入唐求法巡礼行記(836~847)がカギだと思います。当時最新の外国事情についての一級資料でしたから、これに基づいた政策とみれば至極自然ですよ。