今回は元寇の第2回戦、弘安の役(こうあんのえき)について紹介します。
1274年に文永の役が起きた後、少し間を置いて1281年に再び日本に元軍が襲いかかってきたのが弘安の役になります。
さて、文永の役が終わった後、元軍はすぐにまた日本を襲えばいいものを、再襲来までに7年もの年月が掛かっています。一体それはなぜだったのでしょうか?
また、弘安の役の元軍の兵力は文永の役の際とは比べ物にならないほどで、世界史上でも例を見ないほどの超大規模艦隊でした。そんな前代未聞の大軍と日本はどのように戦ったのでしょうか。
そして最後に、弘安の役ではあの有名な神風は本当に吹いたのか!?
この3点について簡単に、かつ、わかりやすく紹介していきたいと思います。教科書などではわずか数文で終わってしまう元寇ですが、詳細を知ると実に興味深い戦いです。
なお、元寇の第一回戦である文永の役についての記事もございますので、合わせてどぞ!
弘安の役と日本の対応
まずは、弘安の役が起こる前の日本の動きについてお話ししましょう。
1274年10月、文永の役が終わると日本ではすぐさま次の侵略に備えた準備が進められます。日本としても、元軍の襲来はこれで終わりとは思っていなかったのです。
日本は次なる元軍の襲来(弘安の役)に向けて、大きく3つの対策を打ち出します。それが・・・
という3つの対策。それぞれ紹介していきます。
高麗討伐計画
これはあまり知られていないかもしれませんが、実は文永の役が終わるとすぐ、北条時宗は高麗への遠征軍の派遣を考えていました。
出発予定は1275年の3月。色々と準備が行われましたが、結局この計画は雲散霧消してしまいます。というのも、頼みにしていた九州の御家人たちは文永の役で疲労困憊であり、余裕もモチベーションもなかったからです。
そもそも、御家人たちには愛国心とか「お国を守りたい」とかそーゆー意識って実はほとんどありません。
封建社会に生きる御家人たちは
とか、一族のことしか考えてなかったんです。わざわざ高麗に遠征に行くモチベーションなどあるわけがないんです。
元寇防塁と異国警固番役
高麗への遠征計画と同時に、国土防衛の準備も着々と進められました。九州の御家人たちに命じて、博多湾に大きな防塁を築造しました。この防塁の跡は今でも福岡の沿岸近くで見ることができます。
これと同時に北条時宗は、九州北部沿岸を警護する異国警固番役の強化を図ります。この強化というのは、単なる人員増強というだけでなく、九州各国の守護職の人選にも及びました。というのも、この緊急事態に対応するため九州のほとんどの国の守護職を北条氏が占めるようになります。
文永の役前に起こった二月騒動とこの弘安の役前の人事異動によって、北条時宗の権力はますます強くなっていきます。戦争を通じて権力の強化を図ることは、北条時宗に限らずよくあることです。戦争において指揮系統を統一するための中央集権化は必要不可欠だったのです。
弘安の役と外交
一方の元軍は、文永の役が終わった後も再び日本との外交交渉に乗り出します。文永の役に懲りた日本があわよくば降伏に応じてくれるかもしれぬ・・・と思ったのです。
1275年3月、元は日本の降伏を促すため、杜世忠(と せいちゅう)という人物を使者として日本へ使節団を派遣します。
これまで何度も降伏要求を無視し続けて幕府ですが、文永の役で元とやりあって後には引けなくなった幕府は、降伏要求を無視するどころか、なんと!使者である杜世忠の斬ってしまいます。使者を斬るというのは、誰がどう言おうと宣戦布告以外の何物でもない。
ちなみに杜世忠には辞世の句が残されており、
と云い残しました。「妻と子供が栄達を夢見すぎて時勢を失いことがないよう無事に帰ってきて欲しいと私に言ってくれたのに、それは叶わなかったよ」と言っているのです。
悲しいけどこれ、戦争なのよね・・・(スレッガー風)
元は日本へ使者を送りながら、一方では南宋の征服を着実に進めました。1275年、フビライハンは再び日本を侵略しようと企てるも南宋と日本の二方面戦争は得策ではないと判断し、日本侵略は延期。南宋の攻略に力を入れます。
そして1279年、日本にとっては最後の元との緩衝地域だった南宋が遂に元によって滅ぼされ、同じ年、日本に弘安の役前の最後の使者がやってきます。
「1275年に杜世忠が斬られてのに、またはるばる斬られにやってくるとかバカなの?」と思うかもしれませんが、今のように電話やメールのない時代、杜世忠の死は元に伝わっておらず、「あれ?杜世忠帰ってこないなぁ」ぐらいにしか考えられていなかったのです。
そして、案の定、1279年に日本へ送られた使節団は博多にて斬られ、全滅してしまいます。ユーラシア大陸一帯を支配した超大国に対して、これほどまでに毅然とした態度をとり続けた北条時宗は凄いですね。
「北条時宗はただ無知だっただけで、そんなことまで知らなかったのでは?」なんて話もありますが、日本は長い間、宋と頻繁に交易を続けてきました。なので、「元ってヤバい国なんだぜ」ぐらいの情報は持っていたと考える方が普通のように思います。というか、それ以上の詳細な大陸事情を知っていたはずです。
そもそも、禅宗が大好きだった北条時宗は、1279年に滅びた南宋から無学祖元(むがくそげん)という僧を招き、教えを請うています。この点からも北条時宗が無知だったとは考えにくいように私は思います。
この2度に渡る日本の使者斬りを知ったフビライハンは当然怒ります。1275年に一旦中止していた日本侵略計画を再び実行に移します。1279年当時は、南宋は既に元に降伏しており、東アジアで元に逆らう国はもはや日本しかありません。
こうして元では、日本侵略に向け兵が集められ、1281年、遂に弘安の役が起こります。この時、高麗では文永の役に引き続き、造船や兵糧の準備を強いられ多くの民が苦しんだと言われています。
弘安の役の経過(前半戦)
1281年5月3日、合浦(がっぽ。朝鮮半島の先っちょの方)から元の第一軍が出航します。兵力は兵数4万、大小の船合わせて900船と言われています。兵力は諸説あるので、あくまで目安程度で認識しといてください。
文永の役と違って、弘安の役は朝鮮半島と寧波(ニンポー)からの二方面作戦でした。歴史上、朝鮮半島からの部隊を東路軍、ニンポーからの部隊を江南軍と言うのでこの記事でもそのような表記で紹介を続けます。
本当は、東路軍も江南軍も同じタイミングで出発して、日本の壱岐島で合流する予定でしたが、江南軍の出航が遅れ、先に東路軍が日本を攻める形になったのです。
東路軍の侵略ルートは、文永の役の時とほとんど同じ。合浦→対馬→壱岐→博多湾という王道ルート。文永の役と違ったのは、この時は長門(今の下関)付近にも元軍が襲ってきたこと。しかしながら、長門での戦いの様子は、今でもよくわかっていません。
永の役と同じく弘安の役でも対馬・壱岐の人々は再び元軍に蹂躙されることになります。5月21日には対馬に、5月26日には壱岐を占領します。ただ、合浦と対馬は一日で到着する距離なので、3日に出発して21日到着は遅すぎるから何かおかしい!!って話もあったりする。
対馬は山が多く面積も広いので、隠れて生き延びた者もいたかもしれませんが、壱岐は元に寝返った者でもない限り、まさに全滅という言葉がふさわしい状況だっただろうと思います。元軍にとって対馬・壱岐は背後の重要拠点なので、反抗勢力は徹底的に消されたはずです。
対馬・壱岐を占領した東路軍。本来ならこの後、壱岐島で江南軍と合流し大軍で一気に九州北部に攻め入る予定でしたが、江南軍は一向にやってきません。(というか5月下旬時点で江南軍は諸事情により出航すらしていなかった!!!)
痺れを切らせた東路軍は、6月上旬、東路軍単独で博多湾に襲撃を決行します。
この東路軍の判断は、しばしば元軍内の不和を示すものとして取り上げられています。というのも元軍は、東路軍は元・高麗の艦隊、江南軍は降伏したばかりの宋人の艦隊で、異民族連合軍だったからです。
確かに東路軍の独断行動には不和もあったかもしれない。しかし、江南軍との連絡手段のないこの時代、いつ来るかもわからない、もしかすると難破してしまったかもしれない援軍のために無駄に兵站と時間を浪費するのは得策ではない・・・という判断もあったのだろうと思います。
一方の日本側も、元軍の動きをしっかりと察知しており、元軍の襲来に合わせて沿岸の警備体制を強化しています。
元軍は、文永の役の時同様、再び博多湾を襲いますが、これがもう大苦戦。というのも、最初の方でお話しした元寇防塁が超有能で元軍はこれを簡単に突破することができなかったのです!!
ちなみに、元寇防塁のイメージ図↓
【元寇防塁と異国警固番役の御家人たち】
防塁は2〜3mほどの高さだったと言われ、これを攻略できなかった元軍は6月6日、志賀島を占拠し撤退。そのしばらくこう着状態が続きます。
その後、日本軍は攻勢に転じ志賀島を襲い続けます。6月6日には夜襲を仕掛け、6月8日には志賀島に総攻撃を仕掛けます。
【海から志賀島を偵察する日本軍(左下)と海を監視する元軍(右上)】
【志賀島を目指す日本軍】
6月8日以降も日本の攻撃は続き、これに耐え切れなくなった元軍は、遂に志賀島を諦め、壱岐島へと撤退していきます。
兵力的には日本軍は圧倒的不利でした。しかし、日本軍は糞や死体を敵船に投げ込んで感染症を狙ったり、博多を事前に荒らして敵が最も欲する兵量を現地確保させない焦土作戦をしたりと、相当えげつないことまでしていたと言われています。それに、当然ながら地の利もありました。
弘安の役(後半戦)
季節は夏、壱岐島に撤退した元軍内では疫病が蔓延し(日本の糞・死体放り投げ作戦のおかげ?)士気はだだ下がり。東路軍は、江南軍がやってくるまで壱岐島で待機することになりますが、そこに再び日本軍の追撃部隊がやってきます。6月29日の話だと言われています。
【青線が日本軍。赤線が元軍の進軍経路】
壱岐島での戦いは日本側の被害も甚大だったらしく、九州軍の総司令官的ポジションだった鎮西奉行の少弐資能自ら参戦し負傷したと言われています。総大将が前線で戦うということは戦いの規模も相当なものだったのでしょう。
しかし、甚大な被害を被りながらも、日本軍は志賀島に続いて壱岐島からも元軍を追い出すことに成功。元軍は鷹島へと撤退します。
一方、6月下旬になると遂に寧波(ニンポー)からやってきた江南軍が平戸と鷹島に到着。日本軍に敗北した東路軍は、鷹島へと撤退しつつこの江南軍との合流を図ったのです。
江南軍の兵力は10万とも言われる大軍。江南軍の合流により、これまで辛うじて攻勢だった日本軍は一変して不利な立場に追い込まれます。
しかし、なぜか元軍はすぐに攻めてきません。およそ一ヶ月ほど、膠着状態が続きました。この時の元軍の謎の行動の意図は未だによくわかっていません。
大軍は確かに強いですが、大軍を支える兵量の確保はとても大変なことでした。なので、何もしないままただ平戸・鷹島で兵量を無駄に浪費することは非常に愚かな行為なんです。
なのに元軍は動かなかった。一見愚かに見える行為ですが、元軍には元軍なりの何かの理由があったはずなんです。しかし、その理由がわからない。この辺りの話は弘安の役の大きな謎の1つというわけです。
しかし、結果的に元軍の一ヶ月の謎の滞在は完全に裏目となります。九州に台風が襲ってきたのです!!
弘安の役と神風
さて、こう着状態が続く中、7月30日、日本は暴風雨(台風)に見舞われます。この時の台風は、京都にいる公家の記録にも「もの凄い台風だった!!」と残されているほど大きな台風で、これにより平戸・鷹島に船を停泊させていた元軍たちは壊滅的な被害を受けることになります。
これこそが、日本史上よく語られる「神風!」というやつです。文永の役の際の神風は嘘っぽいんですが、弘安の役の神風は同時期に台風が来た記録が残されているのでおおよそ真実のようです。
しかし私たちは、少し冷静に当時の状況を考える必要があります。
まず1つは、この神風は起こるべくして当然に起こったということです。夏に3ヶ月も九州に滞在していればそりゃ台風の一度や二度やってきます。この時の強風は、別に神風でもなんでもなく、よくある気象現象の1つにしか過ぎないのです。
それに、記録にはあまり残っていないようですが、被害を受けたのは元軍だけじゃありません。日本だって台風の被害者です。家を吹き飛ばされたり、畑がダメになったり、現代と同じような被害が昔も起こっていたことでしょう。
つまり、台風による元軍の大破は起こるべくして起こった話であり、それこそ元の作戦ミスとすら言えるかもしれません。それに加え、被害の大きさは違えど、被害を受けたのは日本も同じなのです。
弘安の役と残党狩り
御家人たちはこの台風に歓喜したことでしょう。というのも残党狩りをすれば、恩賞をたくさん貰えるかもしれないからです。
御家人たち「うおー!!弱った元軍の斬りまくって、功績あげて恩賞たくさん貰ったる!!!!!」
こうして恩賞に目の眩んだ御家人たちによって、台風の後も数日間、戦闘は続き、弱った元軍は蹂躙され、元軍は命からがら逃亡するのでした。
【元軍を追撃する御家人たち(左側)】
日本の被害も大きかったものの、元軍の被害はそれを上回るもので、弘安の役は元の大敗に終わったのです。
鷹島には、弘安の役で命を落とした元軍のための蒙古塚が今も残されています。私は行ったことがありませんが、そこで目を瞑れば、当時の惨状が容易に浮かび上がってくるような気がしてなりません・・・。
弘安の役のその後
元・日本両者に大きな爪痕を残した弘安の役。
これで世間一般に言う元寇は終わったわけですが、実はもうちょっと続きがあります。
弘安の役で大軍を追い払った幕府は、すぐさま高麗討伐遠征を企てます。しかし、これは疲弊した御家人の反発により自然消滅。
一方の元も3回目の日本侵略計画を企てます。実は弘安の役が終わった後も、日本と元はまだまだ戦う気満々だったんです。
ところが、元は元で度重なる戦争で内政事情が悪化。中々日本を攻めることができません。それに加え、元はベトナム方面の侵略にも失敗し、日本侵略作戦はそのまま自然消滅してしまいます。
とは言え、日本としては警戒態勢を解くことはできません。文永の役・弘安の役の際に設置された異国警固番役は鎌倉幕府が滅ぶまで続けられ九州御家人の大きな大きな負担となっていくのです。
弘安の役まとめ
以上、弘安の役についてザックリとまとめてみました。弘安の役については通説らしい通説がなく、本当にいろんな説が乱立しているため、この記事で書いたお話もそんなお話の1つ程度として認識していただけると幸いです。
ただ1つ言えそうなのは、弘安の役での日本の勝利は決して台風による偶然なんかではないということです。
この3点が日本が世界屈指の大艦隊に打ち勝てた大きな要因となります。
そして、「弘安の役が終わり日本には平和が訪れた・・・」というハッピーエンドな展開にもなりません。元寇に尽力した御家人たちは疲弊し、恩賞もまともに与えられず、日本各地の御家人たちは大きな大きな不満を持つことになります。
この不満により各地の治安が悪化し、「悪党」と言われるアウトローが激増。1331年に後醍醐天皇が倒幕運動を始めると、幕府に不満を持つアウトローたちは一挙にして天皇に味方。鎌倉幕府はあっという間に滅亡することになります。
弘安の役によって危機は去ったかに見えましたが、それは鎌倉幕府の終わりの始まりに過ぎなかったのです。
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