

今回は長篠の戦いについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!教科書の「鉄砲三段撃ち」の話、実はけっこう誤解があるんだ。最新の研究もふまえて、信長がなぜ勝てたのかまで深掘りしていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
「織田信長が鉄砲3000挺を使った三段撃ちで、無敵の武田騎馬軍団を打ち破った」——学校でそう習った人は多いと思います。
でも実は、「三段撃ち」は後世に作られた話である可能性が高く、武田軍も相当数の鉄砲を持っていました。では信長はなぜ勝てたのか?長篠の戦いの「本当の姿」を、最新の研究をもとに解説していきます。
長篠の戦いとは?
- 1575年(天正3年)、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が三河国(現・愛知県)で激突した戦い
- 兵力約3万8千 vs 約1万5千の大きな差があり、信長・家康連合軍が圧勝した
- この戦いで武田の主力武将が多数討ち死にし、武田家滅亡(1582年)の遠因となった
長篠の戦いは、1575年(天正3年)5月21日に、三河国設楽原(現在の愛知県新城市)で起きた戦いです。「長篠合戦」とも呼ばれます。
織田信長・徳川家康の連合軍(約3万8千)と、武田勝頼率いる武田軍(約1万5千)が激突し、兵力で2倍以上の差がある信長・家康側が圧勝しました。
この戦いは、信長が大量の鉄砲を活用したことで知られ、戦国時代の合戦のあり方を大きく変えたターニングポイントとして位置づけられています。

「長篠の戦い」と「長篠合戦」って同じもの?あと「設楽原の戦い」ともいうの?

全部同じ戦いを指しているよ!厳密にいうと、長篠城の攻防戦を「長篠の戦い」、設楽原での野戦を「設楽原の戦い」と分けることもあるけど、教科書ではまとめて「長篠の戦い」と呼ぶのが一般的だよ。
長篠の戦いが起きた背景・原因

長篠の戦いが起きた背景には、武田信玄の死と、後を継いだ武田勝頼の焦りがありました。
■ 武田信玄の死と後継者・勝頼の苦境
1573年(元亀4年)、戦国最強と謳われた武田信玄が、上洛(京都へ攻め上ること)の途中で病死しました。享年53歳でした。
信玄は死に際して「我が死を3年の間秘匿せよ」と遺言したと伝えられています。それほどに、信玄の存在は武田家の求心力そのものだったのです。
信玄の跡を継いだのが、四男の武田勝頼でした。しかし勝頼を取り巻く状況は厳しいものでした。
信玄時代からの宿老(重臣)たち——馬場信春、山県昌景、内藤昌豊らは、「信玄公ならこうされたはず」と勝頼の判断にたびたび異を唱えたとされています。

父・信玄の名を超えたかった。だからこそ、攻めに出るしかなかったんだ…。退いたら「やはり信玄公の息子には荷が重い」と言われる。それだけは絶対に嫌だった。
勝頼は父の死後も積極的な攻勢に出て、1574年には高天神城(遠江国)を攻め落とすなど、信玄に劣らぬ戦果を上げていました。しかしその一方で、織田信長と徳川家康の勢力は着実に拡大していたのです。
■ 長篠城の攻囲と奥平信昌の奮戦
1575年(天正3年)4月、勝頼は約1万5千の兵を率いて、徳川家康の支配下にあった長篠城(現在の愛知県新城市)を攻囲しました。
長篠城を守っていたのは、奥平信昌(当時の名は貞昌)とわずか約500人の守備兵でした。もともと奥平氏は武田方でしたが、信玄の死後に徳川家康に寝返った経緯があります。
勝頼にとって長篠城の攻略は、裏切り者を罰するという意味合いもあったのです。
奥平信昌は少数の兵で約1ヶ月にわたって必死に籠城し、武田軍の猛攻に耐え続けました。城内の食料は尽きかけ、落城も時間の問題という状況でした。

奥平信昌はこの功績が認められて、戦後に家康の長女・亀姫を正室に迎えたんだよ。なお「信昌」の名前は信長の偏諱(「信」の字を贈ること)とする説が有名だけど、武田信玄の「信」を受け継いだとする説もあって、実は諸説あるんだ。500人で1万5千を相手にしたのは本当にすごいことだよ!
鳥居強右衛門の活躍——長篠城を救った男

長篠城が落城寸前に追い込まれる中、一人の足軽が命がけの行動に出ました。それが鳥居強右衛門です。
強右衛門は奥平信昌の家臣で、身分は低い足軽(下級の歩兵)でした。しかし、その忠義の行動は戦国時代を代表するエピソードとして語り継がれています。
1575年5月14日の夜、強右衛門は長篠城から脱出する任務を命じられました。武田軍の包囲網を突破し、徳川家康のいる岡崎城まで約70kmの道のりを走り、「城はもう限界です。一刻も早く援軍をお願いします」と伝えることに成功します。
家康はすでに信長と合流して出陣の準備を進めており、「援軍はすぐに向かう」との返答を得ました。
■ 敵陣に叫んだ「援軍が来るぞ!」
朗報を持って長篠城に戻ろうとした強右衛門でしたが、帰路の途中で武田軍に捕えられてしまいます。
武田軍は強右衛門にこう持ちかけました。
「城に向かって『援軍は来ない。諦めて降伏しろ』と叫べ。そうすれば命は助けてやる」
強右衛門は一度は承諾したように見せかけたとも伝えられています。しかし、城の前に引き立てられると、強右衛門は城内の仲間に向かって力の限り叫びました。
「あと二、三日で援軍が来る!もう少しの辛抱だ!」
激怒した武田軍は、強右衛門をその場で磔(はりつけ)にして処刑しました。しかし、強右衛門の叫びを聞いた長篠城の守備兵たちは士気を取り戻し、援軍が到着するまで城を守り抜いたのです。

鳥居強右衛門は身分の低い足軽だったんだよ。それでも仲間を救うために命を投げ出した。この話は長篠の戦いの中で一番心を揺さぶられるエピソードだと思う。敵の武田方にも強右衛門の忠義に感動した人がいて、磔姿を描いた旗を作ったという逸話まで残っているんだ。
長篠の戦いの経過

1575年5月、織田信長は約3万の大軍を率いて三河国に到着し、徳川家康の軍約8千と合流しました。連合軍の総兵力は約3万8千。対する武田軍は約1万5千。兵力差は圧倒的でした。
■ 信長の周到な準備——馬防柵と連吾川の戦略
信長が設楽原で行った準備は、当時としては異例のものでした。
まず、設楽原の西側を流れる連吾川を天然の防御線として活用しました。川の手前(西側)に約2kmにわたる馬防柵を設置し、武田軍の騎馬隊が突撃しにくい地形を人工的に作り出したのです。
さらに、馬防柵の後方には大量の鉄砲隊を配置しました。『信長公記』(信長の一代記)には、信長が「鉄砲1000挺以上」を用意したと記されています。


戦は準備が全てだ。馬防柵、連吾川、そして鉄砲——全て計算し尽くした上で、勝頼が突っ込んでくるのを待っていたのだ。
■ 両軍の戦力比較——数の差がいかに大きかったか
ここで、両軍の戦力を整理しておきましょう。
【両軍の兵力比較】
織田・徳川連合軍:約3万8千(うち鉄砲1000挺以上)
武田軍:約1万5千(うち鉄砲 数百挺程度とされる)
※ 通説では「信長の鉄砲3000挺」とされるが、一次史料『信長公記』には「1000挺以上」と記載。3000挺は後世の誇張の可能性が高い
このように、そもそも兵力で2倍以上の差がありました。さらに信長は馬防柵・連吾川・鉄砲という「防御に有利な環境」を整えた上で武田軍を待ち受けていたのです。

■ 決戦——武田主力武将の壊滅
5月21日早朝、武田軍は馬防柵に向かって突撃を開始しました。
武田軍の騎馬隊は連吾川を渡り、馬防柵に取り付こうとしましたが、柵に阻まれて勢いを失い、そこを鉄砲による集中射撃で次々に撃ち倒されました。
戦いは約8時間続きましたが、結果は武田軍の壊滅的敗北でした。武田方の討ち死には以下の通りです。
長篠の戦いで討ち死にした武田方の主要武将
馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、原昌胤、望月信永ほか多数
これらはいずれも武田信玄の時代から武田家を支えてきた歴戦の重臣たちでした。一度の戦いでこれほど多くの有力武将を失った例は、戦国時代でもほとんどありません。
勝頼自身は辛うじて戦場を脱出し、甲斐へ撤退しました。

なんでこんなに負けるとわかっていたのに、勝頼は突撃したの?

実は、宿老の山県昌景らは撤退を進言したとも言われているんだ。でも勝頼には「ここで引いたら武田家の威信が崩れる」という焦りがあった。長篠城をせっかく攻囲したのに、援軍が来たからといって退くわけにはいかなかったんだね。
鉄砲三段撃ちの真実——通説はウソだった?

長篠の戦いといえば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのが「鉄砲三段撃ち」でしょう。
通説では、信長が鉄砲隊を3列に並べ、1列目が撃つ→2列目が撃つ→3列目が撃つ→その間に1列目が弾込めを完了、というローテーションで切れ目なく射撃を続けた……とされてきました。
しかし、近年の研究ではこの通説にはかなり疑問が投げかけられています。
■ 「三段撃ち」という記述は信長公記にない
長篠の戦いに関する最も信頼性の高い一次史料は、信長の家臣・太田牛一が書いた『信長公記』です。
ところが、この『信長公記』には「三段撃ち」に関する記述がありません。書かれているのは「鉄砲1000挺以上を用意した」ということと、馬防柵を設けたことだけです。
では「三段撃ち」の話はどこから来たのでしょうか。
その出典とされているのは、江戸時代に書かれた『甫庵信長記』です。これは太田牛一の『信長公記』をもとに、小瀬甫庵が脚色を加えて書き直したもので、史料としての信頼性は低いとされています。

じゃあ教科書に書いてある「三段撃ち」は全部ウソなの?テストではどう書けばいいの?

「ウソ」と言い切るのは難しいけど、「後世に誇張された」という理解が正確だよ。テストでは「信長が鉄砲を大量に活用した」と書けばOK!「三段撃ち」と書くかどうかは、教科書の記述に合わせるのが安全だね。最近の教科書では「三段撃ち」を載せなくなっているものも多いよ。
また、通説では「信長の鉄砲3000挺」とされていますが、『信長公記』の記述は「1000挺以上」です。3000挺という数字も『甫庵信長記』に由来するとされ、実際の数はもう少し少なかった可能性があります。
さらに重要なのは、武田軍も鉄砲を持っていたという事実です。武田方にも数百挺の鉄砲があったとする研究もあり、「鉄砲を持つ織田 vs 鉄砲を持たない武田」という単純な構図は正確ではありません。
■ では信長が勝てた「本当の理由」は?
三段撃ちが誇張だとすると、信長はなぜ勝てたのでしょうか。現在の研究では、複数の要因が重なった結果と考えられています。
信長が勝てた本当の理由
理由1:圧倒的な兵力差
約3万8千 vs 約1万5千。単純に兵の数が2倍以上ありました。戦争において、兵力差は最も基本的で強力な要因です。
理由2:馬防柵と連吾川の地形活用
馬防柵が武田の騎馬突撃の威力を削ぎ、連吾川が天然の堀として機能しました。武田軍はただでさえ不利な地形で戦わされたのです。
理由3:鉄砲の集中運用
「三段撃ち」かどうかはさておき、信長が1000挺以上の鉄砲を集中的に運用したことは事実です。馬防柵で足止めされた武田兵に対する鉄砲の一斉射撃は、壊滅的な打撃を与えました。
理由4:勝頼の判断ミス
宿老たちの撤退の進言を退けて正面突撃を選んだこと自体が、結果的に大きな判断ミスでした。信長の「守りの陣」に対して正面から攻める必要はなかったという見方もあります。

なぜ俺が勝ったか?騎馬隊と鉄砲のおかげだと単純に考えるな。勝頼が俺の陣を見くびり、正面から突っ込んでくれた——それが全てだ。
長篠の戦いの結果と影響
長篠の戦いの結果は、勝者と敗者それぞれに大きな変化をもたらしました。
■ 武田家への打撃——宿老たちの討ち死に
長篠の戦いで武田家が受けた最大のダメージは、兵の数ではなく、有能な武将を一度に大量に失ったことでした。
馬場信春・山県昌景・内藤昌豊は、いずれも信玄の時代から「武田四天王」「武田二十四将」と呼ばれた名将たちです。彼らが同時に討ち死にしたことで、武田家の軍事的指揮能力は一気に低下しました。
また、真田信綱・真田昌輝兄弟の戦死も武田家にとって痛手でした。真田信綱の弟にあたる真田昌幸(のちの「表裏比興の者」)が家督を継ぐことになります。

信春も、昌景も、昌豊も…みな父の代からの忠臣だった。俺の判断が、武田家の柱を一度に折ってしまった…。
■ 信長の天下取りが加速した
一方の織田信長にとって、長篠の戦いは東方の脅威を大幅に弱体化させた大きな勝利でした。
武田家が急速に衰退したことで、信長は東方への警戒を緩め、西方の毛利氏や石山本願寺との戦いに集中できるようになりました。徳川家康も三河・遠江の支配を盤石にし、東海地方の覇権を確立していきます。
長篠城を守り抜いた奥平信昌に対して、家康の長女・亀姫を信昌の正室とするという異例の厚遇がありました。なお「信昌」という名については、信長の偏諱(「信」の字を贈ること)によるとする説が知られていますが、武田信玄の「信」を受け継いだとする研究もあり、現在も諸説あります。いずれにせよ、長篠城防衛の功績がいかに高く評価されたかを物語っています。
武田家はこの後、家臣団の離反が相次ぎ、1582年(天正10年)の甲州征伐で信長・家康・北条の三方から攻められます。勝頼は天目山で自害し、戦国最強と謳われた武田家は滅亡しました。

長篠の戦いから7年後に武田家は滅亡しちゃうんだ。でも同じ1582年に、信長も本能寺の変で明智光秀に討たれている。戦国時代って、勝者も敗者もあっという間に運命が変わる時代だったんだね。
テストに出るポイント
テストで「長篠の戦い」が問われるときは、「1575年」「鉄砲」「馬防柵」の3つがセットで出題されることが多いです。

「三段撃ち」について記述式で書くときは注意が必要だよ。最新の教科書では記載が削除されていることが多いから、「信長が鉄砲を大量に使った」という表現にしておくのが無難だね。共通テストでは正誤問題で問われることもあるので、「三段撃ちは諸説ある」ことを頭に入れておこう!
よくある質問(FAQ)
1575年(天正3年)5月21日、三河国設楽原(現在の愛知県新城市)で起きました。織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍が激突した戦いです。
「ウソ」とは断言できませんが、一次史料『信長公記』に三段撃ちの記述はなく、後世の軍記物『甫庵信長記』に由来するとされています。鉄砲を大量に使用したこと自体は史実ですが、「3列に並んで交互に撃った」という具体的な方法は、現在の研究では懐疑的に見られています。
長篠城の攻囲が長引く中、信長・家康の援軍が到着したことで撤退すれば武田家の威信が傷つくという判断があったとされています。宿老(山県昌景ら)は退却を勧めたとも伝えられており、勝頼が父・信玄の後継者として「勝利」を求めた結果とする見方もあります。ただし諸説あり、確定的ではありません。
長篠城を守る奥平信昌の家臣(足軽)です。武田軍の包囲網を脱出して岡崎城へ援軍要請に赴き、帰路に武田軍に捕えられながらも城内の仲間へ「援軍が来るぞ!」と叫んで磔になりました。その壮絶な忠義が戦国時代を代表するエピソードとして語り継がれています。
長篠の戦いで馬場信春・山県昌景・内藤昌豊ら多くの重臣が討ち死にし、武田家の軍事力が著しく低下しました。その後、家臣団の離反が相次ぎ、1582年(天正10年)の甲州征伐で武田勝頼は天目山で自害し、武田家は滅亡しました。長篠の戦いは武田家滅亡の遠因となった決定的な敗北と位置づけられています。
長篠の戦いについてもっと詳しく知りたい人へ
①「三段撃ちってホントにあったの?」を速習したい人はこれ。最新研究に基づく中公新書だから、信頼度も抜群だよ!
① 速習向け
②武田勝頼の視点から深掘りしたい人はこちら。吉川弘文館「敗者の日本史」シリーズで、歴史家・平山優さんが一次史料を徹底検証した本格派!
② 深掘り向け
③信長をもっと身近に感じたい人には現代語訳の一次史料を。長篠の戦いの記述もある「信長公記」を現代語でスラスラ読めるよ!
③ 読み物向け
まとめ:長篠の戦いのポイント

以上、長篠の戦いのまとめでした!「三段撃ち」のウラ話は面白かったよね。歴史って、教科書の定説が覆されることもあるから、最新の研究にも目を向けていくと、もっと面白くなるよ!下の関連記事もあわせて読んでみてね!
-
1573年武田信玄が陣中で病死。武田勝頼が家督を相続
-
1574年勝頼が高天神城(遠江国)を攻略。武田家の勢いを示す
-
1575年4月武田勝頼が長篠城(三河国)を攻囲。奥平信昌が約500人で籠城
-
1575年5月中旬鳥居強右衛門が長篠城を脱出、岡崎城で援軍要請に成功。帰路に武田軍に捕縛・磔死
-
1575年5月21日長篠の戦い(設楽原の戦い)。信長・家康連合軍が武田軍を大破
-
1575年以降武田家の衰退が始まる。家臣団の離反が相次ぐ
-
1582年甲州征伐。武田勝頼が天目山で自害し、武田家が滅亡。同年、本能寺の変で織田信長も討ち死に
あわせて読みたい記事
📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「長篠の戦い」(2026年4月確認)
コトバンク「長篠の戦い」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
太田牛一著、中川太古訳注『現代語訳 信長公記』新人物往来社
平山優著『長篠合戦と武田勝頼』吉川弘文館、2014年
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
📚 室町・戦国時代の記事をもっと読む → 室町・戦国時代の記事一覧を見る





