今回は、810年に新しく設置された役職「蔵人頭」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
蔵人頭とは
蔵人頭とは、天皇直属の秘書機関「蔵人所」の実質的な最高責任者のこと。平安時代初期の810年に、嵯峨天皇によって設けられました。
810年当時、嵯峨天皇は、政治や権力のあり方をめぐって平城太上天皇と激しく対立している真っ最中でした。
そんな中、不測の事態に備えて、嵯峨天皇の手足となって動く側近として登場した蔵人頭です。
平城太上天皇と嵯峨天皇の争いが終わった後も、天皇の側近秘書として蔵人頭は残り続け、天皇を裏から支えるとても重要なポジションを担うようになりました。
蔵人頭が置かれた時代背景【平城太上天皇VS嵯峨天皇】
蔵人頭についてしっかりと理解するため、蔵人頭が設置された一年前(809年)にさかのぼって、話を進めていきます。
嵯峨天皇が天皇になったのは809年。病に倒れた平城天皇が譲位を決意し、皇位を嵯峨天皇に譲ったのです。
平城太上天皇は一命を取り留め、次第に体調を回復していきますが、それと同時に嵯峨天皇との対立を深めていきます。
対立の原因は、はっきりとわかっていません。
平城太上天皇が天皇の時に行なった政策を嵯峨天皇が中断してしまったことに、平城太上天皇が不満を持ったのが原因の1つだろうと言われています。
809年12月には、平城太上天皇は平城京に拠点を移し、まるで平城京に朝廷があるかのように、独自の行動をとるようになります。
平城太上天皇は、一度体調不良で天皇を辞めてしまったけど、嵯峨天皇への不満が爆発して、嵯峨天皇を譲位に追い込んで、再び天皇になろう(重祚しよう)と考えた・・・と言われているよ!
蔵人頭が置かれた理由
嵯峨天皇は、牙を剥いた平城太上天皇に対して強い危機感を持ちます。
嵯峨天皇が特に危機感を感じていたのは、平安京の朝廷内にも平城太上天皇の息のかかった貴族たちが一定数いたことでした。
これでは、朝廷内にスパイがいるようなものです。嵯峨天皇が何かしようにも、情報は平城太上天皇に筒抜けかもしれないし、嵯峨天皇の行動を妨害したり裏切ったりするかもしれません。
朝廷内で特に危険人物だったのが、藤原薬子と藤原仲成という2人の人物です。
この二人は兄妹で、兄と妹の関係でした。
この二人はそれぞれ、藤原薬子は尚侍、藤原仲成は参議という役職に就いていました。
このうち、嵯峨天皇にとって一番ヤバかったの尚侍だった藤原薬子です。
尚侍は、天皇に仕える内侍司の長である関係上、天皇の行動を詳しく把握できるし、天皇の命令伝達をわざと遅らせたり、誤った情報を各省に伝たり、命令を握る潰すことすら可能だっただからです。
しかも!藤原薬子は、事もあろうにライバルである平城太上天皇の愛人でもありました・・・!!!
体も心も平城太上天皇と深く結ばれていた藤原薬子が尚侍である限り、嵯峨天皇は迂闊に行動することができなかったのです。
そこで、嵯峨天皇は、810年3月、自分の信頼できるスタッフだけを集めた秘書組織を立ち上げ、藤原薬子にバレずに行動したり、役人に命令をできる体制を整えました。
こうして立ち上げられた天皇直属の秘書組織のことを蔵人所と言い、蔵人所の実質的な最高責任者のことを蔵人頭と言います。
蔵人頭は2名選ばれる仕組みで、設置当初は、藤原冬嗣と巨勢野足の2名が抜擢されました。
その後、810年9月、平城太上天皇がクーデターを企てると、嵯峨天皇はこれを鎮圧。(平城太上天皇の変、又は薬子の変)
こうして、平城太上天皇VS嵯峨天皇の戦いは終わり、蔵人頭も当初の役目を終えました。
しかし、蔵人頭は、この事件の後も残り続け、天皇の側近秘書として活躍し続けることになったのです。
蔵人頭の仕事
蔵人頭の仕事は、主に次のような内容でした。
仕事内容を見てわかるように、蔵人頭の仕事というのは、平城太上天皇の変が終わった後も必要な大事な仕事です。
2番の情報伝達の仕事は、もともと女官である尚侍の仕事でしたが、藤原薬子が問題になってからは、蔵人頭が担うようになりました。
蔵人頭は出世の登竜門!
平城太上天皇の変の後も残り続けた蔵人頭は、貴族たちが出世するための登竜門となりました。
※登竜門:出世や成功を得るために必要な道のりのこと。
朝廷には、政策を決定する最高機関「太政官」という組織があります。
太政官は、左大臣・右大臣・内大臣・大納言・・・などの有力貴族たちによって構成されていて、そこでみんなで意見を出しあって政策を提案していました。そして、太政官で決められた政策が天皇に認められることで、政策が実現し、国が動いていたのです。
太政官に参加できる人のことをまとめて公卿と言いますが、蔵人頭はこの公卿になるための登竜門となります。つまり、蔵人頭に抜擢されて、仕事での活躍が認められれば、その後は公卿に出世できるということです。
そのため、将来有望な人物が蔵人頭に選ばれることも多く、教科書に載っている有名な人物では、藤原良房・藤原基経、そして菅原道真なんかが蔵人頭を経験した上で、出世を果たしています。
蔵人頭の仕事の様子は、平安時代中期に蔵人頭として活躍した藤原行成が書いた権記という日記を読むことで、現代の私たちでも知ることができます。
藤原行成が蔵人頭だった時代は、藤原道長が絶大な権力を誇っていた時代でした。
蔵人頭の仕事は相当な激務だったようで、藤原行成は、一条天皇と藤原道長の家の間を何度も奔走し、両者の関係を支える重要な役目を果たしました。
ちなみに、藤原行成は、和風書道の達人TOP3である三跡の一人として、教科書にも載っている有名人物です。
※権記は難解な内容で、素人には読めない本だったのですが、少し前に読みやすい現代語訳が出版されていましたので、紹介しておきます。興味のある方は是非読んでみてくださいね。
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