今回は、平安文学の1つである土佐日記について土佐日記についてわかりやすく丁寧に紹介します。
土佐日記を書いた紀貫之という男
土佐日記は平安時代中期の930年ころ、紀貫之という男によって書かれました。
紀貫之は紀氏という一族の一人です。この紀氏は、866年に起こった応天門の変という事件により没落してしまいます。
つまり、紀貫之は政治世界での出世の道を閉ざされていたんです。
しかし、紀貫之には和歌の才能がありました。その才能が醍醐天皇に認められ、紀貫之は 905年に完成する古今和歌集の制作メンバーの中心人物に抜擢されています。
その紀貫之が、晩年にチャレンジしたのが日記の執筆です。
当時の日記は、今でいう仕事メモ手帳みたいに使われていました。なので、漢字びっしりで堅苦しいことが書かれています。
和歌マスターでひらがなを使うことに慣れていた紀貫之は、こんなことを思いました。
なんか、仕事のこと忘れて日々の出来事書きたいよなぁー。
漢字で書いたら仕事感がでちゃうし、ひらがなで書けないかな。ひらがなは和歌で使い慣れてるし!
しかし、当時は漢字で文章を書くのが当たり前。ひらがなを使うのは、和歌や高貴な女性がプライベートで用いる場合に限られていたのです。
紀貫之は出世の道は閉ざされていても、官人としてそれなりの地位にあります。その紀貫之がひらがなで文章を書けば、いろんな人から叩かれたり炎上すること間違いなしです。
そこで、紀貫之はひらめきました。
・・・そうか、わかったぞ!私の名前で日記を書くからひらがなを使えないんだ。
偽名で女性のふりをして日記を書けば、堂々とひらがなを使えるじゃないか!!
こうして、紀貫之が女性のふりをして書いたのが土佐日記です。当時、紀貫之は60才ぐらいの年齢。つまり、土佐日記は
60才にもなるいい歳したおっさんが、女性のふりをして書いた日記
ってことになります。
女性のふりをしてネットをすることをネカマなんて言いますが、ネカマが日記ブログを書いているようなもんです。
そんなトンデモ日記ですが、読んでみると非常に面白いです。
後で他人に読まれることを想定して書いているのでストーリー性があり、ユーモアあり感動ありの、読者を引き込むような内容になってるからです。(内容は後で紹介しますよ!)
土佐日記は、日本初めての日記風文学作品とも言われるています。
これは私の憶測ですが、紀貫之は和歌の世界に閉じこもるのではなく、その殻を破って新しい文学の可能性を模索していたんじゃないか・・・と思います。
土佐日記のあらすじ
次に、土佐日記にはどんなことが書かれているのか紹介していきます。
その内容には、ところどころに和歌が使われ、ユーモア溢れるものになっています。
しかし、土佐日記が単に和歌を使った面白日記だけなら、1000年以上たった今まで有名な作品として残ることもなかったでしょう。
土佐日記を名作品たらしめるその最大の理由は、
ユーモア溢れる土佐日記の根底にある真の主題が、実は「土佐で失った我が子を想う紀貫之の悲哀の気持ち」だったからです。
土佐日記を読んでいくと、何度も子を失った夫婦の話が登場します。実はこれ、紀貫之夫婦のことを指していると言われています。
悲しみの中にユーモアを融合させ、しかもそれを第3者の女性の立場から描くという独特の世界観にこそ、他の文学作品にはない土佐日記の面白さがある・・・と私は思います。しかも紀貫之は有名な歌人です。そこに的確な情景描写や和歌も相まって、土佐日記は名文学作品として昇華されるのです。
土佐日記を少しだけ読んでみる
土佐日記は、次の書き出しから始まります。
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。
【現代語訳】
男が書いている日記というものを、私も書いてみるわよ!!
これを歳をとったおっさんが書いてると思うと複雑な気持ちですね・・・。
紀貫之は、「土佐で任期を終えた国司と共に都へ戻る一人の女性」という設定で土佐日記を書きます。そして、ここでいう「任期を終えた国司」というのが紀貫之本人になります。
この冒頭の文章、実は1つ大事なことがわかります。
それは、当時は女性が日記を書くという風習がなかったってことです。
1000年頃になると、紫式部日記や蜻蛉日記など女流作家の日記文学が多く生まれますが、930年当時は女性が日記を書くのは異端なことでした。
その意味で、土佐日記はのちの女流作家たちの先駆け的な作品とも言えます。書いているのはいい歳したおっさんですけどね・・・(汗
紀貫之「女のふりしてること、みんなに知ってほしい」
冒頭で「私、女だけど日記書いてみるの!」と女性アピールする紀貫之ですが、ちょっと内容を読み進めると一瞬で男であることがバレます。
というか、ワザとバレるように書いてます。確信犯です。なぜかというと、平安時代の慎ましい女性が言うとは思えない過激な表現が次々と登場するからです。
「鮎(あゆ)の塩漬けをみんな頭からしゃぶっている。もしかして鮎は人々と口を交わらせて(キスをして)、変な気持ちにでもなってないかしら?」
とか、
女性たちが水浴びしているシーンで
「女性は船中では派手な服は着ません。なぜなら海神の祟りを恐れているからです。しかし、今は目隠しにもならない股の葦(あし)を身につけて、ホヤ(男の〇〇の例え)に合わせるアワビ(女性の〇〇の例え)を思いもかけず海神たちに見せているのですよw
とか、
下ネタ全開のトンデモナイことばっかり言ってます。いい歳したおっさんが女性のふりして下ネタとか、紀貫之はいい感じでぶっ飛んでます。
これを読んでいる多くの人は思います。
土佐の国司って紀貫之だよな・・・。
ってことは下ネタ全開のこの日記って、もう紀貫之が書いたので確定じゃん。
ひらがなでこんなぶっ飛んだこと書けるの紀貫之しかいねーよ。
しかも、ネカマ設定とかクソワロタww
紀貫之も、バレるように意図的に土佐日記を書いてます。
こんな感じで、ユーモア溢れる話が続く中、ところどころに、この女性が我が子を失って、悲しみにくれる場面が登場します。
紀貫之が土佐日記で本当に書きたかったのは、この我が子を失った悲しみでした。
そして、その悲しみを文学作品として表現するにあたって、自分自身が主役となる日記では悲しみのあまりに作品を書くことができなかった・・・のだと私は思います。
紀貫之は自分自身の悲しみを、ネカマ設定により第三者目線で描くことで、土佐日記を歴史に残る名作に昇華させたのです。
我が子を失う悲しみ
土佐日記では、土佐で任期を終えた前国司(紀貫之)とその妻が、何度も土佐で子を亡くした悲しみを爆発させます。
土佐から無事に都へ戻った時、土佐へ向かった時にはみんな子どもなどいなかったのに、今では土佐で生まれた多くの子どもたちが母に抱えられ船を乗り降りしている。
この様子を見て前国司(紀貫之)の妻は悲しさに耐え切れず、次のような和歌をよみます。
なかりしも ありつつ帰る 人の子を ありしもなくて 来るが悲しさ
【現代語訳】
前は子どもを持っていなかった人も、今では子どもを連れて帰ってきている。それなのに、子を持っていた私は子を亡くして帰ってきてしまった。その悲しさと言ったら・・・。
こう詠んで、泣き崩れます。
他にも、土佐から船を出すときの話です。前国司(紀貫之)は、土佐を離れると思うと土佐で亡くなった子のことばかりを悲しみ、恋しく思います。周りの人もその様子を見て、悲しみを堪えきれません。そこである人が歌を書きます。
都へと 思うをものの 悲しきは 帰らぬ人の あればなりけり
【現代語訳】
都へ帰れると思うにつけて、なんとも悲しいのは、生きては帰らぬ人があるからだったよ
とか、
あるものと 忘れつつなほ なき人を いづらと問うぞ 悲しかりける
【現代語訳】
亡くなった子のことを忘れてしまい、生きていると思って「あの子はどこにいるの?」と聞いてしまうのは、かえって悲しいものだなぁ
とか。
こうして紀貫之の気持ちを和歌で代弁しているうちに、最後に紀貫之に挨拶をしようとする人たちがぞろぞろと集まってきました。
国司というのは、住民から税金を徴収する権力者で、人々から恐れられていることが多い・・・はずなんですが、紀貫之の元に挨拶をしに来る人がたくさんいるのを見ると、紀貫之は土佐で善政を敷いた人気者だったのかもしれません。
このユーモアと悲哀の融合と、それを表現する和歌が絶妙です。本当に悲しい歌です。和歌に疎い私がよんでいても、心にグッと来るものがあります。
土佐日記を読んでみよう
・・・と、内容の紹介はここまで。続きが知りたい方は、実際に土佐日記を読んでみましょう!
「60過ぎたおっさんのネカマ日記」というふざけた設定からは想像もできないほど、その内容は笑いあり涙ありの素晴らしいものです。
日記の期間が約50日分だけというのもあり分量も少ないので、気軽に読むことができるのも◎。
伊勢物語をまず読んでみるのなら、角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス日本の古典」シリーズが超オススメです。私は古典を読むときは必ずこのシリーズを読むことにしています。
わかりやすい現代語訳と、要点を絞った丁寧な解説のおかげで、素人でも簡単に古典に触れることができます。本当に、現代は恵まれた時代ですね。
土佐日記は、古今和歌集の編纂した経験も活かした、笑いあり涙ありの私の傑作。
短い内容だが、1000年以上経った今でも、きっと人々の心に響くものがありますよ。
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