今回は、一条天皇の妃で藤原道長の娘である藤原彰子(ふじわらのしょうし)について紹介します。
藤原彰子は本人自身というよりも、「源氏物語」を書いた紫式部が仕えていた人物として有名かもしれません。しかし、藤原彰子の生涯は源氏物語にも劣らぬほど、実に考えさせられる物語を紡いでくれます。
というわけで、藤原彰子の生涯についてわかりやすく紹介していきます。
藤原彰子は藤原道長の娘!
藤原彰子は988年、藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘として生まれます。
藤原道長といえば、自らの栄華を自画自賛した「この世をば〜」の歌で有名ですが、この歌を読んだのは1018年。藤原彰子が生まれた当時(988年)、朝廷の権力を掌握していたのは道長の父だった藤原兼家(ふじわらのかねいえ)。
父の兼家が990年に亡くなると、道長の兄貴である藤原道隆(ふじわらのみちたか)が権力を握ります。
*「この世をば〜」の和歌については以下の記事でも紹介しています。
藤原彰子は権力者の道長の娘なので「産まれた時から勝ち組だったんだろ?」とか思われそうだけど、決してそんなことはありません。
藤原道長VS藤原伊周(ふじわらのこれちか)
990年〜995年、道長の兄貴たちはみんな病気で亡くなってしまいます。道長は四男で大出世の望みはなかったんだけど、こうして偶然にも千載一遇のチャンスが巡ってきました。
この時に藤原道長と対立したのが藤原道隆の息子だった藤原伊周(ふじわらのこれちか)。995年当時は、道長よりも兄貴の道隆一族の方が栄えていたんです。
この両者の対立は、996年に起こった女性スキャンダルで藤原伊周が自滅し、道長の大勝利。道長は遂に、出世への特急切符を手に入れたのです。
伊周の自滅は以下の記事で紹介しています。なんていうか、弁明の余地一切なし!ってほどの清々しい自滅ww
この事件に藤原彰子は直接関与はしていませんが、道長の出世は藤原彰子の生涯にも大きな影響を与えました。
というのも、1001年、藤原彰子は道長の支援を得て、一条天皇の正妻(中宮)となったのです。
藤原彰子、藤原定子、一条天皇、恋の三角関係
藤原彰子と一条天皇の関係は、昼ドラ顔負けなほど複雑な関係でした。
そもそも、一条天皇には藤原定子(ふじわらのていし)という別の正妻が既に存在していました。それなのに藤原道長は強引に娘を天皇に嫁がせ、天皇に正妻が2人いるという前代未聞の状況を作り出してしまったのです!
皇后って選ばれた1人の正妻のことだから、2人いる時点で色々と矛盾してるんですが、藤原道長の周到な根回しでこれが実現してしまいます。この出来事からは、藤原道長の豪腕さが垣間見えますね。
藤原定子は藤原道隆の娘。つまり、藤原伊周の妹でもあり、995年に伊周が女性スキャンダルで失脚すると、その影響は藤原定子にも波及しました。兄の後ろ盾を失った定子の立場は失墜しましたが、藤原定子は才色兼備のとても素晴らしい女性で、一条天皇は藤原定子を深く愛しており、2人の子供を産んでいます。
1001年当時の一条天皇・藤原定子・藤原彰子それぞれの状況をまとめるとこんな感じ。
年齢:21歳
バランス感覚に優れた賢帝。藤原定子のことを深く愛していた。定子亡き後、藤原彰子とも相思相愛だったけど、やはり藤原定子のことが忘れられない。
年齢:13歳
藤原道長によって強引に一条天皇の妃となる。藤原彰子は一条天皇を愛していたが、一条天皇の藤原定子とその遺児に対する深い愛情を知り、一条天皇の良き理解者となる。藤原彰子は、定子の深い愛情を注ぎ遺児を立派に育てた良き妻であった。
なんというか、想像の斜め上を行く輝かしい三角関係です。これほど綺麗な三角関係を私は他に見たことがありません。一条天皇と藤原定子と藤原彰子。優れた人格者が3人揃えば、三角関係もこれほどまでに美しいものになるのです。
藤原彰子は藤原道長を嫌ってた説
1001年の藤原定子の死は、道長にとっては僥倖(ぎょうこう。思いがけぬ幸運)でした。なんせ、最大のライバルが消えたわけですから。
しかし、一条天皇の定子の遺児に対する深い愛情を知る藤原彰子の心境は複雑です。
藤原彰子は一条天皇の気持ちを尊重し、定子の遺児を次期天皇に望みます。しかし、藤原彰子の父である道長は、当たり前ですが彰子に皇子を産んでもらい、その皇子の天皇即位を望みます。
しかし、1008年に藤原彰子が一条天皇の子を産むと、藤原彰子の願い叶わず、1016年、自分の息子が後一条天皇として即位します。
【再掲】
自分の子が天皇になったら普通なら喜ぶはずなんですが、この時に限っては藤原彰子の心境は相当に複雑だったはずです。
実際、当時の記録には藤原彰子は藤原道長を嫌っていたとか恨んでいたとかそんな記録も残っています。藤原彰子が一条天皇を愛していたのなら、道長のことをよく思っていなかった可能性は大いにあると思います。
一見すると相反する愛情は、藤原彰子の中で崇高な愛情へと昇華されていったのです。
源氏物語も壮大なラブロマンスですが、それと同時に現実世界でもこれほどまでに美しいラブストーリーが展開されていたとは!
87歳まで生きた藤原彰子が見たもの
一方、息子の後一条天皇が即位すると藤原彰子は影から藤原家の繁栄を支え続けました。
藤原彰子は当時としてはかなり高齢の87歳(1074年)まで生きました。藤原彰子が生きていた頃の歴代天皇もとても多くて、
後一条天皇→三条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇と藤原彰子は多くの皇帝たちを見てきました。これら天皇と藤原彰子の関係も地味に凄くて、
(天皇) | (藤原彰子と関係) |
後一条天皇 | 息子 |
三条天皇 | 甥っ子 |
後朱雀天皇 | 息子 |
後冷泉天皇 | 甥っ子 |
後三条天皇 | 孫 |
白河天皇 | 曽孫 |
と全ての天皇と親戚関係にありました。この間、藤原道長の家は栄華を極めると同時に、衰退してゆきます。
道長家が最も栄華を極めたのは後一条天皇が即位した頃(1016年〜1036年)。道長が「この世をば」の歌を歌ったのもこの頃です。
そして、道長家の凋落が決定的になったのが後三条天皇の時代(1068年〜1073年)。後三条天皇の母は道長の家の者ではなく、後三条天皇の代で道長家の外戚の立場が崩壊することになります。
自らの家の栄華と衰退をその目で見てきた藤原彰子。晩年の藤原彰子は、色々と達観した境地にいたことでしょう・・・。
藤原彰子の性格とか人柄
話を変えて、最後に藤原彰子の性格について話をしてみます。
藤原彰子に仕えていた紫式部は源氏物語を書いたことで有名ですが、藤原彰子に仕えていた日々の出来事や心境を日記にまとめた「紫式部日記」を書いたことでも有名です。
紫式部日記を見ると、藤原彰子の人柄がなんとなーくわかってきます。少し紫式部日記の内容を抜粋してみましょう。
といった感じで、明るくてキャッキャウフフみたいな雰囲気ではなかった様子。「私が!私が!」っていうガツガツした感じもしなさそうで、一条天皇の寵愛する定子の遺児を同じく愛情を込めて育てた・・・という話も、この藤原彰子の人柄とマッチするように思います。
当時の様子をもっと知りたい方は、紫式部日記を読んでみると良いかも。
藤原彰子まとめ
以上、簡単に藤原彰子の生涯や性格について紹介してみました。内容をまとめてみると・・・
といった感じでしょうか。強引な父と一条天皇の間で揺れ動き、葛藤する藤原彰子の様子が簡単に想像できます。
多くを経験し多くを見てきた藤原彰子はとても優しくて、慈悲心と母性に満ち溢れた女性だったのだろうな・・・なんて個人的に思う。そして、藤原彰子は天皇の母ということで「国母」と呼ばれていましたが、これほど「国母」という名が似合う女性は他にいない!と思うのでした。
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