今回は、源氏物語を書いたことで有名な紫式部について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
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謎だらけの紫式部
紫式部は、謎の多い女性です。
実は、生まれた日や亡くなった日もわかっていないし、本名すらもわかっていません。
当時は完全な男社会だったので、天皇の妃とか相当高い位の女性でない限り、女性の記録が残されることはほとんどなかったからです。
しかし、幸運にも紫式部は自身で紫式部日記という著書を残していたし、お父さんや旦那さんなどの男性側の記録から紫式部の様子を知ることもできて、ある程度の人物像まではわかっています。
この記事では、そんなヒントを頼りにしながら、紫式部の人物像に迫ってみたいと思います。
紫式部のお父さん、藤原為時
紫式部のお父さんの名は藤原為時。実はとても有能な役人でした。
漢文を得意としていた学者肌な人物で、花山天皇が皇太子の時代にその教育係をしていました。
花山天皇が即位(984年)すると、その縁をきっかけに出世し、式部省の役人と蔵人頭を兼任し、順風満帆な人生を歩んでいました。
式部省は、役人の教育・人事を担っていた部署のこと。
蔵人頭は、今でいう秘書的な仕事のことを言います。
順風満帆な人生を歩んでいた藤原為時でしたが、986年、その人生に逆風が吹き始めます。
花山天皇が、藤原兼家の陰謀によって譲位に追い込まれてしまったのです。(寛和の変)
※譲位:天皇の位を別の者に譲ること
この譲位に合わせて為時もリストラされてしまい、その後10年間、定職に就かない不安定な生活を続けました。
996年、為時が朝廷に「仕事をください!」と必死にお願いした結果、越前国の受領(越前守)に就任することが決まりました。
こうして再び定職を得ましたが、その代償として京を離れた田舎生活を強いられることになります。
当時は、一流貴族たちは平安京に住むのが当たり前で、受領として地方に行くのは中流以下の貴族たちに限られました。・・・つまり、越前への赴任は、藤原為時の没落を暗示していたのです。
父の背中を見て育った紫式部
紫式部の生年月日はわかっていません・・・が、いろんな記録から逆算していくと、おそらく970年頃だろうと言われています。
母は幼い頃からおらず(死別か離別かは不明)、父親の背中を見て育ちました。
紫式部は、父の影響で漢文にたくさん触れる環境で育ち、紫式部自身の恵まれた才能も相まって、幼い頃から漢文の読み書きがスラスラできた・・・と言われています。
幼少期のエピソードとして、こんな話も残されています。
紫式部には、藤原惟規という兄がいました。
ある時、為時が息子(惟規)に漢文を教えますが、惟規は覚えが悪くなかなか漢文を読むことができません。
こんなのいきなり読めって言われても読めないよぉ・・・。
私読めるわ!この漢文はこう読むの!!
ペラペラペラペラペラ・・・
はっ!?
横で話を聞いてるだけなのに、内容を暗記してスラスラ読めるとか天才すぎるだろ・・・。
・・・あぁ、紫式部が男の子だったら将来有望だったのになぁ。
こんな感じで、お父さんが紫式部の才能を知り、女性として生まれたことを嘆いたと言います。この親譲りの卓越した漢文スキルが、源氏物語に登場する数々の名文を生み出したのでした。
996年に父の為時が越前守になった後は、紫式部も越前へと赴き、そこで慣れない田舎生活を始めました。
平安京の煌びやかな生活しか知らない紫式部にとって、越前での生活はカルチャーショックだったに違いありません。
そして田舎での質素な生活は、紫式部に「一族の没落」という厳しい現実を突きつけました。
愛する夫、藤原宣孝
しかし、そのわずか1年後の997年秋、紫式部だけが平安京に戻ることになります。
何があったのかというと、紫式部はとある男性と結婚することになったのです。(結婚したの998年)
結婚相手の名は藤原宣孝。なんと20歳前後も年上の男性でした。おまけに2人の妻を持つ身であり、紫式部は三番目の妻となったのでした。
結婚した経緯はわかっていません。一説には、紫式部に惚れた藤原宣孝から猛烈なアプローチがあったとも言われています。
当時、紫式部は20代後半。今でいうアラサーです。20歳前後で結婚するのが当たり前だった時代、アラサーで未婚というのはかなりの晩婚です。
もしかすると、娘の心配をした父の為時が結婚相手を探した結果、その相手が藤原宣孝だったのかもしれません。
ところが、この結婚生活長くは続きません。1001年、藤原宣孝が他界してしまうのです。
宣孝と紫式部は親と子ほどの年齢差がありましたが、結婚生活は案外幸せだったようです。
というのも、紫式部日記にこう書き残されているからです。
夫が亡くなってから数年の間、涙に暮れた夜を明かし日を暮した。心に思うのは、私と娘(※)の将来のことばかり。
そんな中、私は物語を読んでその感想を友達と語らった。物語だけが私の寂しさを紛らわしてくれた。
※紫式部は、宣孝との間に1人の娘を産んでいたのです。
紫式部は夫が亡くなったことをひどく悲しみ、しばらくの間、塞ぎ込んでしまったのです。結婚の経緯はどうあれ、悲しみに暮れている様子から、なんだかんだで紫式部は幸せな結婚生活を送っていたのだと思われます。
宣孝は、きっと若い女性にもモテるイケおじだったに違いありません!
源氏物語の執筆が始まる
紫式部は、夫が亡くなった寂しさを「物語」で紛らわした・・・と言っています。
この物語がどんな物語だったのかはわかりません。ただ、夫の死をきっかけに紫式部は、物語に強い興味を持つようになりました。
紫式部が、源氏物語を書くようになったのもこの頃でした。(時期については諸説あります。)
ポカンと空いた心の隙間を埋めてくれた物語。その物語を自らの手で書き上げようと決心したのです。
つまり、源氏物語というのは、夫の死を乗り越えようとある種の現実逃避から生まれた作品だったと言えるかもしれません。
紫式部日記
1005年頃、生活に困っていた紫式部は、後宮に就職することになります。後宮っていうのは、天皇の妃や子どもが生活する場所のこと。
当時の天皇は一条天皇であり、紫式部は、その妃の藤原彰子に仕える女房という仕事に就いたのでした。ちなみに、彰子はあの有名な大権力者、藤原道長の娘です。
紫式部がどのような経緯で女房になったかは、わかっていません。一説には、源氏物語が面白いと評判になって、一条天皇や藤原道長の知るところとなり、その文才や教養を見出されてヘッドハンティングされた・・・とも言われています。
妃に仕える女房というのは女性たちにとって憧れの仕事であり、高貴な女性たちが集う場でもありました。紫式部はそんな環境に馴染むことができず、実はすぐに休職してしまいました。
どうやら周囲の女房からは「インテリで知識をひけらかす感じの悪い女」と思われていたようです。紫式部自身も社会経験が少なかったことも馴染めなかった理由の1つでしょう。
ただ、1006年からは職場復帰し、不慣れながらも彰子のために懸命に尽くしました。
1008年、後宮で大事件が起こります。・・・なんと!妃の藤原彰子が男の子を出産したのです。
この男の子は、次の天皇候補にもなる朝廷にとても大切な存在であり、その子育てを手伝うのが女房たちの仕事です。そんな一世一代の大仕事が、女房たちの元へと舞い込んできたのです。
※実際、この男の子は1016年に後一条天皇として即位します。
紫式部は、この大仕事のことを日記に記録することにしました。
こんな貴重な体験、記録しないのはもったいないわ!
こうして書かれたのが、紫式部日記です。
紫式部日記は、1008年〜1010年の約3年間の出来事をメモった日記で、一条天皇・藤原彰子・藤原道長の様子が鮮明に描かれています。
大人気だった源氏物語
紫式部日記には、源氏物語にまつわるエピソードも残されています。
紫式部日記には、1009年に彰子の発案により源氏物語の製本が行われた・・・とあります。
源氏物語は、宮中でも大人気の作品であり、一条天皇や彰子のお気に入りの作品だったのです。
煌びやかな紙がたくさん用意され、紫式部は朝から晩まで源氏物語の清書に没頭します。
日記には、そこに藤原道長がやって来て、紙や筆など執筆道具の差し入れしてくれた・・・と書かれています。
道長も源氏物語には好意的で、金銭面から源氏物語の執筆を支援していたようです。
道長のエピソードはこれだけではありません。
ある時、紫式部の部屋から源氏物語の原稿を持ち去られてしまった・・・と日記に書かれています。
この犯人は、藤原道長でした。道長は娘の妍子にも源氏物語を見せようと、原稿をこっそりと持ち出したのでした。
最初こそ後宮に馴染めずに休職してしまった紫式部ですが、彰子や道長とのやりとりもスムーズで、だいぶ仕事に慣れて来た様子がうかがえます。
紫式部と藤原道長
源氏物語を通じて藤原道長とも交流があった紫式部ですが、日記には2人の怪しい関係を暗示する、なんとも意味深な記録も残っています。
ある時、藤原道長は紫式部に向かってこんな和歌を歌いました。
すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
【現代語訳】
梅の実は酸っぱくて美味しいから、見る人は枝をおらずにはいられない。
源氏物語の作者であるおまえも好きものと評判だ。
それを見て口説かずに見過ごす男はいるだろうか
となります。要するに、藤原道長は紫式部を口説こうとしたのです。
紫式部はこの口説き文句にこう返します。
私には男性経験がありませんの。それなのに一体誰が私を「好きもの」などと言っているのでしょう。心外ですわ・・・。
紫式部は、男性経験がないという理由で、やんわりと藤原道長の誘いを断ったのです。
・・・ただ、この男性経験がないというのは100%嘘です。なぜなら紫式部には子供がいるからです。権力者の道長にはっきりとNO!とは言えないので、ユーモア混じりでやんわりと誘いをお断りしたのです。
このエピソードの次の日記には、さらに意味深な記録が残っています。
とある日の深夜、紫式部の元へ男がやってきて戸を叩く音が聞こえました。紫式部に好意を持っている男性が、夜の営みを求めてやってきたのです。
紫式部は、この誘いを無視して戸を開けることはありませんでしたが、この男というのが藤原道長だったのでは?と言われていて、このエピソードから「藤原道長と紫式部は愛人関係にあったのでは!?」なんていうゴシップ話が生まれたのです。
実際のところ、藤原道長と紫式部がどんな関係だったかはわかりません・・・が、少なくとも藤原道長が紫式部のことを好意的に見ていたことは間違いありません。
紫式部の性格
紫式部は、真面目で負けず嫌いな性格で、どちらかと言えばプライドの高い女性でした。
実は一条天皇には、藤原彰子のほかにもう一人妃がいました。その妃というのが藤原定子という人物です。
定子は1001年に亡くなったので、紫式部が彰子に仕え始めたのは定子の亡き後でした。
定子に仕えていた女房たちは、みんな華やかで貴族たちにとても人気がありました。一方の彰子の女房たちは、内向的で暗い雰囲気が漂っており、定子の女房と比較されて苦しい思いをすることになります。
なんか、彰子様の女房たちは地味でパッとしないしつまらんなぁ。
定子様の時代は、女房たちと話すの楽しかったな・・・。
それでも紫式部は「もっと後宮を良くしていこう!」と前向きに頑張っている様子が、紫式部日記にも書き記されています。
紫式部と清少納言
さて、紫式部の源氏物語と双璧をなす平安文学の代表作が、清少納言が書いた枕草子です。
実は清少納言は、紫式部が比較されて苦しんでいた藤原定子の華やかな女房の1人であり、その女房の中でも筆頭となる存在でした。
・・・つまり、紫式部にとっては絶対に負けられないライバル的存在だったのです。
ただ、ライバルと言っても実際に2人が競い合ったわけではありません。
いろんな男性から「清少納言の方が良かったな〜」と聞かされ続けてきた紫式部が、一方的に清少納言をライバル視するようになったのです。
清少納言なんて、上っ面はいいけど、中身のないスッカラカンな人間よ!
紫式部は、紫式部日記の中で清少納言のことをこれでもかというぐらいボロクソに批判しています。・・・批判というよりももはや悪口に近いです。
とにかく、紫式部が清少納言のことをよく思っていなかったのは確実です。
紫式部の晩年
晩年の紫式部の様子は、ほとんどわかっていません。
紫式部日記には1010年までの記録しか残されておらず、その後の紫式部の様子を知る術がないからです。
1010年以降も女房として働き続けたことは間違いありませんが、いつ女房をやめ、そしていつ亡くなったのかは、いまだに謎に包まれています・・・。
紫式部について知りたいなら、まずは紫式部日記を読むのが一番手っ取り早いです。現代語訳で分かりやすい解説付きの本もあるので、簡単にスラスラ読むことができます。
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