今回は、江戸時代に制定された禁中並公家諸法度について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
禁中並公家諸法度とは
禁中並公家諸法度は、江戸幕府が天皇や公家などの行動を規制するために制定された法のことを言います。
「禁中」っていうのは天皇を意味していて、「並」は英語でいうANDを意味しています。なので、禁中並公家諸法度をわかりやすく言い換えると「天皇と公家を対象にした法」って感じになります。
制定されたのは1615年、2代将軍の徳川秀忠の時代でした。
しかし、政治の実権を握っていたのはその父親で大御所と呼ばれていた徳川家康で、禁中並公家諸法度も、実際に制定に関わっていたのは徳川家康でした。
天皇は古来より別格の存在だったため、天皇の行動を縛るような明文化されたルールはこれまで日本には存在せず、それが暗黙の慣わしとされていました。
・・・が、徳川家康はそんな日本の古くからの慣わしをぶち壊しました。
この意味で、禁中並公家諸法度は日本史上とても画期的な法と言われることもあります。
内容は全然違うけど、現代の皇室典範の先駆け的な存在とも言えます。
禁中並公家諸法度が制定された時代背景
禁中並公家諸法度が制定された理由はシンプルで
天皇・朝廷と大名が結びついて幕府に対して反旗を翻すことを防ぐため
でした。
天皇や朝廷の影響力は奈良・平安時代と比べれば衰退していたものの、江戸時代になってもいまだに無視できない存在だったのです。
戦国時代、織田信長は「天皇をお助けする!」という大義名分を掲げて京都を制圧したし、豊臣秀吉は関白の地位を利用して自らの権勢を世に知らしめました。
なので、徳川家康が天皇・朝廷を掌握したい・・・と思ったのも自然な成り行きだったとも言えます。
禁中並公家諸法度が制定されたきっかけ
公家はともかく、天皇の行動を法で規制するというのは前代未聞だったため、さすがの徳川家康といえども、簡単に法を制定することはできませんでした。
・・・ところが1609年、禁中並公家諸法度制定のきっかけとなる大スキャンダルが起こります。
スキャンダルの舞台になったのは京都。
当時、京には、超絶イケメン&チャラ男の猪熊教利という公家がいました。
猪熊は、朝廷で働く女官たちを口説きまくり毎晩のように女遊びに耽っていました。
ある時、猪熊が他の公家たちも誘い、複数の女官たちと乱◯パーティーをしていて、それが後陽成天皇の耳に入ります。
話を聞いた後陽成天皇はブチギレます。なぜなら、パーティーをしていた女官のなかに後陽成天皇のお気に入りの子がいたからです・・・!
猪熊のことは前から気に食わなかったが、私のお気に入りに手を出すとは、もう我慢できん!!
今回の事件に関わったやつは全員死罪だ!!
・・・が、事件の詳細を調べてみると、多くの公家が乱◯パーティーに関与していることが発覚。
天皇の命令どおり関係者全員を死罪にすると、大変なことになると危惧した江戸幕府は、天皇に圧力をかけて、猪熊を含む首謀者のみを処刑する形で事件を終わらせました。
乱○パーティが天皇や幕府を巻き込む大事件となったことで、幕府はもちろん真面目な公家たちの中からも「風紀を正さなければ朝廷はダメになる!」という意識が高まります。
・・・今だ!
このタイミングなら、反対を受けずに公家や天皇に対する規制を設けることができるぞ!
1613年、江戸幕府はまず、公家たちの振る舞いを正すため公家衆法度という法を制定。
そしてその2年後の1615年、江戸幕府は、公家のみならず天皇や皇族にまで範囲を広げた禁中並公家諸法度を制定することになりました。
禁中並公家諸法度の内容
禁中並公家諸法度は全部で17条から構成されていますが、ここでは教科書「詳説日本史探究」に掲載されている5項目をピックアップして紹介しておきます。
第1条
天子諸芸能の事、第一御学問也。
第1条:天子が身に付けなければならない学問・芸術の中で、第一は学問である。
天皇のあり方を示したのが第一条です。
実は、天皇についてはっきり明言しているのはこの一条だけです。
さすがの家康も、天皇の行動を事細かに法で規制することはできませんでした。
ただ、これまでは天皇について明文化した法が一切存在しなかったので、その意味でこの第一条はとても画期的な内容とも言えます。
第2条
三公の下親王
第1条:三大臣(太政大臣・左大臣・右大臣)の席次は親王より上である。
3大臣っていうのは、朝廷で偉い官職TOP3(太政・左・右大臣)のことで
親王っていうのは天皇の子・孫のうち、天皇から親王の称号を与えられた人のことを言います。
第二条は要するに「たとえ天皇の血を引いている有力者であっても、3大臣の方が立場なら上だから、会議の時に勝手に偉い席に座るんじゃねーぞ」ってことを言っています。
第7条
武家之官位者、可爲公家當官之外事。
第7条:武家の官位は、公家の官位とは別のものとすること。
室町時代以降、武家の中には朝廷に賄賂を渡したり圧力をかけたりして、高い官位をもらう者が増えていました。
すると、本来公家に与えられるはずだった官位を武家が奪う形となり、公家たちの出世が妨げられるようになりました。
その結果、公家のモチベーション低下→風紀の乱れにつながっている・・・と考えられていたのです。
この問題を解決するため、「いっそ官位を武家用と公家用に分けちゃえばいいんじゃね?」ってことで定められたのが第7条です。
禁中並公家諸法度が制定される前から、すでに武家の官位は分けられていたんだけど、それをはっきりと明文化したのが第7条なんだ。
第11条
関白、伝奏、並びに奉行・職事等の申し渡す儀、堂上地下の輩相背くにおいては、流罪たるべきこと。
第11条:関白、武家伝奏や、奉行・職事の命令に背いた公家は流罪とすべき。
難しい言葉がたくさん出てきたので、まずは用語の整理をしておきます。
関白とは、天皇を補佐する側近的ポジションのこと。
武家伝奏とは、江戸幕府の命令・指示を伝える伝令役のこと。
奉行・職事とは、幕府・朝廷の地位の高い役人のこと。
つまり、第11条を超ざっくりとまとめると、「朝廷・幕府の命令に背いた公家は流罪な!」って内容になります。
第16条
紫衣の寺、住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且は臈次を乱し、且は官寺を汚し、甚だ然るべからず。
第16条:紫衣の着用は高徳な一部の僧侶のみに認められ、紫衣を着た僧侶が住職となっている格式ある寺は少なかった。・・・なのに、最近は紫衣の着用許可が簡単に認められてしまっている。これではお寺の品格が落ちてしまうので、今後はしっかりと僧侶の能力を見極めて許可を与えること。
紫衣は選ばれし徳の高い僧侶だけが着用できるもので、その着用を認めるか決定する権限を持っていたのは天皇でした。
しかし、江戸時代になると紫衣の許可が乱発されるようになり、紫衣を着用する僧侶が急増。仏教界では大きな問題となっていました。
そこで幕府は、天皇と朝廷に対して「安易に紫衣の着用を認めるんじゃねーぞ!」と釘を刺したわけです。
徳川家康は、なぜ宗教のことにまで口を出したのかな?
あまり朝廷統制とは関係ない気がするんだけど・・・
寺院は豊富な人材・資金を持っているため、日本の歴史上でも、たびたび権力者を脅かす存在として恐れられてきました。
戦国時代、織田信長は抵抗を続ける比叡山を焼き討ちし、豊臣秀吉は刀狩と検地によって寺院の軍事力・経済力を削ぎました。
そして、徳川家康は、寺院勢力を法の力で幕府のコントロール下においてしまおうと考えていたのです。紫衣について幕府が口出ししたのには、そんな意図がありました。
禁中並公家諸法度の影響・結果
禁中並公家諸法度に書かれているルールは、その後の朝廷運営の基準となり、朝廷は完全に幕府の統制下に置かれることになります。
さらに幕府は武家伝奏を通じて、禁中並公家諸法度に書かれている以外にも多くのことに口出ししてきたため、朝廷は幕府の許可がなければほとんど何もできない状況に陥ってしまいました。
天皇や公家が保有できる所領(禁裏御料(天皇領)・公家領)は幕府によって必要最低限に制限され、
天皇の行幸(※)は原則認められず、
公家たちも花見に外出するためには武家伝奏に報告が必要・・・
などなど、朝廷には禁中並公家諸法度に書かれている以上の制約が課せられることになったのです。
※行幸:天皇が遠くへ外出すること。
こうして幕府のコントロール下に置かれた朝廷は政治的影響力を失い、幕末になるまでの間、朝廷が歴史の表舞台に立つことはなくなっていきました。
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