紀貫之がわかる!性格・生涯を簡単にわかりやすく紹介するよー【古今和歌集と土佐日記】

この記事は約8分で読めます。

今回は平安時代中期の和歌の名人、紀貫之(きのつらゆき)について紹介します。

紀貫之は古今和歌集を作ったり、土佐日記を書いた文人として有名ですが、その人物像や生涯となると知らない人も多いのではないかと思います。

土佐日記を読んでとても面白かったので、「もしかして、紀貫之の生涯とか知れたらもっと楽しめるんじゃね?」と思って、紀貫之について調べてみました!

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【悲報】生まれた瞬間没落する

紀貫之は870年頃に生まれたと言われていますが、実はこの頃、紀氏が没落するきっかけとなった大きな事件が起こりました。

それが応天門の変という政変。藤原良房という藤原氏のボスによる陰謀だとも言われている非常にきな臭い事件です。

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866年に起こった応天門の変により、紀氏は藤原良房の標的となり、政界の中枢からは失脚してしまいます。そんなお先真っ暗な状態の中、紀貫之は生まれたのです。

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紀貫之の才能と運

そんな絶望的な時代に生まれた紀貫之ですが、とある才能を見出され、途端に有名人となります。

その紀貫之の才能とは和歌の才能です。和歌のみならず漢詩にも精通していた紀貫之は、その博識さと表現力でメキメキとその頭角を現すことになります。

当時は、屏風絵(びょうぶえ)が貴族たちの中で大ブームでした。屏風は部屋の仕切りに用いられるもので、こんなやつ↓

平安時代の貴族たちの館って、実は壁がほとんどなくて柱を中心に作られていました。お寺に行ったら大広間にぶっとい柱がたくさん立っている空間を見たことのある方もいるかと思いますが、それをイメージしてもらえるとわかりやすいです。

そして、そんな広い空間を屏風や簾(すだれ)なんかで上手く仕切って建物を利用していたんです。屏風や簾の配置次第で部屋をいろんな用途で使えるので便利といえば便利でした。

そんな、貴族たちの日常空間に当たり前のように存在していた屏風。おそらく殺風景な屏風を見るのも飽きたのでしょう。800年代後半になると、屏風に絵を描いて、それを見て楽しむ屏風絵というのが流行り出します。風景画が多かったようです。

そして、屏風絵が流行るようになると、余興などで「おい、誰かその屏風絵に合わせて和歌でも読んでくれや!」という要望も増え、屏風歌なるものが流行ります。

紀貫之が活躍したのは、この屏風歌の歌い手としてでした。政治的には没落した紀氏ですが、自らの才で文化の面で大きく躍進したのです。

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醍醐天皇「古今和歌集作るでー」

905年、なんと天皇自らが「公式な和歌集を作るぞ!」と高らかに宣言しました。当時の天皇は醍醐天皇。この時作られた和歌集は「古今和歌集」と呼ばれるものです。和歌ブームは衰えるところ知りません。

醍醐天皇は、古今和歌集の編纂のため4人の人物を抜擢しますが、なんとその1人に紀貫之が含まれていたのです!しかも、紀貫之は古今和歌集編纂のリーダ的存在にまでなっています。

朝廷の和歌ブームは止まるところを知らず、それに呼応しトントン拍子で紀貫之の活躍の場も増えていきます。当時の紀貫之はだいたい30〜40才ぐらい。まさに働き盛りの年齢です。

917年には、従五位下の位となり貴族の仲間入りを果たすまでになります。

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晩年の不遇

こんな感じで紀貫之の知名度はグングン上がり、和歌の仕事である程度生計も立てれたようですが、位は高くとも官僚としての栄転は望めず、晩年になるとちょっと様子が変わってきます。

というのも、930年に土佐へ受領(じゅりょう。今でいう県知事的なポジション)として赴任することになったんです。

朝廷の華やかな場で和歌を歌っていた紀貫之ですから、ど田舎の土佐への赴任は自ら望んだものではないでしょう。

しかし、受領は儲かります。受領はその地域の徴税を担う最高責任者。農民たちから税金を徴収して、国にも一定額を収めて、その差分が受領の取り分になります。作物のよく育つ豊かな国で農民を酷使すれば、莫大な富を築けるワンチャン狙える役職が受領なのでした。しかも土佐国は決して豊かではないにしても、まぁボチボチな国でした。

つまり、

朝廷に残って貧しいままやりたいことをやるか
受領となって財を築き、一族のために頑張るか

の二択に迫られたわけです。そして、紀貫之は後者を選んだ・・・と。

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紀貫之「土佐から帰れる!土佐日記書いたろ」

934年、紀貫之は土佐での赴任を終え、故郷の平安京に戻ります。旅路は約50日間!この間に書かれたのが有名な土佐日記(とさにっき)です。

土佐日記は、60代になる紀貫之が女のふりをして書いた日記。シチュエーションが色々とブッとんでる。

その内容から、紀貫之は土佐国で若い我が子を失ったものと考えられています。詳しくは以下の記事を。

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土佐日記を読んでいると、冒頭で紀貫之が地元の人々から送別会を開いてもらっていて、民に慕われている様子が書かれています。

先ほど、「受領は民から搾取すれば儲かる」的な話をしましたが、どうやら紀貫之は民を搾取するようなことはしなかったようです。受領は「受領は倒れるところに土をつかむ」ということわざがあるほど、人々に恐れられていた存在でしたが、紀貫之はそうではありませんでした。

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非常に悲しい辞世の句

土佐日記には、「早く帰りたくて我慢できん!」という紀貫之の気持ちが溢れ出ています。早く帰って、また昔のように朝廷で和歌でも歌いたかったのでしょう。

危険な船旅を終え、無事に故郷に帰ってきた紀貫之。(当時は藤原純友ら海賊が瀬戸内海や四国近辺を荒らしていた!!)

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しかし、そこは決して安寧の地ではありませんでした。約5年も放置した家はボロボロです。管理を任せていた隣人が管理をサボっていたのでした。

しかも、舞い込んでくる仕事は相変わらず、屏風歌の仕事で、官位は一向に上がる気配がしません。受領になって一発当てる作戦も、「民に親しまれていた」ということから、十中八九失敗していたのでしょう。(民を搾取しなければ金持ちにはなれない!!!)

紀貫之の晩年は、古今和歌集を編纂していた頃の栄華と比べると非常に侘しいイメージが付きまといます。

それは、紀貫之が亡くなる直前に友人に送った辞世の句からも伺うことができます。

手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ

(手にすくった水に映っている月の影のように、この世はあるかないかわからにような、本当にはかない世の中であった。)

「俺の人生はなんだったんだ・・・」というような非常に切ない想いが込められている一句です。

自分のやりたい和歌をやり続けた一方で、一族のために何の功績も残せなかった後悔の念みたいなものが感じられます。

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正岡子規「紀貫之の歌下手すぎワロタww」

さて、紀貫之の生涯を暗く包む雲はこれだけではありません。

明治時代の有名な歌人の1人である正岡子規。実は紀貫之のことが大っ嫌いで結構ひどいこと言っています。

正岡子規「紀貫之?あぁ、あいつの歌下手すぎだよね。古今和歌集とかダサ過ぎワロタw」

というのも、正岡子規が紀貫之を嫌うのにもそれなりの理由があるのです。

紀貫之は、前述のように屏風歌などの朝廷の宴会などで活躍した歌人であり、いわば余興の盛り上げ役です。

ってことは、紀貫之は自分の歌いたい歌ではなく、その場にいる貴族たちに好かれるような歌を歌う必要があります。紀貫之のこの偉い人たちに媚びへつらっている感じが嫌いだと正岡子規は言っているんです。

しかも、平安時代中期の和歌が朝廷の余興の意味合いを帯びてくると、言葉遊びに嗜好を凝らした和歌が増えていきます。

歌とは本来、自分の気持ちを吐き出すものであるはずなのに、その和歌が朝廷の余興で言葉遊びに使われることにも正岡子規は憤りを感じたようです。(正岡子規は、質素でストレートな表現の多い万葉集推しだった)

確かに悪く言ってしまえば、紀貫之ってお偉人たちに媚び売って稼いでるだけかもしれません。でもこれって、商売の視点で見れば非常に有能です。応天門の変で紀氏が没落した後も、朝廷の和歌ブームに見事に乗っかって、その実力で金を稼ぎ、しかもその名を後世に残すことに成功したんですから。

紀貫之以前は、和歌は貴族たちが自ら嗜むもので、「和歌のプロを招いて歌を披露させる」ということはあまりありませんでした。紀貫之以前の歌人で有名な在原業平も大伴家持もあくまで一官僚として和歌を嗜んでいたにすぎません。

それが、この頃になると歌人という職業ができ、その先駆けとなったのが紀貫之だったのです。そして「和歌で生きることができる!」という先例を切り開いた紀貫之は、後の歌人達から絶大なる人気を誇ることになります。

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紀貫之まとめ

紀貫之についてまとめると

和歌専業の道を切り開いた先駆者
才能と時流が見事にマッチして有名人に
「古今和歌集」の編纂者にも選ばれる
その華やかな和歌とは裏腹に生活には悲壮感が漂う(特に晩年)
土佐日記が面白い。そして、紀貫之は民に優しいよき人だった。
辞世の句が悲しすぎて泣ける

紀貫之の生涯に少しでも興味を持った方は、ぜひ土佐日記を読んで欲しいです。

土佐日記は60代になるいい歳したおっちゃんが女のふりして書いた旅行日記。その内容だけでも色々とブッとんでいて面白いんですが、紀貫之の生涯を知った上で読んでみるとさらに土佐日記を楽しむことができます。

短編なのですぐ読めるし、わかりやすい現代語訳の本も出版されているのでぜひ!

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もぐたろう

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