今回は、1944年に起きたサイパンの戦いについて、わかりやすく丁寧に解説いていくよ!
サイパンの戦いとは
サイパンの戦いは、
サイパン島に攻め込むアメリカ
サイパン島を守る日本
が争った戦いです。
・・・結果は日本の敗北。
サイパン島はアメリカの占領下に置かれ、アメリカによる日本攻撃の重要拠点として利用されるようになりました。
サイパン島の戦いまでの太平洋戦争の流れ
まずは、サイパン島の戦いが起こるまでの太平洋戦争の流れをおさらいしておきましょう!
- 1941年12月太平洋戦争、始まる【真珠湾攻撃・マレー沖海戦】
- 1942年前半日本、連戦連勝!
日本は、太平洋に広大な支配領域(大東亜共栄圏)を手に入れる。
- 1942年6月ミッドウェー海戦で日本大敗
- 1943年2月ガダルカナル島の戦いで日本大敗
まとめると、
1942年前半までは日本優勢。
ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いの2連敗で形勢逆転し、1943年以降は日本が劣勢に立たされた・・・という流れです。
1943年9月、劣勢に立たされた日本は、防衛ラインの縮小を決定します。
日本は1942年前半の連戦連勝で太平洋に広大な占領地域を手に入れていましたが、その一部を放棄することにしたのです。
後退後の防衛ラインは絶対国防圏と名付けられました。
下図の青い線が絶対国防圏です。
・・・しかし、防衛ラインを下げても、アメリカの猛攻を凌ぐことはできません。
アメリカの圧倒的な物量や最新兵器の前に、日本は太刀打ちすることがでなかったのです。
1944年2月、絶対国防圏の重要防衛拠点だったトラック島が大空襲を受けて防衛機能を喪失。
トラック島を無力化したアメリカ軍が次のターゲットに定めたのが、サイパンやグアムがあるマリアナ諸島でした。
一方の日本も、3月〜5月にかけてサイパン島に援軍を次々と送り込み、サイパン島の守備を固めます。
日本は、アメリカのマリアナ諸島侵攻は1944年末だと予想していました。
これまでのアメリカの動きを見ていると、アメリカはマリアナ諸島を攻める前にパラオやフィリピンの攻略を目指すはずだ。
まだ時間はあるから今のうちにサイパンの守備を固めるぞ!
・・・しかし、アメリカはマリアナ諸島への侵攻を計画しており、しかもその時期は6月と日本の想定よりもはるかに早いものでした。
マリアナ諸島・トラック島・パラオの位置関係は次のとおりです↓↓
上の地図を見てわかるように、トラック島を占領したアメリカが次に攻め込んできそうなのは、マリアナ諸島かパラオの2択でした。
日本は侵攻先をパラオに賭けましたが、その予想は外れ、アメリカはマリアナ諸島を選択した・・・というわけです。
サイパン島の戦い、始まる
1944年6月11日、アメリカ軍は日本の制空権を奪うため、マリアナ諸島にある日本の飛行基地への攻撃を開始。
この攻撃によって、日本の航空部隊は壊滅状態となります。
さらに6月13日〜14日にかけて、アメリカ戦艦がサイパン島に接近します。日本の砲台や陣地に砲撃を次々と浴びせ、日本の守備陣に大打撃を与えました。
日本の制空権を奪い、サイパン島の守備陣もボロボロにしてやった。
ここまでやれば、サイパン島への上陸も容易いだろう!
6月15日、アメリカ軍はいよいよサイパン島への上陸作戦を開始します。
一方の日本は、アメリカのサイパン島攻撃は年末だと考えていため、まだ防衛体制がしっかりしておらず、おまけにサイパン島防衛の陸軍司令官だった小畑英良が出張中で不在の状況でした。
※ちなみに、小畑はサイパンに戻ることはなくグアムでアメリカ軍と戦い、命を落としました。
日本は、防衛体制が脆弱でしかも司令官不在のなか、アメリカとの戦いを強いられることになったのです。
日本の防衛体制が弱かった理由は、日本が読みを外した・・・というだけではなく、ほかにも大きく2つの理由がありました。
1つは、サイパン島には基地を建設するための十分な機械や資源が不足していたこと。多くの作業が人力で行われ、建設に時間を要してしまいました。
2つ目は、サイパン島の兵士の多くが実戦未経験の素人だったこと。サイパン島の兵士の数は決して少なかったわけではありませんが、兵士の質に問題がありました。
そんな状態なので、日本はわずか1日でアメリカ軍のサイパン島上陸を許してしまい、サイパン島でアメリカ軍VS日本軍の戦いが始まります。
サイパン島上陸を許しはしたものの、日本は防衛体制が整っていない中で善戦したとも言われています。
多くの兵がやられる中、一部のベテラン部隊が砲撃により上陸するアメリカ兵に大打撃を与え、1日で死傷者2000名の大ダメージを与えました。
アメリカの被害は当初想定していたよりもはるかに被害が大きく、アメリカも決して簡単にサイパン島へ上陸できたわけではありません。
サイパン島の戦いの経過
6月16日、上陸に成功したアメリカ軍は、サイパン島に拠点を築き始め、大量の軍事物資の陸揚げにも成功しました。
・・・この時点で、日本軍は兵力的にも完全不利に立たされます。
6月16日の夜、日本はアメリカ軍の侵攻を阻止するため、戦車による夜襲攻撃を仕掛けます。
・・・が、アメリカの最新の対戦車兵器の前に、装甲の薄い日本戦車では歯が立ちません。
戦車は次々と新兵器のバズーカ砲の的になり、部隊は全滅に追い込まれました。
日本軍を蹴散らしたアメリカ軍は、サイパン島の内部へと侵攻開始。
6月18日にはサイパン島の空港が占領され、サイパン島はアメリカの手に落ちてしまいます。
6月19日、次はマリアナ諸島の周辺で海上戦が始まります。(マリアナ沖海戦)
日本は、ここでアメリカを止めなければ日本本土が危機に直面すると考えて、できる限りの戦力を投入してマリアナ沖でアメリカとの決戦に挑みました。
※このアメリカとの決戦作戦のことを日本は「あ号作戦」と呼びました。(覚える必要はありません)
日本はこのマリアナ沖海戦に大敗。
日本の被害は甚大で、空母3隻を失ったほか、航空機450機以上が撃墜される大損害を被りました。
マリアナの戦力の大部分を失った日本は、サイパン島奪還を断念することを決定。
サイパンは陥落し、アメリカの手に渡ることが確定的となりました。
サイパン島に残された人々
一方で、サイパン島に残された日本兵は、サイパン中央にそびえるタポチョ山に逃げ込んで体制の立て直し、アメリカへの反撃を試みます。
・・・が、この試みは失敗。日本は多くの死傷者を出し、敗戦してしまいます。
さらに6月25日には、サイパン島の市街地でも激戦が繰り広げられますが、ここでも日本は敗北。
度重なる敗北で残された兵力が残りわずかになると、7月、南雲忠一中将は全兵士に対して玉砕覚悟の突撃攻撃を命じます。
今や戦う武器もなく、大砲はことごとく破壊され、戦友も相次いで散っていった。無念である。
国に忠誠を尽くすも、アメリカの猛攻は終わりが見えず、我々がここにいてもアメリカの砲撃によって散っていくのみである。
今や、止まるも死、進むも死、人の生死は天命で決められ抗うことはできないのであるから、今こそ帝国男児の真骨頂を発揮しなければならぬ。
私は残された兵たちと共に、アメリカ軍に一撃を加え、日本を守るための防波堤となってサイパン島に骨を埋めることとする。
生きて捕虜となる辱めを受けることなく、命果てるまで国家のために全力を尽くすべし!
※上の内容はわかりやすく私なりに要約したもので、原文はこちらになります↓↓
サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す、余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし
7月7日、残された兵士たちによる玉砕覚悟の総攻撃が始まります。
この攻撃により、アメリカの歩兵部隊の一部を壊滅状態にまで追い込みますが、その代償として多くの日本兵が命を落とし、戦場には死体の山が築かれました。
日本兵の多くは銃剣や棍棒しか持っておらず、中にはサイパンに住んでいた民間人や、石しか武器を持っていない者までいた・・・と言われています。
生き残った兵たちは、洞窟や草むらに隠れてゲリラ的な抵抗を試みますが、火炎放射による攻撃で次々と蹴散らされ、最終的に日本兵はサイパン島の北端にあるマッピ岬に追い込まれました。
ここまで来たらもはや抵抗できまい。
バンザイ突撃はやめて、いい加減に降伏するんだ!
日本兵はみんな『天皇陛下万歳!』『大日本帝国万歳!』と叫んだ突撃してきたので、アメリカ軍は、日本兵の玉砕覚悟の突撃のことをバンザイ突撃(バンザイアタック)と呼んでいました。
『生きて虜囚の辱を受けず』の信念を曲げない多くの日本兵は、それでも降伏を受け入れず、マッピ岬から海へ続々と飛び降りて、自らの命を絶ちました。
マッピ岬の崖は飛び降りた人々の血で真っ赤に染まり、大量の死体が海に浮かんでいたと言われています。
マッピ岬にある崖は、今でも『バンザイクリフ』と呼ばれていて、慰霊碑が建てられているよ。
参考:サイパン島内観光!戦争の悲劇を感じる北部の歴史スポット_遊んでばかりのスナフキン
バンザイ突撃の後もなお生き残った部隊は、タポチョ山でゲリラ化し、援軍が来るのを信じて1945年に日本が敗戦するまでアメリカに抵抗を続けました。
絶望的な状況の中、終戦した後も援軍を信じてゲリラ化した部隊を率いた大場栄は、アメリカ軍から畏敬の念を込めて「フォックス」と呼ばれ、その活躍は「太平洋の奇跡〜フォックスと呼ばれた男〜」で映画化されているよ。
サイパン島の戦いが与えた影響
日本本土への本格的な空襲が始まる
サイパン島がアメリカの占領されるまでは、日本本土への空襲は局地的なもので、頻度も決して多くありませんでした。
というのも、アメリカの航空拠点が日本本土から遠かったため、簡単に空襲を仕掛けられなかったからです。
・・・しかし、サイパン島は日本本土との距離が近かったため、サイパン島からアメリカの最新爆撃機B-29を発進すれば、日本本土を簡単に空爆することが可能になりました。
サイパン島の戦い以降、日本本土への空襲が本格化し、民間人犠牲者の数が急増しました。
特に、1945年3月10日に実施された東京への空襲は、罹災者が100万人にも及ぶ凄まじい規模で、東京が焦土と化しました。(東京大空襲)
東條英機内閣、解散へ・・・
サイパン島が陥落すれば、日本への空襲が本格化することは、政府も予想をしていました。
だからこそ、アメリカとの決戦作戦「あ号作戦」を発動して、マリアナ諸島でなんとしてもアメリカの進軍を食い止めようとしたんだ。
そのため、サイパン島陥落後、政府内では空襲への対応が議論となり、「アメリカと講和すべきでは?」という案も浮上し始めます。
しかし、当時首相だった東條英機は内閣の意見をまとめきることができず、1944年7月、サイパン島陥落の責任を取る形で内閣を解散。
次の首相には、陸軍出身の小磯国昭が選ばれますが、小磯もまた混乱する政府をまとめ上げることができず、日本の政治は敗戦するまで迷走を続けることになるのです。
確認問題
答:③東條英機
①近衛文麿内閣は、東条内閣の1つ前の内閣
②小磯国昭内閣は、東条内閣が解散した後の内閣
答:①→③→④→②
ミッドウェー海戦→ガダルカナル島の戦いと2回の大敗を受けて、日本は防衛ラインを縮小。縮小後の防衛ラインを絶対国防圏と呼び、サイパン島の戦いによる敗北で絶対国防圏は破られてしまいました。
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